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ワクワク ヒューストン 悲しき「ウノ」・葬儀等への飛び入り参加

文字数: 15,658字


前書き

 冬休みにテキサス州の知り合いの家に泊めてもらうことにした。「いいよ」ということで出かけた。その時偶然ヒューストンに行くチャンスが訪れた。そして思いもよらない経験をすることになる。私の処女出版の中から数多く引用しながら記すことにした。興味深い内容だと思うからだ。
 本文通りでは必ずしもない。自分で書いた本だから、気にせず書き換えている。版権は自分が持っているから安心だ。
 ということで、最初は自分が秋の学期に過ごしたギラムホールからを出発点として話を進める。

「ギラム刑務所より」

 自分を送り出してくれた学校の教職員に私が書いた手紙の最後を結んだ言葉が見出しの言葉だ。
 感謝祭の1週間の休暇は、まさに刑務所にいるようなものだった。
 妻への手紙から11月25日 13:30にしたためた個所を引用(『  』で示している)してみよう。
 今日からサンクスギビングの休みに入りました。昨日で殆んどの学生が家に帰ったりよそへ行ったりで静かなものです。ルームメイトも昨日急に友達の家に泊めてもらうとのことで、一人寂しく部屋にこもっています。
 朝は昨日の州勅の時持って帰ったガーリックでいためたパン1切れと送ってくれた豆腐の味噌汁とバナナ、昼食はコーヒーを飲みながらさっき買ってきたフランスパン、実に寂しいものです。夕食はt分外で溜めるか何かすると思います。
 ここはまさに刑務所です。外出は簡単にできるけど、中に入るのはいちいち身分証明書を見せないと入れてもらえません。もう嫌な感じです。
 冬休みはテキサスに行くことにして良かったと思います。こんなところに2週間も一人でいたら折角秋の学期がおわってほっとしているのに落ち込むに決まっています
 
 11月24日は、寮全体が騒然としていた。どの学生にも笑顔があった。久しぶりに故郷へ帰ることが出来るからだ。荷物を運び出すt目のカート(荷車)が寮には2台あるが、予約で満杯だ。そのカートが常にエレベーターの真中に威張っている。人間はその周囲で縮こまっている。上りには空車、下りになるとそのカートがはち切れそうなほどだ。みんな窮屈だが文句を言う者など一人もいない。みんな明るい。笑い声。ウキウキしている。
 私はそんな中で、いつもより複雑だ。あのカートと自分は無縁のものだ。みんなは忙しくしていても、私は暇を持て余す。仕方なく部屋でテレビをつけてふて寝だ。手紙を書く気力もない。いつの間にか寝入ってしまう。

  目が覚めると午後5時半。夕食に行こうと廊下に出る。夕食は4時半から6時の間だ。エレベーターに乗る。カートはない。下に降りると人影もまばらだ。食堂に行くと、すぐに人数が分かるほどだ。静かだ。夕食を終えて寮を出る。キャンパスはいつもは学生が多くにぎやかだが、その日は妙にしんとしていた。散歩も楽しくない。仕方なく寮に帰る。フロントの前を通ると、呼び止められる。顔見知りの男だ。私の隣の部屋の住人だ。それなのに身分証明書を見せろという。規則だからというのである。
 私などはギラムホールの住人だからまだいい。自分の部屋で寝起きできるのだから。この1週間という期間に使用できる寮は、このギラムホール1つだけだ。従って、帰る当てのない者、故郷が遠く帰るお金のない者たちは、このギラムホールにやって来る。自分たちの寮が閉鎖されるからだ。彼らにとっては、私以上にギラムホールは刑務所だ。彼らは雑居を強いられる。
 休暇中に一度洗濯をしに地下に降りた。さすがに誰もいない。洗濯機の音だけが騒がしい。待ち時間も、洗濯機の上に座って翌週の予習時間に充てる。いつもよりゆっくりと本に目を通す。と、人の気配だ。しばらく経ってから、私は本から目を離す。
 来るはずと思ったのに、誰も来ない。それなのにやはり人の気配。地価は洗濯室やボイラー室などばかりなので不気味だ。壁に、天井に、大小さまざまなパイプが張り巡らされている。洗濯という用事でもない限り来る気もしない場所だ。それなのに人の気配がする。洗濯を終えてエレベーターへと向う。右目の橋に人影が写った気がする。(私の左目は手術で大方見えない)何気なくそちらに目を向けると、大きな部屋が目に入る。地下倉庫と言った雰囲気だ。その冷たいがらんとして倉庫然とした部屋に何人かの女性が動いている。他の寮の人たちがどの部屋を使っているのかと思っていた。何という気の毒なことだろう。
 休暇中は、私たちは一日いくらで部屋を借りるが、彼らも同じ料金を払ったのだ。ギラムホールの住人で良かった。

サンクスギビングの後の作戦

 休暇中、私は大きな宿題の1つを片付ける心積もりにしていた。あんなア地下ではとても宿題を片付けることはできなかっただろう。事実、私は丸3日かけて、無事その予定していた宿題を仕上げたのである。集中して書いたので、タイプ用紙20数枚を埋め尽くすのは、そんなに困難なことではなかった。ありがたい休暇で、私にとっても呪医通りのサンクスギビングの休暇となった。
 そんなわけで、私は冬休みにはどんなことをしても、どこかへ転がり込む子気持ちになっていた。あちこち打診していたが、私は南部へ行ってみたかった。北の方はミシガン大学である程度経験していたし、中部はこのインディアナ、西海岸はシアトル、サンフランシスコ、ロサンジェルス、サンディエゴへと行ったことがあったが、南部はまだ行ったことがなかった。また、この機会を逃すともうできないことだと思ったからである。そういうわけで、私はテキサス州をターゲットにして手紙を書いていた。
 ミシガン大学留学中、毎日曜日の朝私をピックアップしてくれたフォスター一家は、当時テキサス州テンプルに在住していたし、私の勤務していた高校に教師として赴任していたミス・コリンズの実家がヒューストンにあったのである。両者共、快諾してくれた。寮の部屋に殆んど同じ時期に電話がかかってきた。「いつまでいても良いから、是非来なさい」という彼らの電話は、私を小躍りさせた。

ホワイトクリスマス到来

 秋の学期の私の全ての試験は、12月16日に終了した。
 さあ、待ちに待った冬休みだ。試験が終了した者たちが、待ちきれないとばかりに動き出す。あの2台のカートがまた活躍を始め、えれべーーたーを占拠する。サンクスギビングの休暇の時より荷物は高く積まれている。私の飛行機は22日のものなので、私は相変わらず暇を持て余す。ルームメイトは試験が終わると、そそくさと日本に帰って行った。家族と持ちを食べるためである。
 16日の夕方からチラチラ雪が降って来た。夜の9時半に最後の答案を提出して教室を出ると、もう外は銀世界で、歩くと足跡がきれいにつき、試験終了のすっきりした気持ちを代弁してくれているようだった。

 しんしんと雪が降ると、ホワイトクリスマスの到来に期待したくなるところだが、それは困るのだ。インディアナポリス空港から飛行機が飛ぶまで待ってくれ。テキサスは温かいから飛びさえすれば、冬休みは万々歳だから。寒さを忘れた利そんなことを考えていた、寮までの道のりだった。
 12月18日でギラムホールは閉鎖となる予定だったが、ハウジング・オフィスに泣きついて、22日までの滞在の特別許可をもらった。故郷を目指しての移動は18日まで続き、急激な静寂がまたギラムホールを包み込んだ。でも今度は明るい。余裕がある。9日に着いた荷物のせいだっただろうか。兄が日本食を送ってくれていたのだ。寮の食事からはしばらくおさらばできるからだったのだろうか。ミシガン大学の食事は良かったが、ここのはまずい。
 サンクスギビングの休暇中、一人分の肉を分けてくれるユダヤ人の小売店を見つけていた。鍋底一杯に広がるほどの牛肉が3~4ドルで手に入り、ステーキのと馳走が食べられる。街にはクリスマスの雰囲気が盛り上がる。家々の庭に飾られたクリスマスツリーや、デコレーションが心をウキウキさせてくれたからだったのだろうか。いつも行く銀行は入り口の隣に大きなツリーを飾り付けてあったし、裁判所の屋根にはいりゅみネーションが夜空に映えていた。それともやはりテキサスへ行くということが、このギラム刑務所から出られるということが、私の気持ちを楽にさせてくれたのだろうか。
 16日に振り出した雪はその後も降り続け、1981年のクリスマスは確実にホワイトクリスマスだ。私はテレホートで買った綿入れの防寒服とブーツ姿で、街の雰囲気を楽しんだ。もう30センチは積もっただろうか。吹き溜まりに足を突っ込むとズボッと足が埋まる。気温も18日にマイナス13度にまで下がっていた。駐車場では、車をわざと滑らせて遊んでいるグループがあった。
 12月22日は幸いに気温が上がって3度となっていた。ダラスは7度、オースチンは21度。とのことだったので、防寒服はやめて、綿入れのチョッキをセーターの上に、ブーツも辞めてスニーカーに履き替えて、朝9時55分テレホート発のグレイハウンドのバスターミナルにいた。
 バスターミナルはどす黒く汚れていた。ピストルをもった警官が2人1組で巡回していた。私がキョロキョロしているとタクシーの客引きが出た。
 「いや、jここから歩いてすぐのところに行くのだからタクシーはいらない」
 この手のタクシーに乗ると、2倍も3倍もぼられる。下手をすれば事件になることもある。
 私は知った道を歩くような調子で歩き始める。空港までは、市バスを利用することにしていた。市バスの乗り場はこのターミナルにないことは、見てすぐわかる。仕方なく、ターミナルの外に出ようと歩く。目の前をおばさんが歩いている。
  「すみませんが、市バス乗り場はどこでしょうか。空港へ行きたいのですが」

親切なおばさん

 アメリカには親切な人が多い。どこにでもいる。悪い人々も多い。彼らもどこにでもいる。親切な人を見分けることが出来れば、アメリカの旅行は快適だ。それが出来なければ、一寸先は闇といえる場合だってある。怖い場所も多い。怖い場所を見分けるコツが分かれば、アメリカの旅行は恐れることはない。それが出来なければ、身の安全は保障できない。
 おばさんは暖かそうな毛皮のコートを着ていた。私を不気味な存在だと思ったかもしれない。前日まで大雪が降り、零下十度近かったのに、私の服装といえば、セーターにチョッキ、下はジーパンにスニーカーだったのだから。「好み可否をあそこでこっちに曲がって、その後あっちに曲がって・・・」と歩きながら親切に教えてくれていたが、私にはさっぱり整理できない。方向音痴の私には、無理難題を吹っ掛けれれているようなものだ。このおばさんが日本語で言ってくれたってわかりゃしない、と思いながらも耳を傾け理解しようとする。
 「同じ方向だから途中まで一緒に行ってあげましょう」
 助かった!
 おばさんと積もった雪の話や、ホワイトクリスマスになって良かったですね、世間話だ。私は今からテキサス州へ行くので、この服装では今は寒いけど、南へ行ったら汗が出るでしょうね、などと話す。そのうちおばさんが、ここがバス停よ、と教えてくれる。わざわざそおこまで送ってくれたのだ。なるほどこれでは道を教えるのも覚えるのも大変だ。きっと一人ではたどり着けなかっただろう、と思った。
 「××番のバスに乗るのよ」
 丁寧に感謝を伝えてお別れした。
 私は近づいてくるバスの番号を見ようと前へ出る。違う路線だ。ふと振り返るとまだおばさんがそこにいた。
 「バスに乗る時、空港に行く聞いて乗ります乗りますから、 もう大丈夫ですよ」
 「いいえね。日本のゆな遠い国からわざわざ私たちの国に来て下さったのに、もしバスを間違えたら申し訳ないでしょう。だからバスが車で一緒にまたせてちょうだい」
 恐れ入った。こういう徹底的に親切な人がアメリカには多い。
 (私はテレ東の「YOUは何しに日本へ」という番組の大ファンだ。そこには同じように親切な日本人にたくさん出くわす。そしてこのおばさんの話を思い出す。書ききれないほど親切なアメリカ人にお会いしたが、noteの記事で扱ったもう一人の話はどこかの記事で書いた覚えがあるが、思い出せないでいる。見つけ次第お知らせするつもりでいる。処女作の本には、このおばさんの記述の中に挟んでもう一人の話を入れているが、重なりそうなので一応省いておばさんの話の続きを書き記す)
 
この親切なおばさんがどこまで親切だったかを次の「クリスマスプレゼント」でお伝えしたい。

裁判所のイリュミネーション

クリスマスプレゼント

 バスはなかなか来なかった。市バスは入れ替わり立ち替わりそのバス停に停車した。そして客を乗せたり下ろしたりしてそこを去って行った。雪はやみ、気温は3度とはいえ、軽装の私には寒い。おばさんとの話も途絶えがちになる。それでもおばさんは、私を無事空港行きのバスに乗せるまではそこを立ち去らないことに決めている。私は心底から身体が冷え切って、おばさんには悪いがタクシーで行こうかと思ったりもする。たっぷり時間の余裕を見ていて良かった。そのうち一人の黒人が来る。背が高くすらっとした立ち姿だ。話を聞くと、彼も空港に行くつもりだ。
 「今まで30分も待っているのにまだ来ないんだ」
 「じゃあ、もうじき来るだろう」

 あれから1時間近く経った。バス停で待つ人々は次々と市バスに吸い込まれ、私たち3人だけが彼らを見送る。今度こそと思って覗き込む市バスの番号は、無情にも期待のナンバーではない。私の乗る予定の飛行機の時間まであとわずかだ。あと10分だけ待とう。それで来なければ、おばさんには悪いけどタクシーにしよう。
 「あなた、このタクシーで行きなさい」
 いつの間にかおばさんが1台のタクシーを止めている。私はそれに乗り込もうと1歩前へ出る。おばさんがいきなり私の手に紙切れを掴ます。みると10ドル紙幣。
 「これ、私からのクリスマスプレゼントよ。楽しい旅をして下さいね」
 寒さは一度に吹き飛んでしまった。心の底から温かい泉が沸き上がる。タクシーに乗り込みながらあの黒人に声をかける。おばさんに手を振る。もうおばさんは歩き始めている。
 「助かったよ」と黒人青年。
 「いや、あのおばさんのクリスマスプレゼントなんだよ」
 タクシーはもう空港を目指している。おばさんの名前くらい聞いておけばよかった。
 私は毎年クリスマスが近づくと必ず、このインディアナポリスのおばさんを思い出す。帰国してから、クラスの生徒たちにこのおばさんの話をした。私の寒い身体を温めるほどのあの親切なおばさんへの、私のせめてもの恩返しだと思ってのことだ。

再  会

 (この項で扱うフォスター家の方々については、「留学ってきつい、楽しい その1」で最後の「アートフェア」の最後の2枚の写真が私を含めたものだ。1970年と1981年の2枚だ)

 会うことはないと思っていた人たちに再会するというのは素晴らしい体験だ。
 飛行機がテキサス州テンプルに着陸した。通路を通って広い場所に出ると、出迎えの人々がうごめいていた。フォスター一家を見つけることはそんなに困難ではなかった。10年という長い時間の経過はあるものの、時には写真のやりとりもしていた。クリスマスカードは今でも交換している。当時私は最初に会った20代から30代になっていた。フォスター家の子供たちも大きく成長していた。長女が中1、長男が小5になっておりその成長ぶりが時間の経過を明確に表していた。私たちは抱き合って再会を喜んだ。
 彼らの住んでいる町は典型的な住宅地だった。大人の背丈ほどもあるクリスマスツリーがリビングにでんと飾られていた。その下にはたくさんのプレゼントが置いてあった。
 「君をディープサウスに連れて行ってやるよ」
 思いもよらぬ幸運だ。アメリカの深南部に行くというのだ。その代表格のミシシッピー州にはドンの両親が住んでおり、その年のクリスマスの日に全家族が集まることにしているのだという。トム・ソーヤ―に会えるかもしれないのだ。

拘置所に飛び入り

 出発の日、一家の知人が入れられている拘置所を訪問する。飛び入り参加の始まりだった。荷物のチェックとボディーチェックを受けて面会だ。他にも面会に来ている人たちがいた。廊下があり、各個室の窓が廊下に面している。小さな穴だけがその内側と外側とをつないでいる。部屋の広さは3畳くらいだっただろうか。中には20歳を少し過ぎた青年がいた。
 彼は涙を流して面会を喜んでいた。気が弱いのが災いしたのだそうだ。フォスター家の人々が、一人一人穴の開いた窓口に手のひらを当てる。中の青年も手を当てる。4人が手を当てる頃には青年の顔は涙でクシャクシャだ。私はそこに一緒にいるのがいたたまれなかった。私がいるのが場違いな感じだ。日本人だったら、果たして私のような者をそんなところに連れて行くだろうか。アメリカ人の心の広さの表れなのだろうか。

二つ目の飛び入りの始まり

 妻への手紙の一部を引用する。
 『12/28 9:30
 今朝はここヒューストンはなかなかの暑さです。
 22日テンプル着。23日朝おじさん死亡の電話。24日朝姪が交通事故で重傷の電話。24日夜ヒューストンに到着。親戚の家に2泊。25日親戚全体が集まってクリスマスディナー。とてもおいしかったです。そのディナー中に姪の死亡の報。何というタイミングでテキサスに来てしまったのかといった感じ。26日はミシシッピーの予定が、一日奥さんの妹のところにいることになりぼんやり過ごしてしまった・・・』
 ミシシッピー訪問というメインテーマは露と消えた。せめてもの慰めは、テンプルからヒューストンまでの車の旅だった。
 それは今まで見て知っていたアメリカのどの車窓からの眺望とも違っていた。ロサンジェルスからサンディエゴ間は荒野が延々と広がりを見せる中を、高速道路が1本走っていた。夏に訪れたデトロイトからナイアガラまでは一面緑の広がり。ハワイでは車の中まで忍び込んでくる甘酸っぱいパイナップルの香り。むせかえるような香りを放つ見渡す限りの砂糖ギビ畑。インディアナ州テレホート(留学先)からニューヨークまでの旅では途中通過したピッツバーグの美しい夜景、留学先周辺の中西部では、どこまで走っても小麦畑がこれでもかと目に飛び込んできた。
 テキサスの眺めはそれらとは全く異なっていた。土の色からして違った。焦げ茶色だ。見渡す限り続くのだ。その景色の中に思い出したようにポツンと一軒、そしてまた一軒と家が見え、車が走っていることが確認される。焦げ茶色の土に、保護色と見まがうような馬がいる。白っぽい色が目に入る。よく見ると牛だ。新鮮な眺めだ。
 ヒューストンに着いてからはもっぱら親戚巡りだ。どの家でもドンの姪の話で持ち切りだ。暴走族に車をぶつけられたのだ。着いてすぐ入院先へ行く。打ちひしがれた顔。悲しみと憂いに満ちた母親。彼女を抱くドンと奥さんのバーブ。そばにいるだけで辛い。姪は手術中だ。
 「こんなことになって、折角の旅を台無しにしてごめんなさい」
 ドンの姉は私にそう一言だけ言った。
 次の日のクリスマスの夕食は大晩餐会となった。総勢20数名。食膳の祈りの中で重傷の娘のことに触れなければ、そんな難問を抱えている家族にはとても見えない。ドンの姉一家がいないことが残念だ
 宴もたけなわといった時、電話が鳴る。その家の主が受話器を取る。皆の眼が彼の顔に注がれる。皆の耳が電話のやり取りに集中する。その電話はすぐに切れる。
 「ダメだったよ」
 賑やかさは一転して静寂。
 「せっかくの旅がこんなことになってごめんよ」
 「アイム テリブリー ソーリー」
 私に言える精一杯の言葉だ。
 26日は、バーヴの妹さん一家と過ごした。何でも見てやろうと好奇心旺盛な私も、さすがにその日はドンと行動を共にする勇気がなかった。彼は一緒に来てみないかと誘ってくれたが断った。
 翌日、ドン一家はフューネラル・チャーチ(葬儀専門の教会)に行くから一緒に行こう、と私を誘う。気が進まなかったが断る気にもなれなかった。
 部屋にはキャスケット(棺)が安置してある。白雪姫が寝ていたあの箱と同じだ。親戚、知人、友人が入れ替わり立ち替わり最後の別れにやって来る。私も後に続いた。そこに寝ていたのは、現代版白雪姫だ。美しく化粧をして、美しい衣装を身につけた上半身がみえる。
 白雪姫は目を覚まさない。しっかりと寝たままで、誰が自分を見ているのかさえ分からない。話し声も聞こえないのだ。私と初対面なのに何の反応も示さない。それだけが私にとっては彼女の死を感じさせるものだ。部屋のそこここでひそひそ話だ。生前の彼女が話題だ。私は悲しみの邪魔をしたくなかった。ドンが私を紹介するたびに、弔問に来た人たちの悲しみがそがれる気がした。
 私はそっと部屋を出る。廊下のベンチに腰掛ける。スーツでも着てテキサスへ来ればよかった。テレホートを出た時と同じセーターを着て思う。しばらくして教会の中を見て回る。隣にも部屋がある。そこには訪れる人はいない。奥には別の白雪姫でもいるのだろうか。同じようなキャスケットが置いてある。中に入って確認したい衝動に駆られる。一歩、そしてまた一歩と足を踏み入れてみるが、そこまでだ。廊下に出て最初の部屋を覗く。ドンたちはまだ話をしている。また、ベンチに戻る。
 午後は連れだって死者の実家への弔問だ。アメリカにしてはそんなに大きくない2軒続きの家だ。もう部屋の中は人が一杯で座る場所もない。誰かが床に座って席を開けてくれた。
 ミシシッピーからドンの両親がかけつけていた。「これを食べてみなさい。わしの手作りじゃよ」
 少し塩味の聞いた燻製のヴェニスン(鹿肉)だ。初めて食べるこの味は、印象深い。彼が私に食べさせようとわざわざ自分で作っていてくれたミシシッピーの味だ。香りもミシシッピーのものだ。
 「気の毒したな。これをミシシッピーで食べると最高なんだが」
 私がおいしいおいしいと言って食べると次々に手渡してくれた。そこには悲しみの塩味が感じられた。
 弔問客は各々食物を持参してくる。このアパートは1階がL字型のリビングで14畳ほどだ。そのリビングにキッチンがくっついている。階段を上がると、比較的狭い寝室が2部屋肩を並べている。廊下も狭く、日本のアパートを思い出す。混雑していたから狭く感じたのだろうか。空間にも悲しみが詰まっていたから狭く感じたのだろうか。近所の人たちだろうか。訪れては帰って行く。娘の母親がそのたびに立ち上がって挨拶だ。それ以外は、彼女はテーブルに肘をついてじっと座る。父親は立ち上がる気力もない。
 私たちが訪れると、その家にいた人たちに救われたような表情があった。話題に行き詰っていたからだろうか。ヴェニスンのこと、日本のこと、私の勉強のことへと話題が移る。しかしそれもほんのわずかだ。すぐに重い空気が話題を押しつぶす。

悲しみの「ウノ」

 2時間くらい経っただろうか。母親は弔問客の中の子供にお金を持たせて何か買いに行かせた。子供が走って出て行く。10分ほどして子供が戻って来ると、母親は声をかけて私たちをテーブルにつかせる。ウノ(UNO)をするというのだ。今でこそ日本国民知らぬ人がいない(かも知れない)ほどの知名度のカードゲームだ。私はこの時が初めてのウノゲームだ。
 ドンもバーブもいる。娘のドナも息子のアイヴァンも加わる。他にも親戚縁者が座る。10数名が座ってウノの開始だ。
 私はこんな時にゲームをすることが理解できない。楽しいわけがない。ハプニングが起こり、時折軽い笑いが起こる。その笑いも空中に立ち込める悲しみに押しつぶされる。順番が巡るのは速い。ボヤっとしているとすぐに自分の順番だ。人数が多いせいか、なかなかゲームに終止符が付かない。やがて、一巡するのに時間がかかるようになる。娘を失くした母親が原因だ。彼女は自分の順番が来たことに気づかない。どこを見るともなく、中空を見つめている。誰も順番が来たことを教えない。黙って待つ。みんな彼女のためにゲームをしているようなものだ。彼女は涙も見せずに頑張っているのだ。
 「おばさんの番だよ」
 アイヴァンがついに声をかける。ハッとして彼女は「ありがとう」といいながらカードを出す。一周するとまたストップだ。別な子がおばさんに声をかけようとする。大人たちはいっせいにその子に目で合図する。「声をかけちゃだめだよ」「そっとしておいてあげなさい」
 沈黙・・・・。その静けさで自分の番が来たことに気づく悲しみの人。30分経っても勝負がつかない。もう、一周するたびにゲームは中断だ。45分経っても終わらない。嘆きの谷間を彷徨う母親が、ついにカードを投げ出した。勝負がつかないままゲームは終了だ。
 彼女の心の葛藤にも勝負がつかない。突然襲った訃報に抗しきれずにいるのだ。母親はキチンに退く。気丈なこの女性の頬を涙が一筋。夫が彼女をそっと抱きしめる。私の席からは、その場所が目の前に見える私は顔を背けて席を立った。そしてヴェニスンをもう一切れ口に入れた。涙と同じ味が口いっぱいに広がったその家を辞した時、外はもう薄暗くなっていた。車の中ではみんな疲れ切っていた。
 私はウノのカードを一式買って帰国した。今はもうしないが、そのカードで毎年正月には妻の実家でウノ大会をしていた。

葬  儀

 12月28日、朝起きると、ドンが私に「今日の葬儀に出席するか」と聞く。私にとってはいうなれば、赤の他人の葬儀だ。しかも礼服どころか、家庭で着ているようなセーターにジーパンだ。日本ならば礼を欠く。「今日はこの家で過ごすよ」と断りを言う。
 「本当はぜひ来てほしいんだ。姉の家族も喜んでくれるはずだ」
 そんな押し問答の繰り返しだ。
 「君を邪魔者扱いなんてしていないんだよ」
 と彼は言いたかったのだと思う。
 結局私が折れて普段着のまま教会へ行く。やはりみんなきちんとしている。来なければよかった。フォスター一家が後ろ指を指されることになったのではなかろうか。それより、自分が恥ずかしい。讃美歌を歌いながら、斜め前方の青年が目に入る。彼も普段着のようなセーター姿だ。ホッとする。
 葬儀が終わるとみんな教会から出た。私はどうしてよいか分からないから、ドンの腰巾着だ。彼が立ち止まれば私も立ち止まる。話が住むまで傍で待つ。そして歩き出す。彼が歩き始めたからだ。
 「今日は君は姪の親戚扱いだから、気にしないで一緒に来さえすればいいんだ。アメリカの葬式なんてめったに見られないから、よく見ておくといいよ。こんなのはニ度と見ない方がいいがね」
 私は朝出かける時、しっかり見ておこうと決めていた。写真を撮るなんてできることではなかったからだ。
 教会の外に出ると車に乗り込んだ。2台の白バイの先導だ。その後20台近くの葬列だ。フォスター一家の車は4台目を走る。「アメリカの葬式はどうだった?」ドンが口を開く。「日本のよりはるかに明るい雰囲気で肩がこらなくて助かりましたよ」そこで日本式の葬式の話になる。
 車はいつの間にか高速道路を走っている。それほどスピードは出していない。時速5,60キロほどの速度だっただろうか。白バイは一台が先頭を走り、もう一台は後ろに下がったり、前方に戻ったり忙しい。他の車に葬列であることを報せているのだ。列の間に他の車が入ろうとすると、列から出てもらっている。合流地点では、バイクの指示に従って、他の車は高速道路の真中で停止して、列の通過を待っている。すごく統制されていることに驚いて、珍しいものを見るようにして、私は車窓から外の車を眺めた。
 高速道路を降りてしばらくすると、前が開ける。広々とした墓地だ。車が止まって50メートルほどゆっくりと歩く。歩いて行く先には、掘り起こしたばかりの大きな穴がぽっかりと口を開けている。映画でよく見かける埋葬の儀式だ。穴の周囲を取り囲む人々が、20台の車から降りてくる。穴の中にキャスケットが収められる。
 牧師が聖書を朗読する。どの個所が読まれたのか全く記憶にない。読まれている間、みんなこうべを垂れている。その後牧師の祈りの声だ。その声だけが静かにその広い墓地に流れる。厳粛。それが終わると、みんな口数少なく各自の車に戻っていく。静かな動きだ。靴の音と、衣擦れの音だけがやけに耳に残る。
 車に乗る前に私はドンに尋ねる。「このあとあれはどうなるんですか?」「みんなが見えなくなってから土をかけるんだ」
 そう言えば、スコップを持って清掃した人が2人いたっけ。振り返ってみる。2人はまだ立ったままこちらを見ている。車は三三五五発進し、墓地を後にする。長い緊張化r解放されたような雰囲気が車の中にみなぎる。

コリンズ一家

 「居心地悪けりゃ遠慮なく電話してくれよ。まだ2日くらい義妹の家にいるから」
 NASA宇宙センターを見学して、ヒューストンの高級住宅地に車を乗りいれながら、ドンは声をかけてくれた。コリンズ夫妻と私が初対面だと知ったからである。
 道路から100メートルほど車で入った林に囲まれた中にコリンズ家があった。その平屋の1軒屋のベルを押す。ミセス・コリンズが姿を見せる。
 「よく来てくださいましたね。大歓迎ですよ」
 ドンとの再度の別れである。今朝家を出る前に、ドナ、バーブ、そしてアイヴァンと抱き合って別れを惜しんでいた。
 コリンズ氏は心臓医だ。背の高いがっしりした体格の紳士だった。1日に診察する患者の数はたったの6,7人ということだった。病院のオフィスには、アイゼンハワー大統領の腕に私が勤務する学校で英語教師として働いていたミス・コリンズが抱かれた家族の写真があった。家族同士の付き合いがあったのだそうだ。家の庭にはリスは勿論、アリクイ、アルマジロ、ラクーンも見ることが出来るとか・・・。

 歩いて行ける距離には、私が訪れた1989年にアメリカ大統領に就任したブッシュ大統領(パパ・ブッシュ)が、レーガン大統領に副大統領として指名されるまで住んでいた家があった。私たちが行った時には誰もいなかったが、当時は大変だったらしい。見物人が引きも切らず訪れ、警察が常駐して大騒ぎだったようだ。
 私は滞在中、毎朝新聞を取りに行った。玄関から道路までの100メートルはコリンズ家の前庭だ。
 こんなことで驚いてはいけない。ある朝散歩に出かけた。歩いて25分ほどの所に建築中の家があったので、見物させてもらった。大工さんによれば、それまで2年かけたということだ。もうすぐ終わりますね、というと、そうだな、あと1年はかかるだろうな、という。総3階建ての家だ。数えただけでバスルームが8つ、階段が各階3つ、建坪840坪、値段は6億円という代物だ。これが本当のマンションという物だ。

 コリンズ氏は私に会うとすぐに、夕方出かけるがついてくるか、と聞いた。私に用事があるわけないから、返事は決まっている。プロバスケットボールの試合を見に行くのだという。座った席は特等席で、会場で最もよい場所だった。本場ものはやはり凄い。その迫力は、留学時代にみた大学の試合とは比べ物にならない。異質の興奮を与えてくれた。ひいきのチームがないのが残念だ。そこで地元ヒューストンのチームを応援することにした。急な思い付きだからなかなか気分が乗ってこない。
 「ターキーッ!(へぼ)」
 いきなりの大声だ。見ると隣に座っていたコリンズ氏が立ち上がって、選手の1人を指して叫んでいる。試合が始まって5分しか経っていなかっただろうか。この一声で、私はコリンズ氏が好きになった。アメリカ人特有の飾らない人柄。彼は試合中何度立ち上がって「ターキー!」を連発しただろう。何度ブーイングをしただろう。私と一緒だということも忘れてしまったみたいだ。ある時は選手を指し、ある時は審判にクレームだ。180センチを超す大男が立ち上がって叫ぶ迫力に、そばに座っていた者が潰されそうだ。
 試合が終わってもなかなか帰ろうとしないコリンズ氏。興奮の余韻に浸っているのだろうか。「駐車場はまだ混雑しているから」と言って立ち上がろうとしない。会場から人波がなくなる頃、ようやく立ち上がる。出口付近に子供たちがたくさんたむろしている。彼も立ち止まる。「ここから選手たちが引き上げてくるんだよ」彼の目を見る。子供たちの眼と同じ輝き。選手が出てくると子供たちはキャーキャー握手を求めたりする。一人の選手が出てくると、「あれがーーだよ」とコリンズ氏は教えてくれる。試合で観たよりもずっと背が高い。彼がいなくなると、コリンズ氏は満足げに駐車場に歩き始めた。彼を見るためにぐずぐずしていただけなのだ。
 1982年の正月はコリンズ家で迎えた。
 妻への手紙から引用する。
 『1/1 10:30
 昨日は皆がビッグベルを聴くというので、12時過ぎまで起きていました。8時にニューヨークの新年を迎えるバカ騒ぎを見てヘンな感じでした。
 この国はあちこちで違う時間に12時になるからやはり広いと感じるのである。で、ここの12時は何があるかというとダウンタウンからポンポンという音が聞こえただけ。デトロイトでは空に向かってピストルをポンポンとならすのだそうです』
 ロサンジェルスが12時になるまで起きていたら、3時まで起きていなければならないので、1時に就寝した。元旦にはコリンズ氏はスーツを着て、患者を診てくるからと出かけてしまった。わたしはと言えば、1日中、ローズボール、オレンジボールなどとテレビにしがみついてフットボールを見続けてしまった。

プロペラ機

この飛行機の全体写真は「留学ってきつい、楽しい その2」の「空飛ぶジェトコースター」で使い回している。この写真しかないからだ。本当はここで使うのが正解だ。その時登場したからだ

 冬休みのヒューストン行きは、長かった勉強の生活からの一時的な脱出であったが、気分を一新させる力があった。キャンパス生活では味わえないアメリカの側面が見られてお金をかけた甲斐があったというものだ。
 11月初めに、旅行社に飛行機の予約に行ったが、そこの男性は約550ドルという値段を提示してきた。約14万円だ。私はその話をご破算にして寮に帰り、翌日服装を替えて、彼の隣の女性に同じ相談をしてみた。彼女も同じ金額を提示したが、私ができるだけ安価で行きたいのだというと、調べてみましょうとのこと。12月中頃になって彼女から連絡があった。切符が取れたという。値段は370ドル(約9万円)というのである。アメリカで旅行するときは、飛行機であれ、バスであれ、もっと安く行けるかもしれないと思ってアタックすると、思わぬ得をすることが多い。
 それはそれとして、帰りのインディアナポリスからテレホートまでの15人乗りのプロペラら機には参った。1月4日はすごい強風の日で飛行機が飛ばないのではないかと思うほどだった。テキサスから戻ってからのインディアナは、軽装の私には寒かった。体が小刻みに震えて、それが止まらないからクタクタになっていた。
 乗った双発機はひどく揺れた。強風にあおられた。500っも滑走すると急角度で上昇する。ジェット機だってそうだが、このプロペラ機の両翼は、まるで下敷きのように揺れる。
 英語には下敷きに当たる単語がない。下敷き文化ではないからだ。あの翼の揺れ方を経由する言葉を私は知らない。あのようなとびかとぉする飛行機の様子を掲揚する言葉も知らない。さながら、レールのないジェットコースターと言ったらよいのだろうか。
 乗客13人は1人として口を開かない。みんな前の座席の背を掴んでじっとしている。「シートベルト着用」サインがつきっぱなしだ。こんな時にシートベルトを外す奴なんかいるものか、とその文字を睨みつける。操縦士と副操縦士だけが談笑している。それを見て安心する。外は何も見えない。ジェット機の高度まではいかないから、天気さえよければ素晴らしい眺望なのだが、いったん曇ると景色どころではない。妻への手紙には『谷底めがけて走るジープの湯だ』と書いてあった。
 この恐怖が焼き付いて、帰国するときはシカゴまでグレイハウンドを利用することにした。シカゴまで飛行機で25分、バスだと6時間+タクシーで1時間近くかかる。しかもばすっ利用の方がお金がかかるのである。

ギラムホールへふたたび

 恐怖の空飛ぶジェットコースターを降りて、テキサスの旅を終えると、私は悔やんパス近くのモーテルで一泊した。翌日の1月5日からしか量がオープンしないからだ。4か月半ぶりのバスタブに2度も入って旅の垢を落とした。寮にはシャワーしかなかったのである。私は次の日に寮に戻った途端に、和すrていた現実に引き戻されていた。
 秋の学期の成績はどうだったのだろうか。果たして春の学期を乗り越えられるのだろうか。秋が3教科であんなに大変だったのに、春は最高限度の4教科だ。
 アメリカ人は普通2教科しかとらない。多くて3教科どまりだ。1教科しか取らない者も大学院生に入る。クラスメイトからは「大変ですね」と言われるのならまだしも、「4教科取るなんてとんでもない。正気の沙汰ではない」などと言われたものだ。6日にオフィスへ出かけ成績のコピーを手にした時の私の喜びは、4か月のあの苦労を重ねたものにしか分からない。
 早速、私のことを心配してくれていた教授のオフィスに成績を見せに出かけた。そのコピーを見て、彼はこちrが嬉しくなるような笑顔を浮かべて、(定番の)”1I'm proud of you!”と言ってくれた。「よくやった、よくやった」とでも訳したらいいのだろうか。

あとがき

 この記事を書いているうちに、ISUからNew Yorkまでのグレイハウンドバスの旅の部分を読み直してみた。自分が書いたのに細かな部分で忘れていたことがたくさんあることに気づいた。そりゃそうだ、出版から34,5年が経過しているのだ。
 私の書いた本は、この処女出版の本は妻宛ての手紙118通を元にして、自分の記憶を上書きしながら書いている。この手紙は、私の留学中の日記なのだ。1通の中に数日分をしたためたこともある。貴重な留学の記録なのだ。
 この記事には「前書き」と「あとがき」を記してみた。出版時の興奮を思い出したかったからだ。



 
 
 



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