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なぜ、法に「触れる」というの?(ナゾナゾシリーズ#2)

こんにちは。どうも、ぺりかんです。

ARIKAさんから、クリスタルの画像をお借りしています。前回書いたペリカン万年筆のインク「オリヴィーン」のカラーに雰囲気が似ているというところ、そして今日これからお話する「法」という境界線のイメージに近しいなということで選びました。

さて、今回は第2本目となる「ナゾナゾシリーズ」のnoteになります。
このシリーズについては次のnoteで説明していますので、ぜひチェックしてみてください。「謎」を謎のままにしておくことの素敵さ、豊かさについて考えるものです。リンクはこちら↓


ちなみにマガジンの第1本目では、ぼくが子供のころからずっと不思議に思っている「謎」をとりあげている。まだ答えはわからない。こちらもよかったら読んでみてほしい。↓


法には「触れること」すら許されないのか?

相棒20を見ていたら、右京さんが言っていた。
「あなたの行ったことは、法に触れます」(あまり正確な引用ではない)

法律に違反すること、罪を犯すことを、なぜ法に「触れる」というのか。
法を「破る」という表現ならば、理解できる。
ルールを「破る」、約束を「破る」といった表現と同じようなイメージとして、感覚的に同意できる。

しかし「触れる」だとどうか。
先ほどとうってかわって、ルールに「触れる」とか約束に「触れる」という言い方はしない。
法だけが、触れただけで問題となるようだ。

「ルール違反スレスレ」という表現はある。スレスレという言い方は「触れる」という表現にとても近いニュアンスを持っている。法律違反スレスレ。あとちょっとで触れてしまいそう、抵触してしまいそうな状況が示されている。ちなみに法律違反スレスレとも言うが、法スレスレとか、ルールスレスレとは言わない。「○○違反スレスレ」という言い方が正しそうだ。この場合のスレスレ、すなわち「触れそう」なものの対象は、法やルールではなく「違反」なのだということがわかる。

法は、触ってはいけないもの=アンタッチャブルな存在ということだろうか。触れないでいることが、すなわち法を遵守しているということであり、法の下でそれに従って生きているということなのか。

触れてはいけない存在としての法。
確かに法は、一般的な生活においては際立って意識されることも少ないし、裁判をはじめとするいわゆる狭義の「司法システム」はことさら馴染みの少ない存在だろう。他方で、信号をはじめとする交通法を守るとか、他人に暴力を振るわないとか、お店で物を盗まないとか、法は、わたしたちの生活のあらゆるところに限りなく浸透しているものでもある。これ以上なく遍在しているという意味で、法は不可視の存在だということもできるだろう。

なるほど、問題なく生きていれば、法とは一般市民にとっては透明な存在なのだ。交通事故を起こしてしまったり、誰かと民事的な争いになったり、罪を犯してしまったりしない限り、法はわたしたちにとって「あるけど、ないようなもの」なのだろう。

つまり、逆説的だが、法が可視化されるということは、すなわち当人は何らかの問題を起こしたか、問題に巻き込まれていることを意味するわけだ。普段耳することのない非常事態のベルが聞こえるということは、つまり非常事態だということである。

問題が生じた場合にのみ可視化される、秘匿された存在。
たとえばインフラストラクチャーもそうだろう。電車やバスといった公共交通機関が「規則通り」に稼働していることは、たとえば都内の一般生活者にとっては「当たり前」の現象であり、そのこと自体が意識化・可視化されることなどめっぽうない。電車やバスというインフラが「ある」ということは疑う余地のないものとして透明化している。人身事故やあらゆる原因によってそれらの規則通りの運行に大きな乱れが生じたときにはじめて、わたしたちは交通インフラの存在に意識を傾ける。

法が「破られた時にのみ姿をあらわすもの」だとするならば、それが可視化された時点で法は破られている。このように考えれば、法に「触れる」ことが可能になった時点で、「法に触れることができるほど法が現前している=法が破られている」という理解ができるかもしれない。

納得できたような、できないような。
わかるような、わからないような。

「あなたの行為は、法を見ています」ではダメなのか。なぜ「触れる」なのか。その根源的な謎はまだ解けていない気がしてならない。


境界線そのものとしての「法」

触れること、破ることと結びついている「法」は、概念的・イメージ的な理解としては、「境界線そのもの」として一般化することができるかもしれない、という予感がある。

法とは近代の道具を象徴するものである。
それが仮に境界線を策定する行為/制度そのものなのだとすれば(すなわち善悪を分け隔てる境界を決め、その「なか」と「そと」を明確に分類することが法の使命なのだとすれば)、それは存在の輪郭を策定し、名づけ、分類していく知的作業(科学がその代表だ)の根幹、もっとも規定的な事柄だということもできる。

以前、「クリティカルな思考とは、「境界的思考」のことだ」という趣旨のnoteを書いた(直後のリンクを参照してほしい)。
その内容を思い出すならば、それでは「境界線そのもの」として概念化された法に対して、クリティカルな思考を実践していくことは可能なのか、またそれはいかにしてか?という魅力的な問いも見いだされる。いや、法がそもそもクリティカルな存在だと言うべきなのか。しかしそれを言って何がわかるのか。うーーん。


クリティカルな思考は、すなわち「違法」である

だが「法に触れる」ことが違法である以上、その境界線に限りなく近づき、乗っかり、境界線そのものにおいて思考を繰り広げていく「クリティカルな思考」はそもそも違法的な行為ということになる

いやそうか、クリティカルな思考とは本来的な意味において「違法的」なのだ。なぜなら、それは物事を規定している境界線そのものに触れ、それを揺るがし、作りかえてしまおうとする思考にほかならないからだ。

法は、守られている限りは不透明であり、すなわち「変化しない」。再生産され、維持され、強化されていく。ルールが変更されるのは、いつだってそのルールが破られたときなのだ。境界線が破られてはじめて、法それ自体を改正していかなければならないという認識が生じるクリティカルな思考とは、不可視化されていた境界線を破り、法自身に再検証と変化を促す思考なのだ。作りかえるために、生まれ変わるために、法を破らなくてはならない。


はい。なぜ法に「触れる」というのか、という謎は解けたような解けてないような状態ですが、このnoteでそれを書いているうちに、自分の中で以前のnoteの内容(クリティカルな思考について)と結びついた新しい思考が芽生えたようです。話の内容がまさに即興的に変化してしまいました。読みにくいものになってしまったと思います。ごめんなさい。
でも個人的には書いてよかったと感じます。謎について考えているうちに新しい謎が見つかるという、なんと喜ばしいことでしょうか。後半に書いた内容はもう少し考えて、いずれ整理したいと思います。

ではまた。

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