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追悼 イェルク・デムス氏 (2)

(前記事「追悼 イェルク・デムス氏 (1)」
https://note.com/t_watapy/n/n560a9e98daf6

翌2016年にも、同じ会場でイェルク・デムス氏の生演奏を聴くことできた。
この時はどこにも記事掲載されなかったが、自分自身の感動の記録のためにしたためておいたのが出てきた。
新聞とは違って紙面に制約がないぶん、徒然なるままにといった趣の文体で。

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イェルク・デムス リサイタル
2016年4月29日(金) 19時開演
於/芦屋 山村サロン

久々にイェルク・デムスのピアノ演奏を聴く機会を得た。僕にとっては、富士山のようなピアニストだ。よく見えると云われる地点に行っても、天候やその他諸条件で富士山にはまるでお目にかかれないことは多々ある。それに似て、演奏会案内を頼りに席に座っても、デムス本人が舞台に現れるまでは今日の演奏が聴けるかどうか確信をもてない。一期一会そのもの。

幸せなひとときだった……とは陳腐な表現だが、デムスの演奏は聴く者を根こそぎ素直にさせてくれる。音楽を通して、今ここに集まった人たちそれぞれの〈生〉を寿いでくれる数少ないピアニストだなと、今日も思った。

ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》には、ベートーヴェンが計り知れぬもの 運命的なものに対峙し、ときに安堵しつつも試行錯誤していく軌跡がある。だが、同じ作曲家の第31番ソナタでは、対峙ではなく対話がある。
足取りは確かだが、精神は宇宙的に広がっていく。宇宙に生かされあるがままに生い茂る大木のよう。端的な素材と構造だけで《運命》シンフォニーを構築した作曲家の、晩年に出した答えがそこにはあった。
科学者が物の道理を追究し続けた先に「ある絶対的な存在」としかいいようのない観点を得るように、ベートーヴェンもまた神秘に対峙した末に高次の調和を得たに違いない。まさに《歓喜の歌》は最終シンフォニーにふさわしいし、第32番で結実するピアノ・ソナタの連峰は遥かに青い。
デムスが奏でる楽器の少し上では、わだかまってはほどけていく光のざわめきのようなものがずっと浮かんでいた。

休憩後のシューベルト第21番のピアノ・ソナタが今日の締め。つくづく、毎回大曲揃いのプログラムをそつなく弾ききって、風のように舞台を去る姿には本当に感服してしまう。
シューベルトを聴くときは、旋律そのものを追うよりは、その旋律のすぐ後ろを聴くのがいいのかもしれない。鉛筆の先の動きばかり追っていても何の絵かわからないが、その鉛筆で書かれた線をみれば描かれていく過程を楽しめる、そんな感じ。 
デムスはどのように自身を聴いているのだろう。鉛筆を動かす当事者でありながら、同じ度合いで観客のごとく鉛筆で描いた軌跡を観ているのだろうか。だとすれば、離れ業だ。
デムスによって色々な性格のテクスチャが少しずつ編まれ、次第次第にレースと化していく様は、職人芸をみるようだった。

アンコールは《楽興の時》からAs dur。おまけに、たぶん自作の小品。なんだか、チャーミングに舌を出して、でも心からDankeと言ってるような、去り際。
聴いている者をくすぐったい嬉しい気分にさせてくれるなだらかな背中に、今日一番の拍手を送った。

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