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電車のドアの危険はいつ「閉じるとき」から「開くとき」へと変化したのか。(ナゾナゾシリーズ#1)

どうも、ぺりかんです。こんにちは。今日は僕の長年の謎について、みなさんにご紹介したいと思います。疑問のまま、特に調べてもいないので、このnoteを読んでも答えは出ませんのであしからず。疑問のまま、不思議のままでいることの幸せをもう少し嚙み締めようではありませんか。

ということで電車のドアだ。

「まもなく~○○、○○。お出口は左側です。開くドアにご注意ください」

いまから約10年ちょっと前、ぼくがまだ中学生だったころ、電車には「閉まるドアにご注意ください」のステッカーが貼られていた。

この画像のようなものだ。僕の記憶では、人差し指には包帯がまかれていたように思う。発車時のアナウンスでも、「ドアが閉まります。閉まるドアにご注意ください。駆け込み乗車はおやめください。ドアが閉まります」みたいな感じであったと記憶している。

それ以来、僕にとって電車のドアとは、「挟まれる危険」のある存在だった。そう信じて生きていた僕にとって、数年前、乗っていた電車でふとドアを見たときの衝撃はとんでもないものであった。そこには「ひらくドアにご注意ください」のステッカーが貼られていたのだ。

閉じる危険から、開く危険へ。挟まれる危険から、引き込まれる危険へ。

「閉じるドア」への注意喚起では、ケガをした指はドアとドアの間に向けられていた。だが「開くドア」への注意喚起では指はドアが開く方向に向けられている。いつしか電車のドアは「挟まれる」ものから、「引き込まれる」ものへと変化してしまったのである。

これに気づいたのが、僕が大学3年生だったころだ。はたして、いつからこの「大転換」がなされたのか。謎である。今から5年以上前に気づいた謎だが、今でも電車に乗るたびにまず先にドアの注意喚起シールを確認するほど、自分の「不思議リスト」のランキング上位に居座り続けている。いつ、なぜ、どのようにして、ドアの危険をめぐる言説が変化したのか。

気づけば、電車の停車/発車時のアナウンスも変化している。「開くドアにご注意ください」と言うのだ。そしてドアが閉まる際も、「ドアを閉めます」と言うだけで、「閉まるドアにご注意ください」は滅多に聞かなくなってしまった。

ちなみにいえば、「ドアが閉まります」ではなく「ドアを閉めます」とアナウンスされる機会が増えたようにも思う。なんとなく抑圧的というか、「
ドア閉めるぞ!もういい加減乗るのを諦めろ」という乗務員さん・駅員さんの強い意志を感じられる言葉になったように思われる。行為主体が明確化しているということで、個人的には違和感が減って良いと思っている。

また、注意喚起が指す対象も多様化した。つまり、指以外にも引き込まれる対象があるということだ。足先をドアがスライドするスキマに挟む危険もあるようだし、傘やコート、鞄の引き込み事故もどうやらあるようである。

「戸袋」と呼ばれるドアの収納部分やスライドする部分に物や身体が引き込まれ、ドアがうまく動かないことで電車の遅延が生じる。それに対して閉じるドアに挟まれることは今では「たいしたことない」ようだ。じっさい、ドアとドアが接する部分にはやわらかいゴムのようなものがつけられているし、近年ではホームドアの導入が進んでいるのでそもそもドアに挟まれるような切羽詰まった駆け込み乗車すら不可能になりつつある。駆け込み乗車に果敢に挑戦し、ドアに見事に挟まれた人もたまに見かけるが、彼らもダイナミックに挟まれた数秒後にはケロッとしている。ダメージはなさそうだ。

とはいえドアのゴムは昔からついていたように思うし(工学的な発想としては初期から安全策を講じる対象であるはずだろう)、ホームドアの導入がドア注意喚起の「大転換」のきっかけになったというのも理由としては十分ではない気がする。

かつての「閉じる」時代(「閉じるドアにご注意」の時代)以降、引き込まれ事故のケースが増え、問題視されてきたということは確実に関わっているだろう、と想像できる。しかし電車のドアの開閉メカニズムは当初からずっと変わっていないはずだ。つまり「閉じる」時代においても引き込まれ事故は起きていたはずであり、だとすると、なぜ引き込まれ事故を差し置いて「挟まれる」ことがあれほどまでに覇権を握っていたのかという問いが生まれる。不思議である。

もし知っている人がいたら教えてほしいとも思う。いずれにせよ、いつかJRや電車に詳しい人を探して、インタビューなりなんなりで調べてみたいと思っている。生まれ変われるなら『電車のドアの開閉史』なんて本すら書きたいくらいである。



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