見出し画像

夏の日比谷の二人組

ある夏のシャンテシネの想い出。

中高時代の僕にとって映画は、二つの意味で世界を広げてくれる窓口だった。一つは、知ることのない人々の物語だったり、聞いたことのない国の文化や社会を知るという、いわゆる映画そのものが持つ世界を広げる力。そしてもう一つ、文字通り見知らぬ街へ連れて行く引力を映画は持っていた。行動範囲が限られている中高生にとって、新しい映画館に行くというのはつまり新しい街に行くという意味でもあり、それもまた映画鑑賞の醍醐味の一つであった。

 日比谷という街は、当時の僕にとっては明らかに生活圏外の街であった。井の頭線が生活拠点だった僕にとって、映画を観に行く街といえばまず渋谷だった。ところが、あれだけミニシアターが軒を連ねている渋谷であっても全ての映画をカバーしきれているわけではなく、「どうしても見たいけど渋谷でも新宿でもやってない」という映画が数ヶ月に一本あった。そして、その一本が上映されているのが必ずと言っていいほど日比谷や銀座だったのである。 

というわけで日比谷に行く機会は少なくはなかったのだが、どう贔屓目に見ても男子中高生が休日にたむろする街ではなく、どことなく場違いな疎外感を感じていた。実際日比谷という街は身の丈にあっていなかったようである。シャンテ・シネの思い出はなぜか苦い思い出ばかりである。

 高校一年の夏、彼女ができずに夏休みを迎えてしまった僕は、思い出が全く作れないまま夏が終わってしまうかも知れない、という焦燥感に駆られていた。当時気になっていた女子とはかろうじて連絡は取れていたが、具体的な行動に出る勇気を持てないまま夏休みの折り返しを迎えてしまった。僕の焦燥感は、より具体的に「その子と花火デートがしたい。付き合うとかじゃなくていいからとりあえず花火だけでもっっ…!」という痛切な願望に変わっていった。 

時同じくして、台湾映画『藍色夏恋』が花火大会直前から上映されると知った。「花火だけだと厳しいから、まず映画を誘ってその流れで…」と見窄らしい算段を立て、その子にメールした。デートの誘いにあまり有名でない台湾映画を選んでいるあたり、もうすでにイエローカードなのだが、強烈に偏った映画オタクであった当時の自分にはそれが正解に見えてしまっていたのだ。ただ一つ、『藍色夏恋』というタイトルが少し引っかかった。映画の内容があまりに露骨な恋愛映画で引かれるかもしれない、とヒヨった僕は、ダブルデートにすれば何とか誤魔化せるだろうとまた一つハードルを下げ、彼女の返事をただひたすらに待ち続けた。そして待つこと数時間後、返事が届いた。 

「部活があるから無理!m(_ _)m」 

無慈悲だった。何が悲しいって、すでに男子の友人は誘ってしまっていた事だった。その子が来ないんじゃ意味がない、映画はキャンセルにしよう。と伝えたのだが、「映画良さそうだし、別に二人でよくね?」と友人。彼の優しさが裏目に出てしまった。結果、男二人、夏休みのど真ん中に日比谷シャンテで『藍色夏恋』を見るという怒涛の展開となった。

 その侘しい状況とは裏腹に、『藍色夏恋』は、2000年代の映画ベスト10に入れてもいいくらいの素晴らしい青春映画だった。予告編から佳作の予感は既にしていたが、僕の想像をはるかに上回る、ただの恋愛映画に収まらない、より繊細で切実な青春の痛みが雅樸に描かれた青春映画の傑作だった。

 映画の出来に感動してしまった僕たちは、勢いでそのままお台場の花火大会へ向かった。男子高校生二人でのお台場花火大会は、客観的に考えるとかなり耐え難い状況ではあるのだが、思い返すと意外と楽しかった思い出になっていたりするから不思議である。

まあとはいえ、会場へ向かう人混みの中で「あぁこの状況であの子がいれば…」と考えなかったといえば嘘になる。「部活終わったから今からいける!」という連絡が来る可能性を最後まで信じ続けたが、携帯は鳴ることなく最後の花火が夜空に散っていった。

いまだに日比谷に行くと、この苦い思い出が蘇ってむず痒くなる。今では日比谷ミッドタウンの開発も終わり、一角の雰囲気はガラリと変わった。日比谷ミッドタウンができる際にシャンテ・シネも閉館するというニュースがあったが、直前で撤回され今でも経営が続いている。

ただこの判断には賛否両論あるようで、決して今後も安泰という状況でもないようである。かつては自分が疎外感を感じていた憧れの社交場が、今は都市開発の瀬戸際に立たされていると考えると、なんだか大きな時代の流れの中に生きているんだなぁと、柄にもなく感傷的になってしまう。 

とはいえ、これだけ大規模な都市開発の中で経営続行という判断を下した胆力には改めて感嘆させられる。この辛抱強さも、やはりシャンテの持ちうる力のひとつなんだと思う。そもそも遡ること20年ほど前「シャンテでしかやってない。」といち映画ファンの少年を慣れない街へと引っ張るだけの引力があったのも、そのセレクションを可能にする圧倒的な選別眼と思想あってこそだったのだ。その思想の強靭さ、足腰の強さは轟々たる時の流れに耐えうるほどに屈強で頑丈である。シャンテの矜持こそシャンテたる所以であり、そこに僕たちは惹きつけられ続けるのである。

この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?