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丁寧さの代償

ものづくりを仕事にしていて思うが、何かをつくる仕事は本当に生産性が低い。労力と利益が全く見合わない。


わたしの生業とする建築に関していうと、たとえば「雨漏りがしない」というのは、大前提で確保されているべき、建物の基本性能である。

しかし実際に「雨漏りがしない」建物をつくることは、実はそう簡単ではない。
同じように見えても、屋根の形や大きさは建物によって微妙に異なる。使う材料の組み合わせも異なるし、実際にそれを施工する職人も一人ひとり違う。設計の前提となる気象条件も、昨今では予測するのが容易ではなくなっている。
自動化や機械化などと言っても、この難しさは一朝一夕のテクノロジーで解決できるものでもない。

このように、実際は大変な労力を払って実現する「雨漏りがしない」建物だが、その大変さはほとんど理解されない。
建築家や施工業者がどれだけ努力したと言ったところで、雨漏りした時点で建物への信頼・価値は半減してしまうと言っても過言ではない。

想像するに、出版なんかもきっと似たようなものだろう。
本をつくる出版も、昨今いわれている通り業績がおもわしくないようで、やはり本を作ることにかかる労力と利益が全く釣り合わないそうである。

本や新聞を読む時、誰もが「誤植がない」ことを前提にしている。
見出しに「岸田首相」と書くべきところを「菅首相」と書いてしまったら、その一語の誤りだけで、その見出しに続く記事がどんなに立派な文章・論説であろうとも、大半の人は読む価値がないとみなすだろう。
日本語の場合はさらに、漢字の変換ミスをなくすための労力だけでも並大抵ではない。
出版業が斜陽になるのに不思議はない。


人は、存在して当然と思っているものに対するクオリティに厳しい。

ものづくりの難しさは、その最初の厳しいハードルを超えることにある。そのハードルを越えなければ、つくるものの価値を伝えられないからだ。

そのハードルを越えるだけでいいならまだマシだ。さらに深刻なことに、ものづくりにのめり込む人は、何かにつけて深く考えてしまう。こうしたらもっと屋根の防水性能が高まるとか、こうした方が少しでもコストを安くできるとか。
ある水準を超えてもなお、そこにこだわりのポイントを見出す。

そうやって頑張った結果が自分の給料や評価に直結することなどほとんどないにも関わらず、そのことに打ち込んでしまう。


そういう人のことを、わたしたちは「職人」と呼ぶ。
職人の仕事を一言で表すなら「丁寧」である。ひとつひとつの作業に手が抜けず、少しでも良くするために労力を惜しまない。

わたし自身、金にならないと知りつつ丁寧な仕事に没頭する自分が決して嫌いではない。


利益にならないと知りつつ目の前のものづくりに没頭するよろこびは、二日酔いがくるとわかっていながら酒を飲むたのしみに似ているのではないだろうか。

時間や金をフイにすると分かっていながらそれをやめられない人たちは、いつの時代にも存在するのである。


わたしは酒を飲めないのでよくわからないが。



カバー画像:AIいらすとやで生成「職人の格好をした猫、丁寧な仕事をする」

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