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人生がつまらなかったはなし

生きていてずっとつまならなかった。

生まれてからずっとというわけではないと思うけど、いつの間にかなんとなく鬱々として人生がつまらないというのがベースになっていた。

楽しいと感じる事が無かったわけではない、面白いアニメを見ている時、カメラをいじっている時など瞬間瞬間で楽しいと感じる事はあった。

けれども「生きる」と言うそれ自体はやはりつまらないのであった。

人生というのは鬱々として辛いもので、その合間合間に楽しい事があるという物だと認識していた。

嵐が吹いているというほど荒れたものではないが、こころの内が晴れず常に曇り空で、時々雲の間から日が差してくるという感じ。

その合間合間の楽しい事や晴れ間に出会い続けていくために趣味に没頭していた。

趣味が楽しくて仕方なく熱中するというのではなくて、生きていて楽しいと感じられる瞬間がそこにしか得られなかった。

趣味を楽しむというより、逃避先としての趣味と言った意味合いの方がはるかに強いだろう。


自分の趣味は何かといわれたらカメラのコレクションだ。

始めたころは楽しくて楽しくて仕方なく、どんどんはまり込んでいった。
そのカメラの仕組みやエピソード、歴史を知ることが楽しく、同じ知識を共有している人たちと交流するのが楽しかった。
けれどのいつの頃からか「楽しくてしかたない」という感覚は薄れてきて「つまらなくはない」という感じになってきた。

楽しいと感じることがカメラくらいしかなかったのに、そのカメラが楽しくないのである。
逃避先の消失、好きなことが楽しいと思えない自分に危機感を感じた。

ではもうつまらないカメラは辞めるかというとそうはならなかった。
せっかく見つけた逃避先が無くなろうとしている、それを維持ためにどうするか?


過激化と先鋭化である。

可処分所得、いやそれ以上の金額をヤフオクにぶち込み、カードで支払いを未来の自分へと託し、カメラを売ってカメラを買う。

成功したかというとTwitter上で
「あのカメラ買ったのwww」「あのレンズはタバさん詳しいはず」「なにまた買ってんすかwww」
という感じの反応をもらえて承認欲求が満たされるのを感じた。
カメラが楽しいというより、カメラを買うことによって趣味のコミュニティで認知してもらうことに意味合いを感じつつあった。

カメラその物への興味などは薄まり、「カメラ買う芸人」として自分の存在を認めてもらえていることに価値を感じたのだろう。

この時期は一度の転職をして、その転職先で全然うまく行っていなかった時期とも重なる。
そういったストレスも趣味を逃避先とすることを一層強めたと思う。
あと単純に金を使うというのは楽しいしね。


転職先で仕事はうまく行かず、年収は当初の説明と違い50万以上下がる、そんなこんなで鬱で会社を辞めた。
そうして実家に帰ったのだが、ある程度するとカメラを買うという「中毒」もなんとなく収まってきた。
元々、実家という場所も落ち着く場所ではなかったのだが「鬱で仕事やめた」というのが効いたのか、何も言わず放っておいてもらえたのがよかったのかもしれない。
実家にあまり居場所を感じたことは無かったが、放ってもらえることによって逆に「居ても問題ないんだな」と感じたような気がする。(メンタル死んでいたのでちょっと色々曖昧)

多少なりとも「居てもいい場所」を確保できたことによりカメラを買い続ける事によって承認を得るという「異常行動」を抑えられたのかなと。
(今も買ってるじゃん、とゆーアレもあるんだけどそれは単純な物欲)


めちゃめちゃ話がそれたんだけど、結局カメラを買うのを辞めたあとも人生は面白くならなかった。

やっぱり気持ちは晴れないし、会社で絡みのない社員に話しかけるときはびくびくするし、慢性的に鬱っぽいのは変わらないまま。

でも「幸せになりたいな」という気持ちはあったのでアラサーになって婚活を始めた。
なんで「幸せになりたい」で婚活なのかというと、周りで結婚した人が幸せそうだったからだ。

何度か交際までは行った。
けれどもそこから先には全く進まない。
交際までは行きつくけどそこから先の親密になっていくという階段を上っていけない。
端的に言うと人づきあいが出来ない。

「ああこの人とは絶対に失敗したくない」とおもいつつ盛大に失敗した。

好きだと思っていた人と上手く行かず、上手く行っていないことに対して焦りだんだんと冷めていった。
別れたあとはショックでショックでご飯が喉を通らなかった、マジで。
「あ、本当に食べられなくなるんだ、比喩表現じゃないだアレ」
と要らないところで感動した。

そんなメンタルが地の底まで沈んでいるときに友人から紹介された著者の本を色々と読んでいた。
正直興味があったからというより、気を紛らわすために読んでいた。

その中で
「気分変調性障害」
という病名が出てきた。

あ、これ俺だ。とピンときた。
この本を読んでいて、いままで感じていた生きづらさがそのまま書いてあった。
「そうそう、それが俺は辛いと思ってきたんだよ、分かってくれるのか君」
思わぬところから理解者が現れたのがとても嬉しかった。
自分の理解者が現れたのと同時になぜその生きづらさを抱えてしまっているのか説明してくれる、それがとても心強かった。

でもぶっちゃけ、この本だけでそういった障害や生きづらさが無くなるとは言えない。
本を読んだからと言って周りの環境が変わる訳ではないし、仕事は相変わらず理不尽にやってくるし親の嫌な部分は変わらない。

けれども自分は相当楽になった。
なぜかというと自分がこうなってしまっているのは「病気の症状」であり自分の責任ではないと気付かされたからだ。
得体のしれない生きづらさに「気分変調性障害」という名前が付き、そのメカニズムを理解したことにより「ああ、そういう仕組みなのね」と敵の姿が分かったので安心出来たのだ。

相手が何をしてくるか分からない相手だとすごく怖いけど、何をしてくるのか分かればそこまで恐れはしない。多少の不安はあるけどね。

周りの環境は変えられなくても、自分の心の姿勢は変えることが出来る。
自分の場合それで結構楽になったし、「不安はあるが、まぁなんとかなるだろう」という感じに多少未来を信じて行けるようになった。

最近自分でも驚くほど職場の人間関係が良好になった、うまくコミュニケーションを取れているという自覚もある。
周りの人も良くしてくれるようになった。
今まで人とやり取りするのに膨大なエネルギーを消費していたのに、急に省エネになった。
人とやり取りしていて素直に楽しいと思えるようになった。

心の曇り空が少し晴れてきた。


俺とあなたに幸あれ。


追記
自分自身が絶対に「気分変調性障害だ!!!」よ認識しているわけじゃ無いよ、診断もらったわけでもないし。
ただそういう傾向があって、あてはまるところがあって、実際に楽になった。というおはなし。

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