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ジェンダーと仕事

 ジェンダーレスって、言葉が時々「胡散臭さ」と思う時があります。性別や性差に囚われないことって、まぁ大事だとは思うですけど、全部を否定することって、もう人類滅んだ方がいいんじゃないという考えにつながると思うからです。

 私はわがままですけど、滅びたくないので、ある程度の「性別」という概念は必要だと思います。ジェンダーレスという考えが大事なら、私はそもそも「仕事で頑張る」ということに意味があると思いません。「仕事」というのはどうしても男性的になることだと思います。利潤(他者に何を与えられるほどの財貨や獲物を稼ぎ、経済的に優位に立つことを可能するもの)を得ることに、集中する。そのためなら、プライベートも、お金も、人間関係もある程度無視して軽んじることが出来る。

 今の時代は、(社会的・生物学的いずれか)女性が、男性に代わって仕事をし、経済的に優位に立つことを結構求められると思います。これをジェンダーレスというなら、大変だなぁと私は思います。今までは男性が占有していた利潤というパイを、女性も持つようになったので、稼げない男性なるものが出てくることに、不思議はないと思います。

 でも、女性が社会進出していくことは良いことだとも思います。誰かに依存しない形で、自身の生活を形作っていくことができるなんて、素晴らしいとも思います。ですがどこかで、そうではない形の生活を送っている人もいて、それによって社会が成り立つことに寄与しているのだとも思います(男は稼ぎ、女性は家にいるという前時代的な価値観が完全に消えないのは、なんででしょうか…)。

 ジェンダーレスって、私はあまりいいものだと思えません。何故なら、想像できないからです。想像力が欠如しているゴミみたいな頭のお前が悪いんだろう、という意見もあるかもしれません。そうかもしれません。ジェンダーレスの先にあるものは、なんでしょうか。それは、あらゆる「役割」からの逸脱だと思います。子供らしくあること。大人らしくあること。男らしくあること。女らしくあること。優秀な人らしくあること。老人らしくあること。若人らしくあること。それらすべての「らしく」振る舞うことの全否定です。

 でも、「らしく」振る舞うことって無くなるのでしょうか。老人が赤子のように振る舞うこと、親が子供を顧みることなく身勝手にふるまうこと、若者が冷め切った目で人生を見つめる事。どれもこれもあり得ることです。でもまさか、「らしくない」なんて言いませんよね?それ、らしさの押し付けですよね。

 と言われてしまうと、どうにも私は苦しい気がします。あらゆる人間は、自身が所属する社会の何かしらの属性を有しているわけです。生まれ。性別。職業。コミュニティ。趣味縁。家族。友達。学校。会社。自身が関係しているものの、何かしらの影響を受けずにはいられない。私たち人間は、きわめて「環境依存的な生物」というわけですね。

 ジェンダーレス、というのはある種「環境依存的な生物」の側面を徐々に否定していくことです。依存していなければならない、というわけではありません。私たちはいかに自由というものを謳おうとも、何かしらの属性という鎖に縛られているということです。今日食べたごはんも、水道から出る水も、諸々のインフラも、天気予報も、社会そのものも、制約であると同時に安定をもたらしてくれる制度であるわけです。だからこれからの時代は、ある程度の自由を確保しつつも、そもそもその自由云々について語ることが出来る(ある種不自由)な「場」を確保しなければならないと感じます。

 男らしくいたくない。けど、仕事は頑張りたい。これは矛盾しているようで、不思議な同居をしてしまうのかもしれません。けど、すごく居心地がいいわけではない。仕事を頑張るということが、男性的でもあるから。女性という性別に囚われたくない。でも、大して働きたくないという場合も、まぁめんどくさいでしょう。

 色々考えていると、よく分からなくなってしまいました。人間って、生きるのに向いていないんでしょうか。でも、そう簡単にくたばってしまうのは嫌だなぁと思います。幸せになりたい、幸せに生きたいなぁ。

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