わたしたちが望む人生の最期

こんにちは、たーまんです。

先日、職場での出来事で思うことがありましたのでnoteに書き起こしていきたいと思います。

みなさんは自分の人生の終わり方、想像したことがありますか?私の基本スタンスは「今を必死に生きる」なので、とても矛盾のある問いかけではあるのですが。

ちなみにわたしは想像したことありませんでした。漠然と寝たように死にたいなーくらいはありましたけれども。


わたしの職場では、時々人が亡くなります。いわゆる高齢者の終の住処と呼ばれている施設なので、そこまで珍しい事ではありません。世間の皆様と比べると少しだけ、人の死というものに近いのです。

たいていの皆様には家族がいて、ある程度仲も良好で、良好でなかったにしろ最期には施設を訪れて、亡くなった本人様と一緒に葬儀場などに向かわれます。

ただ、先日亡くなった利用者様の中に、そうもいかない方がいらっしゃいました。元々家族(息子)との仲が不良で、成年後見制度というものを利用して成年後見人を立てていた方でした。その家族間で昔何が合ったかまでは分からないですが、息子さんはとにかく、その利用者様と関わりたくないというスタンスでした。そしてその方が亡くなった当日。ご家族との連絡が終日取れませんでした。結果として、最期を迎えてから約半日にも渡って体が施設に残されてしまったのです。成年後見人は、家族の同意がなければ動けないようで、手を出さず。最終的には家庭裁判所に連絡して、許可を得て、やっと葬儀場に体を移す、といったような状態でした。長年生きてきた人生の最期が、そんな結末だったのです。

この話を通して、わたしは誰かを責めたりしたい訳ではないのです。息子さんが、自身の親御さんの最期も見届けないなんて無責任だ、なんてそんな事を思うわけではないのです。ただ、こんな最期を誰が想像しただろうかと。そして、どんな時でも決して、ご本人様が望むような形ではなかっただろう。と、そう思うのです。

わたしにも息子がいます。まだまだ小さくて可愛い盛りの歳の子です。この子とわたしの将来に、そんな結末が待っているなんて、誰が想像するでしょうか。そんな寂しいことなんてないじゃないですか。今回の利用者様だって、きっとそうだったはず。あの方は、一体どこで道を間違えてきてしまったのでしょうか。結婚をして、子どもを授かって、幸せで、そこまでは誰しもそうであったはずなのに...

もしかしたらわたしが思うその当たり前ですら、当たり前ではなかったのかもしれません。


人生はいつだって、選択の連続です。わたしがこれから下していく選択の中に、そうなる将来の道が広がっていない保証なんてどこにもない。だから、わたしはこの子との人生を、私の人生を、日々真剣に生きていかねばならんと思うのです。結局はここに帰結するのです。日々日々、一生懸命生きるしかないのです。

想像することも大事ですが、想像を叶えられるかどうかはわたしたちの生き方次第。

どんな最期を迎えたとしても、いい人生だったと、胸を張れるような生き方をしていきたいたいですよね

でも、間違えちゃいけないのは、胸を張るために人生を生きてはいけないということ。日々生き抜いた結果が、胸を張れるものであれたらなと、そう思います。


少し重たい話題でしたが、読んでいただい方がいらっしゃったのなら、本当にありがとうございました。




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