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男が蕎麦を打ち始める理由

なぜ男達は歳をとると蕎麦を打ち始めるのだろう。それは運命か本能か。
というツイートが3年ほど前に盛り上がった。

当時、私はアラフォーの曲がり角の入り口に差し掛かったあたりで、カーブの向こう側の景色がよく見えていなかった。だからこのtweetは私にとって面白いものではあれ、そこに含まれる真実・悲哀を見透かすこととはできなかった。なぜ男は蕎麦を打ち始めるのか。それはある時自動的に立ち上がるようにプログラムされているのか?

今の私には、わかる。

これは男の悲しみだ。プログラムされているのは、我が国の社会構造が男性にもたらす「人生の危機」の悲しみなのだ

私は先のカーブをほぼ曲がり終え、新しい景色が見えている。男たちが蕎麦を打ち始める理由はその景色の中にある。

結論から先に言おう

男がそばを打つ理由は何か。

それは

男に「キャリアの終わりが見えた」からだ。

20代から始まり、この先永遠に続くと思われた労働。でもいつか、労働のない未来がくる。その「いつか」が像を結んだ瞬間、すなわちキャリアの終わりが見えた瞬間、男は「手仕事」を追い求めはじめるのだ。

「手仕事」の希求。その始まりの時期こそ40代前半である。

人生100年時代(リンダ・グラットン,2016)」というバズワードが示唆するように、我々氷河期世代はこの先、60歳前後でハッピーリタイアできることはまずないだろう。我々が本当にリタイアできるのはいつか。70歳か、それとも80歳か。詳しくは下のリンクから本を求めていただきたいが、キャリアという時間軸の数直線上のうえでは、40代前半はまだ折り返し地点に届いていないかもしれない。

だが、それでもやはり40代前半というこの時期に差し掛かった私には、「前半戦とハーフタイムが終了した感じ」が、実感としてはっきりある。

キャリアがあと残り半分という実感を伴ったとき、人は、キャリアの終わりの向こう側にある「空白」が視界に入る。

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(画像:天動説における世界の果ての巨大な滝)
出所:The Flat Earth Society(地球平面協会)

そして、その「空白」をいかにして満たすのか、という問いがあらわれる。その空白に対し、自分は今まで無策であった、という事実に気づく。

そこで男達は、「空白」を埋めるのは「手仕事」しかない、と認識する。手仕事という固有技術への欲求を、はじめて意識するのだ。まるで思春期に性欲を初めて意識するように。

その瞬間・・・男は蕎麦を打ち始めるのだ。

だが、今は蕎麦打ち一択ではない

ここまで蕎麦打ち欲求の発生メカニズムについて書いてきたが、ところが実は、手仕事の選択肢は、今や蕎麦打ちだけではなくなってきている。

確かにかつて、蕎麦打ちが一択だった時代があった。私の前の上司もそうだったし、あの部長もそうだった。今なお蕎麦打ちに魅了される男達は一定割合存在している。しかし、ここ数年でそば打ち一択の時代はほぼ終わったように思われる。手仕事は今や群雄割拠の時代に入り、その選択肢は宇宙のように爆発的に広がっている。

ーーもはや蕎麦打ちだけではない。

深い沼は今や無数に広がり、そこら中に口を開けている。

手仕事の条件:利他性

例えば、私の身の回りの人物たちの手仕事を順に見てみよう。

まず多いのがカメラ

次にキャンプや燻製などのアウトドア系。

スパイスから作るカレーハンドドリップのコーヒーなどのうんちく系。

続いて、魚をさばく、寿司を握るなどの和食系。これはとくにグローバル企業で外国人との接点が多いケースでは、引退後のみならず現役キャリアでも役立つようだ。

続いて、家庭菜園、兼業農家、DIYといった実利系。

やや意表を突いたところでは編み物

あと現代的なタイプとしてyoutuber

また私の友人で最も変な人に、デイリーポータルZの執筆という強者がいる。

いずれも素晴らしい手仕事だ。今の私には、それがない。

私に趣味がないわけではない。趣味ならある。白状すると、ローカル食堂探訪。ファミコン(8ビット)。料理番組鑑賞。ベルマーク集め。
だがこれらは手仕事ではない。単なる趣味だ。

手仕事と趣味の違い、すなわち、手仕事が手仕事であるための条件は何か。

それは「第三者への便益」の有無だ。利他性、奉仕性といってもよい。

カメラも燻製も魚さばくのも利他性を含んでいる。飲酒やファミコンにはそれがない。

すなわち、男は40歳を過ぎたとき、「利他性のある趣味」を持っていないと絶望に襲われるのである。

蕎麦打ちが一強から陥落したのはなぜか

さてところで、蕎麦打ちはなぜ、かつての一強から陥落したのだろうか。

そもそも蕎麦打ちという趣味は、引退した上司がかつての部下を自宅に招き、昔の武勇伝に花が咲き、奥方は専業主婦でにこやかに微笑、といった状況において、もっとも求心力を持つものだ。

すなわち蕎麦打ちとは、古典的な日本型雇用(とそれがもたらす日本型性別分業)が正常に機能していた社会で、キャリアを務め終えることができた「旧来型エリート」に強く支持される趣味である。

だが、経団連が1月にまとめた「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」は、日本型雇用が時代に合わないケースが増えていること、従来の「メンバーシップ型」から職務内容と処遇を明確にする「ジョブ型雇用」へのシフトが必要であることを提案している。

この提案の何がポイントかといえば、経団連という組織こそ、「旧来型エリート」の巣窟、日本型雇用の守護者であるからだ。彼らが、自分たちが乗っかっているシステムの限界を論じるというのは、相当程度末期的な状況であることを意味している。

そして、そうした状況変化の断層にちょうど絶妙に巻き込まれる世代こそ、我々、氷河期の世代である。

今や日本型雇用は、「狭き門閉じつつある門」、「消えつつある共同幻想」である。

蕎麦打ちが手仕事の一強から陥落し、多くの趣味が百花繚乱となる現象は何を意味しているか。それはまさしく、旧来の日本型雇用が終焉を迎えつつあることの一つのエビデンスである、と私は考える。以上が本論の結論である。

ところで問題は

ところで。私には手仕事がない、という問題はどこに行ったのだろうか。

いや、どこにも行っていない。

私はこれから何をすればいいのか?問題は何も解決していない。

続く

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