②2001年ユーラシアの旅 (陸路一周): 海路上海

新鑑真号(大阪ー上海フェリー)

新鑑真号は大きなフェリーで、大阪ー上海間を2泊3日で運航する。
(※行きは蘇州号だったかも??いずれも似たフェリーでした)

10代でなけなしの貯金を今はなきトラベラーズチェック(サインすると換金できる金券)に変えて乗り込んだ私は、もちろん最下等の底の船室である。船室では普通の布団の半分くらいの幅のほっそい敷布団・掛け布団を与えられ、それが床にずらりと並んだ雑魚寝式であった。そこでは13歳の謎の日本人の中国留学生MMさんや初めて実際に会ったバックパッカーたちがいた。

日本海の揺れは強烈なのだが(この話の最後になるが、帰りの船ではもっと揺れて、多数の船員がトイレで嘔吐しまくっていた)、そんな中、初めての情報収集に興奮しいろいろな話をした。その中には例の手足のない「だるま伝説」もあり、船中で私はすでに中国への到着をビビり始めていた

(だるま伝説は、これまで四桁台はいくであろう世界を旅するコアな旅人達に会ってきたが、誰も「直接の知り合いの話でー」すらも目撃者がいないので、やはり都市伝説と考えられる。)

船内で私は大事なことに気が付いた。

中国のガイドブックを持ってくるのを忘れた!!!!!

当初のプランでは<中国ーチベットー南アジアー中東ーヨーロッパ>の王道ユーラシア横断をする予定でウキウキと出発してきたのだが、旅行人ノート『チベット』は持ってきたのにもうすぐ到着する中国の情報が全くない。もちろん宿も予約もしていない。どうやってチベットにたどり着くんだ??!!!

なお時は2001年なので、デジタルは発達していない。超絶低速でよく回線の切れるネットカフェで長時間頑張って数本メールをするのがぎりぎりの時代であった。わざわざ出発前にHotmailのメールアカウントを開設してきたくらいで、フリーメールの概念自体が一般的ですらなかった。

今インターネットですべての予約や情報が手に入るのは不思議な感じがする。当時の情報収集はスーパー・ローテクで、旅人が集まる宿に置いてある誰かが書き残していった小汚い手書きノートが標準であった

上海着

さて、困った私はとりあえず寄生することにした。同室にいた大人の女性エノモトさんは経験値の高いバックパッカーで、真っ青でうろたえている私を見かねて上海到着後一緒に連れて行ってくれた。彼女はガチパッカーで、私が初めて見る英語の旅行本決定版である、”Lonely Planet”(以下ロンプラ)のぶっとい『China』を持ってきていたので、コピーさせてくれることになった。

初めての一人海外、上海はテンパりどおしであまり記憶がないが、数少ない残っている写真によると2001年の時点では自転車の数がまるで波のように多い。いまでは車だろう。川べりで太極拳をしている人たちがいて、勝手なイメージの中国らしさ感じていた。また最初に驚いたのはよくある話だが、加糖のウーロン茶や緑茶のペットボトルだった。このあたりがカルチャーショックの入り口であった。

北京へ

上海を早々に出て、私はエノモトさんにくっついて、電車で上海から北京に北上した。時は中国の連休中で、切符が買えないという窓口のおばちゃんの「没有(メイヨ―:無い)」攻撃を恐れていたが、幸い乗ることができた。

上海か北京か覚えていないが、駅の公衆トイレは噂の溝式(長い溝が端から端まで掘ってあり、仕切り板だけある、ドアなし)で、衝撃だった。

私は座席に着席してテンションがあがってエノモトさんに何か言ったが、目立つから「外国語で大声で話してはいけない」とやんわり諭されたのは、20年後の今でも(大体)守っているルールである

連休時の首都行きの電車は混雑しており、通路に大量のずた袋を持ち込む人たち、積まれる鳥かご、床に散乱を極めるおやつのひまわりの種の殻、股の部分がパカッと開く服の赤子がそのまま窓からお尻を出してトイレをしていたり、混乱を極めていた。

To be continued...


野宿出身、未だにおよそ野良ですが、まだサバイブしてます。