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ケープタウン、不思議な5杯のカプチーノ

そのカプチーノを最初に飲んだのは、ケープタウンで迎える、1日目の朝だった。

目の前にカプチーノが置かれたとき、一瞬、これはなんだろう……? と思った。

ラテアートでハートを作りたかった、ということはわかる。

でも、上手くハートを描けなかったのか、つぶれた桃のような形になっている。

この春、僕は南アフリカを巡る旅のラストに、港町ケープタウンを訪れていた。

そのホテルのレストランで、朝食のときに差し出されたのが、この不思議なカプチーノだったのだ。

淹れてくれたのは、まだ年若い、男性のウェイター兼バリスタだった。

彼が明るさを湛えた笑顔で、聞いてきたのだ。

「カプチーノは飲みますか?」

そうしてサーブされたのが、この奇妙なラテアートが施された、カプチーノだった。

しかし、飲んでみると、これがすごく美味しい。

甘すぎず、濃すぎず、絶妙に飲み心地の良い、朝にぴったりのカプチーノだった。

そうだ、ラテアートなんてものは、飲んでしまえば関係ないのだ。

僕が綺麗に飲み干すと、それに気づいた彼が近づいてきて、言った。

「カプチーノをもう1杯、いかがですか?」

せっかくなので、貰うことにした。

そして、しばらくして差し出されたカプチーノを見て、僕はびっくりした。

1杯目とは比べものにならないくらい、ラテアートのハートが美しくなっていたのだ。

まだ少しいびつさはあるけれど、そこが独創的な味わいを感じさせて、なかなか悪くない。

今回の2杯目は、ハート作りが上手くいったのかもしれない。

「かわいい……!」

僕が思わず叫ぶと、彼はどこかホッとしたような、嬉しそうな顔になった。

ケープタウンには、3泊の滞在だった。

だから、また明日と明後日、このカプチーノを飲めるのかもしれない。

このケープタウンで、毎朝のささやかな楽しみができた気がして、僕も嬉しかった。

2日目の朝は、ちょっと忙しかった。

この日、喜望峰へ行くバスツアーに参加するというのに、少し朝寝坊してしまったせいで、バスの出発時刻が迫っていたのだ。

僕はオレンジジュースを飲みながら、朝食を忙しなく食べていた。

すると、昨日カプチーノを淹れてくれた彼がテーブルに来て、言った。

「今日もカプチーノを飲みますか?」

僕はありがたく貰うことにした。

あまり時間の余裕はなかったけれど、あの美味しいカプチーノをまた飲みたかった。

それに、彼が今日はどんなハートを作ってくれるのか、それも見てみたかった。

もしかすると、今日はもっと美しいハートを描いてくれるかもしれない。

そんなことを思っていたら、意外に早く、目の前にカプチーノが差し出された。

どうやら、僕は少し期待しすぎてしまったらしく、今日のハートはちょっと退化してしまったようだった。

ハートには見えるけれど、全体的にゆがんでいて、どうにもパッとしない。

そのカプチーノに口をつけながら、あるいは……と思い至った。

僕が忙しそうに朝食を食べているのを見て、彼も急いでカプチーノを淹れてくれたのだろうか?

ハートの形はともあれ、この朝のカプチーノも、味わい深くて美味しかった。

飲み終える頃、感想を聞きに来た彼に、僕は言った。

「あなたの淹れるカプチーノが、僕は好きだと思う」

それを聞くと、彼は弾けるような笑顔になって、喜んだ。

お世辞ではなく、素直な気持ちだった。

美味しいだけでなく、彼の淹れるカプチーノは、不思議と心安らぐのだ。

自由で、気取らず、軽やかで、優しい……。

「ケープタウンには、いつまでいるのですか?」

彼に聞かれ、僕は答えた。

「明日の朝まで」

そのとき、ふっと、旅の終わりの寂しさに包まれていくのを感じた。

ケープタウン3日目、旅の最後の朝だった。

あとは空港へ向かい、飛行機に乗って、日本へと帰るだけだ。

その朝、僕は早めに起きると、ゆっくり朝食をとりながら、旅のあれこれをひとり思い出していた。

すると、彼がいつものように僕のところへ来て、言った。

「カプチーノを淹れましょうか?」

どこかしんみりした気持ちで、カプチーノの到着を待った。

そして、やがて目の前に置かれたカプチーノを見て、僕は思わず感激した。

そのカプチーノには、今までで1番美しいハートが描かれていたからだ。

繊細で、形も整っていて、飲むのがもったいないくらいに綺麗だった。

感嘆の声をあげると、彼も自信に溢れたような表情で喜んだ。

そんな美しいカプチーノを飲んでいると、まるで新しい波が打ち寄せるみたいに、清々しい気持ちに満たされていく自分を感じた。

昨日からずっと、旅が終わる寂しさに包まれていたはずなのに、不思議と、すごく前向きな気持ちになれている自分がいた。

……きっとこの街には、またいつか来ることができる。

温かいカプチーノを飲んでいるうちに、そんな予感がしてきたからかもしれない。

このカプチーノを飲むために、またケープタウンを訪れるのもいいかもしれないな、と思った。

もちろん、その頃にはもう彼はホテルにいないかもしれないし、同じカプチーノは飲めないかもしれない。

でも、たった1杯のカプチーノという、忘れられない思い出を作れたこと。

その小さな記憶が、僕を再びこの街へと、連れてきてくれそうな気もした。

ぼんやりと感慨に耽っていると、彼がテーブルに来て、言った。

「もう1杯、いかがですか?」

僕は答えた。

「最後のカプチーノをください」

そうして差し出されたのが、このカプチーノだった。

なんだか心が和むような、ホッとした気持ちになった。

さっきはあんなに繊細なハートを描けていたのに、今度はどこか豪快な、激しいようなハートが描かれている。

もしかしたら、最後の1杯ということで、万感の思いを込めてハートを作ってくれたのかもしれない。

いや、実際はそんなこともなく、ただその度にハートの形が変わってしまうだけなのかもしれない。

たぶん、僕が彼のカプチーノを好きなのも、完璧を求めることなく、ゆるさを素直に受け入れているような、その気楽さなのだ。

立ち去る彼の背中に、僕は声を掛けた。

「美味しいカプチーノをありがとう」

彼は振り返り、満面の笑顔を浮かべると、すぐに去っていった。

きっと彼にとって、僕はたくさんいる客の一人に過ぎないだろう。

でも、僕にとっての彼は、心惹かれるカプチーノを淹れてくれた「彼」として、ずっと忘れられない存在になっていく。

美しかったりゆがんでいたり、淹れる度に形が変わっていく、不思議なハートを描いてくれる「彼」として。

旅はいつでも、そうなのだ。

思いがけず、どうでもよくて、ほんの何気ない、そんなささやかな出会いが、まるで永遠の宝石のように、心の中で輝き続ける……。

最後のカプチーノを飲み干し、コーヒーカップをソーサーに置くと、かちゃりという音がした。

その瞬間、僕のケープタウンの旅が、静かに終わりを告げた気がした。

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