「流行を追う馬鹿」と認識と、ひとり寂しく読書する与謝(良さ)
ともかくわたしたちは、この浮き世に縛られています。世間の評価ばかり気にしている。
そこで、釈迦は、浮世のしがらみを断ち切って自由になって一人で歩めと言っています。
仏教徒は本来、世間から飛び出て自由になることを教えています。
それは、出家しろと言っていることです。
でも、お坊さんは、ちゃんと大きな寺院に住み、妻子を持ち、所得税を払っています。
本当の出家とは、ホームレスになることです。
しかし、われわれは、そういう真の意味での「出家」はできません。
ではどうすればいいか?
簡単です。聖徳太子は、世間を馬鹿にすればよいのだと言っています。
われわれは述べたように、世間体ばかり気にして、その奴隷になっているので、その世間自体を馬鹿にすればいいと。
その意味では、ドイツの哲学者、カントはこう言っています。
世間を馬鹿にすることは、世間に向かって喧嘩をふっかけることではありません。
喧嘩をふっかけるということは、それだけ相手を重要視していることになります。
世間を馬鹿にするということは、いちおう世間のやり方に従っておいて、心の中で馬鹿にすればいいと。
流行遅れの馬鹿になるより、流行を追う馬鹿になったほうがよい。
流行というものは、世間に属するものです。そして、懸命なのは、われわれが流行(世間)に反抗しようせずに、ほどほどに流行を追いかけること。
そして心の中では、世間の流行を馬鹿にしてればいいのです。だからカントは「流行を追う馬鹿」と認識しているのです。
知らんぷりしてればいいのです。
「人生の孤独」と「生活の孤独」
人生の孤独:老いること、病むこと、死ぬことは、われわれは軽減させることはできません。
誰も代わってはくれません。
しかし、生活上の孤独は「孤独感」であり、場合によっては軽減できます。
インド人なんかは病気の父親を看護するために六か月間、会社を休んだりできるそうですが日本だとせいぜい一週間ぐらいです。
生活の孤独
松尾芭蕉の 秋深き隣は何をする人ぞ
与謝蕪村の さびしさのうれしくもあり秋の暮
こういう句もいいなぁと思いました。
芭蕉はふと隣人と酒を酌み交わしたくなっても隣人を訪ねては行きません。
蕪村も秋の暮にひとり寂しく読書でもしているのでしょう。 まさに私のニコ生です。
彼らは寂しさを忌避することなくじっくりと寂しさを味わっています。
所詮、人間は孤独なんだから孤独を軽減させようなんて考えず、どっぷりと孤独にひたればよい。
こういう状態はいちがいに不幸と呼ぶべきではないとあります。
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