ナゾナゾシリーズ(マガジン)をつくりました:「わかる快楽」と「わからない快楽」をめぐって


どうも、ぺりかんです。こんにちは。
今日はcalinaさんのイラストを拝借。一目ぼれです。こういった鳥のイラストには目がないものでして。ほかにも、樋口たつ乃さんの作品で描かれる鳥やフクロウはたまりません(すべて飾りたい…)。

謎を、謎のままに。不思議を、不思議のままに。

さて、唐突ですがマガジン機能を用いて「ナゾナゾマガジン」を作りました。ぼくのnoteのなかで、「不思議」「謎」について語ったものをまとめるためのものです。コンセプトは、
「謎」を「謎のまま」にしておく”ことの素敵を味わう
です。
謎(を)謎(のままにしておく)マガジン=ナゾナゾマガジン。

答えを出すことは、楽しいし、社会的にも要求されている事柄だといえる。
ぼくもたとえば数学が(苦手だけれど)好きだが、それは、「答えがひとつであること」「その答えにたどり着くためにいろいろなアプローチが存在すること」に面白さを感じるからだ。そして、答えにたどり着けば、嬉しさや達成感を得ることができる。答えを出す快楽だ。

だが見方を変えれば、ひとつ答えを出すことは、自分のなかの「不思議」をひとつ失うということでもある。答えを知ってしまったクイズは味気ないし、結末を知ってしまった小説をまるで初めて読むかのようにスリリングに楽しむことは難しい。答えを出すことは気持ちいいが、そのあとには何が残っているのか。

「わかる快楽」と「わからない快楽」

不思議なこと、わからないこと、謎なことを、そのままの状態で味わうことには、答えを出すこととは別様の快楽がある。答える快楽ではなく、問う快楽。「わかる快楽」ではなく「わからない快楽」。不思議なことを見つけたときの喜び。その謎について頭を悩ませているときの神秘的な時間。答えが見つかったらやはり嬉しいけれど、その「わからない」時間は再び味わうことができない。えてして人は、さらなる不思議を追い求める。

この「不思議」をめぐる話で、僕がとても気に入っているエピソードがある。森博嗣の小説『幻惑の死と使途』の一節だ。いわゆる「SMシリーズ」と呼ばれる、「すべてがFになる」からつづくシリーズの7作目だ。
大学教員である主人公の犀川創平は、学生の西之園萌絵に、自分の幼少期の記憶を語る。

「僕が小さい頃だけどね‥‥‥」犀川はコーヒーカップを持ち上げたまま言った。「毎朝、僕は新聞を取りにいく役だった。家の前にガレージがあって、そこのシャッタに新聞が挟まれているんだ。ガレージには、庭側のドアから入るんだけど、そのドアを閉めると、中は真っ暗。新聞が差し込まれているポストの小さな隙間から、僅かに外の光が漏れているだけだった。外から回って取りにいっても良いのだけど、ある朝、僕は、その暗いガレージから近道を試みたわけだ」

「何のお話ですか?」

「その真っ暗なガレージでね‥‥‥、僕はマジックを見た」
犀川はそう言うとコーヒーカップを口につけて傾ける。それから、それをテーブルに戻し、煙草に火をつけた。動作は白熊のようにゆっくりで、こういうときの彼は、話の面白さに自信があるときだった。

「マジック?」萌絵は身を乗り出して、犀川の話に集中する。

「そう‥‥‥。あんなマジックを見たのは初めてだったね。小学校の低学年のときだったと思う」

「何があったんです?」

「ガレージの壁に、外の風景が映っているんだよ。それも、上下が逆さまになって」

萌絵は一瞬考える。そして、すぐに気がついた。
「ああ、針穴カメラの原理ですか?」

「そう、ポストの隙間から差し込む光で、ガレージの反対側の壁に、外の風景が逆さまに写っていたんだよ。ガレージ自体が大きなカメラになっていて、僕はそのカメラの中にいたんだ。面白かったけど、でも、怖かった。だって、理屈がわからないじゃないか‥‥‥。そのときは、まだ理解できない」

「魔法だと思ったの?」

「いや、自分の知らない法則だと思った」犀川は微笑んだ。「今でも、何か不思議なことに出会うと、自分の知らない法則だと思うことにしている。ときには、世の中の誰も知らない法則かもしれない」

「素敵なお話ですね」

「素敵な話だ」犀川は繰り返す。「とびっきり素敵だ」

森博嗣(2000)『幻惑の死と使途』講談社、pp.284-286

素敵な話だ。
その直後、犀川は次のように述べる

「大人になるほど、こんな素敵は少なくなる。努力して探し回らないと見つからない。このまえ、君は、科学がただの記号だって言ったけど、そのとおりなんだ。記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう?そうしないと、新しい不思議が見つからないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっと凄い不思議に出会えると信じてね‥‥‥。でも、記号なんて、金魚すくいの紙の網みたいにさ、きっと、いつかは破れてしまうだろう。たぶん、それを心のどこかで期待している。金魚すくいをする子供だって、最初から網が破れることを知っているんだよ」

前掲、p286

これに対する萌絵の返答とその後の会話もまたとびっきり素敵なのだが、それを知りたい方はぜひ本書をチェックしてみてほしい。


別の箇所では、現代ではこういった「不思議」を鵜呑みにしなければ生きていけない社会状況にあることが語られる。不思議なことをいちいち考えていられないし、不思議をわざわざ探しまわるような時間もない。現代人は駆けまわっていて、忙しい。不思議ではなく答えが、あるいは回答方法が欲しいのだ。だから、不思議を用意してくれて、答えまで教えてくれるクイズ番組が存在するのかもしれない。

たしかにそうかもしれない。不思議なことを探し回る楽しさは、あくまで僕個人は研究をするプロセスのなかで身に染みているし、その楽しさのためにやっていると言っても過言ではないのだが、だからといってそれをみんなに押しつけたりすることはできない。また偉そうに、「人々は考えることをやめている」だとか「問うことを忘れている」なんて言うこともできない。事実、noteを初めてからわかったことは、「みんなそれぞれ色々な事を不思議に思っているし、問うているし、語りたいことを抱いて生きているのだ」ということだった。
人はみんな(←主語が大きい)「語りたい事」を持っているし、問うている。noteをやっている人はごく一部かもしれないが、そうではない人においても、みな問いを持っていると思えてくる。素晴らしいことだ。

他方で、不思議な事を腰を据えて考え続けたり、不思議を探し回る時間が無かったりすることは一定の事実だろうと思う。駆け回っているあいだに、不思議に思っていたことを忘れてしまうこともあるだろう。だから、備忘録が必要になるのだ。みなさんにとってのnoteは、そういう役割を持つのかもしれない。

「ナゾナゾマガジン」

そして僕なりの備忘録として始めたのが、「ナゾナゾマガジン」ということになる。ぼくのなかで長年の謎/不思議になっていることを書き溜めていくものである。いまだに答えが出ていないものがほとんどとなる。もちろん、「私たちが発見した不思議や謎は、ほぼ、既に研究されているし、答えも導きだされている」。探せばきっと論文や書籍が出てくるだろう。本腰入れればきっと答えがわかるだろう。

だが、もう少しだけ、この不思議を不思議のまま楽しんでいたい。自分の頭の片隅にそっと置き続けて、考えていたい。そんな謎のために用意されたのがこのマガジンだ。まだ2つしかないが、これから増やしていきたい。また、もしよければ読者のみなさんの謎・不思議についてもコメントなどで教えてくれたらとても嬉しい。自分が不思議に思っていることは、誰かも不思議に思っているかもしれない。不思議を分かち合って、いっしょに不思議がることもまた素敵だ。

現在の「ナゾナゾマガジン」には、次の2つのnoteがある。ぜひチェックしてみてほしい。どちらも僕の長年の謎である(2つ目のほうは、謎について書いているうちに「もしかしたら答えかも?」と思われるような思考に至り、しかもそこから別の思考に到達していくような、アクロバットなものになっているが…)



ということで、「ナゾナゾマガジン」スタートのお知らせでございました。
今後ともどうぞよろしく。

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