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酒を飲みながら「勉強しろ」という親

どうも、ぺりかんです。こんにちは。年の瀬ですね。今年1年、みなさんはどのような日々を過ごしてこられたのでしょうか。

今日は、へんさんの「大丈夫?」という作品をお借りしています。とてもかわいい。親ネコさんが子ネコを心配しているのでしょうか。実は僕がこれから書こうとしている内容も「親子」がテーマなのですが、どちらかといえば横になっているのが「親」で、その姿になんとも言えない視線を送っているのが「子」という、ちょっとした倒錯を表現するものかもしれません。子供は、ふとしたときに親に対して客観的なまなざしを向けたりするものです。

子供は親の背中を見ている

自分が子供を育てる立場になったときにぜひとも気をつけたいと思うのが「酒を飲みながら「勉強しろ」と言わない」ということである。

僕の両親はわりと勉強家だったように思う。父の部屋にはぎっしりと本や雑誌が並んだ書斎があって、パソコンがあって、父はいつも調べものをしたり仕事をしたりしていた。そのときの部屋の雰囲気はなかなかに厳かな色合いで、玩具を片手に気軽に入れる空間ではなかった。

「充実していそうだな」。
子供ながらに、なんとなくそのようなことを思いながら、その背中を見ていた。母も、家事のあいまに小説を読んでいた。楽しそうだなぁ、と当時そこまで具体的に感じていたかどうかは覚えていないが、すくなくとも、勉強することや調べものをすること、本を読むことについて、「悪くはないんだろうな」「つらいことではないんだろうな」とは思っていたように思う。

学校の宿題は面倒くさくていつもギリギリまでやらなかったし、勉強もいつもコソコソとポケモンで遊びながらやっていたりするような悪ガキだったが、勉強は嫌いではなかった。「まぁ親も勉強しているし、なんか本読んでるし、自分もやりますか…」程度には背中を押してもらっていたことは事実だった気がする。あとは、ひとつひとつできることが増えていく感覚は楽しかったし、ノートや問題集が最後のページに近づいていくことも嬉しかった。そんなこんなで、ゲームや漫画の方が好きだったにせよ(今でもそっちの方が好きかもしれないが)、勉強もある程度は前向きに取り組んでいた。

そんな僕にも反抗期はあったが、そのきっかけのひとつが、酒を飲んでだらだらと夕食後の時間を過ごしていた親に「勉強しろ」「宿題はやったのか」と問われたことだった。べつに普段そういうことを言われるのは、もちろん快くはないけど嫌ではなかった。しかし酒を飲む背中に、テレビを見る背中にそれを言われるのはどこか許せなかった。ムッときた。

「子供に勉強しろというなら、おまえも勉強しろよ」
「子供が勉強している間は、おまえも勉強しろよ」

そんな考えが頭をよぎって、食べていたアイスは何の味もしなくなったし、テレビは一気に白黒になり、タレントの声もただの雑音になった。

酒を飲みながら勉強しろという親。
子供ながらに直感的に理解できた矛盾だ。

勉強の楽しさは、背中で語らなければならない

まぁそんな話は昔の話で、やはり普段はいろいろと熱心な親だったので、今では笑い話である。それに正直言えば、きっと所々の記憶に誇張があるだろう。

とはいえそうした経験を経て、その後大人になっていくにつれて、いくつか自分のなかではっきりしてきたことがある。勉強は「させるもの」ではないこと。親や友人が勉強に向き合う姿勢が、それをまなざす子供の気持ちを変化させうるということ。

勉強が好きだという子供には、そのままのびのびと勉強をさせてあげたい。他方で、勉強が嫌いな子供もたくさんいる。それと、勉強が苦手だという子供もたくさんいるだろう。僕が小学生のころに仲の良かった同級生の女の子は、テストの点数があまりよくなかった。算数と国語がとくに苦手らしく、いつも「わからない」「わからない」と言っていた。先生に問題を当てられたときには、緊張もあいまって泣いてしまったり、ヒステリックになってしまったりするような子だった。

でもその子は、勉強は好きだと言っていた。苦手だけど嫌いではない、ぜんぜん覚えられないしできない自分は嫌だけど勉強は嫌いではない、と。だから僕もその子と一緒に宿題をしたりテスト勉強をしたりすることはまったく苦ではなかったし、その子が問題を解くことができたときの楽しそうな姿は素敵だった。

ちなみにそれ以来、その子を見習って僕も「勉強は苦手だけど嫌いではない」「苦手だけど好き」と考えるようになったし、勉強が好きか嫌いか聞かれたときにはそのように答えるようにしてきた。もちろん嫌いな科目はあったけれど(音楽の歌のテストなんて最悪だ)

書斎で仕事をしている父の姿も、どこか楽しそうというか、よい雰囲気だった。どれだけ「勉強しろ」「勉強しなさい」と言われるよりも、そうした背中を、姿勢を目にするほうがずっと勉強に前向きになれる気がする。

だから子供の立場になって言うとすれば、僕は、親には「勉強しろ」と言う代わりに、勉強は楽しいんだということを見せつけてほしいと思う。教育者は語る必要などないのだ。大人が楽しそうに何かに取り組み、熱中している姿を見て、子供は学んでいくのである。大人は、子供が困ったときに手伝ってあげるくらいでよい。この意味において親は子の同伴者たるべきなのだ。

自分が何かを相手に「教えることができる」「何かをさせることができる」と考えるのは、きっと驕りにほかならない。

ということで、少なくとも自分が子供を育てる身になったときには、上に書いたようなことを実践できる親になれたらよいなと思う。僕は僕で、楽しいと思うことを一生懸命やればよい。そしてあくまで個人的な信念として、子どもが勉強している時は僕も勉強しようと思うし、さすがにゲームばっかりやって翌日の宿題に手を付けていない子供に勉強をしろと催促しなければならないときに、酒に酔っているようなことはないようにしたいと思う。念のため付け加えると、子供の時の僕にとって「お酒=不真面目」というイメージだったというだけで、親が子供の前でお酒を飲むことを非難しているわけではない。

子供が親を客観的にまなざすとき

僕はわりと早かったほうだと思うのだが、子供にはかならずいつか、親に対して客観的なまなざしを向ける日がくる。一人の人間として、一人の大人として、そして一人の他者として。単なる反抗期とは違う形で親の言っていることを疑ったり、親よりも自分の方が「大人」かもしれないと考えたりする時期は必ず来る。

僕がそうした時期に差しかかったときのことはよく覚えている。母とふたりで買い物をしているとき、父のことを「あの人は~」と呼んだ僕を母は𠮟った。そんな呼び方はやめなさいと。親としては、そのようにして「親」という身分を剝奪され、剝き出しにされることには拒否反応があるのかもしれない。

個人的には、子供とは対等に接したいと考えている。早い段階で、子供が親としての僕のことをひとりの他者として捉えてくれたら嬉しいと思う。
・・・と思う一方で、そのようにして「大人/親」を「子供」に対して段階的に「上位」に置くことを出発点とする思考は、問題含みだなと自戒するところでもある。「子供に早く追いついてほしい」と思うということは、自分が子供よりも先を歩いていると思っているということだからだ。その時点で、すでに対等ではないし、「大人」同士の関係になれたとしても、その枠組みは別の形で残ってしまうのではないかと思う。むつかしい問題だ。

ひとまず。





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