不確かな憶測が形づくるこころ〜本当のことなんて誰にもわからない〜
子どもの頃のわたしにとっての夏休みの一大イベントは、同じ県内の(当時車で片道2時間半かかった)母方のおばあちゃんちで過ごすこと。
遠方にいるいとこたちも大集合、わいわい大騒ぎするのが常だったお盆休み。みんなで海の家を貸し切って泊まり、海水浴をしたりもしたなぁ。
常日頃には見られない、短い割り箸の脚を持つ、ナスとキュウリでできた動物のようななにかが供えてあるのを眺めながら、大人もこんなん作って遊ぶのかー、お盆とは何か特別な期間なのだなー、などと子ども心に感じていたあの頃。(それが精霊牛、精霊馬と呼ばれるものであるなどと知るのはもっと先の話)
仏事のことなど何もわからず、正直いとこたちとの遊びや、並ぶごちそうにしか興味もなかったけど、あの時みんなの輪の中に、空の上のおじいちゃんもそっと帰ってきていて、そばで孫たちを微笑ましく見守っていたのかなぁ。
・・・そんなことを思うとなんだか自然と頬が緩んであたたかい気持ちになる。
いたよね、きっといたね。
おじいちゃん、おばあちゃん、ずっとお墓にも参れずにいてごめんね。
へなちょこ母なわたしを、娘のマイペースさを、息子のお調子者っぷりを、
空から微笑ましく見守ってくれているかな。
大人になって、それぞれの場所でお盆を過ごしているであろういとこたちも、元気かな。
どちらの実家も遠く、守るお墓もない我が家にお盆はないけど、幼い頃の楽しかったお盆を思い出しては懐かしく感じるよ。
またみんなで寿司○のお寿司が食べたいな。
らっ○やのたい焼きが恋しいな。
べ○屋のカレーとインドミルク氷、まだあるのかな。
なんて郷愁に駆られつつ。
きっとこの時期はたくさんの人が動くだろうという予測から、この夏のわたしたちは夏休みに入ってすぐに帰省し、半月滞在し、お盆前には戻ってきた。(最後4日ほど実家に合流した夫は、息子が不在の間代わりに2週間ほどあさがおに水をやり続けた結果、思いのほか愛着が湧いてしまい、夏休み明けに学校に持っていくとなったら寂しくなってしまったりしていたのだけども)
帰省中、急性期病院からリハビリテーション病院に転院して2か月ほど?になる父とも、2度ほど直接、面会ができた。
一度は妹と。その次は母と。
去年の10月ぶりの父との再会。
右側の機能と言葉を失っている父は、看護師さんに車いすをひかれて面会の部屋にやってきた。
父から見て左側にしゃがみこみ、父の目を見て、手を握る。
「お父さん…、ひさしぶりだね」「〇〇だよ、わかる?帰ってきたよ」
毎月のようにきちんと散髪屋に足を運び、いつも自分でこまめに髪を黒染めしていた父。細く伸びた首や腕の肌色は若い頃から地黒だと思っていた。
けれど、真っ白に伸びた髪のせいか、古びた病院の日の当たる部屋で再会した父の姿は白く透き通るような印象を与えた。
その穏やかな佇まいは見紛うことなく父だ。
父には変わりない。
だけど、父のこころと身体を繋ぐ道筋、そのインターフェイスも、大きく障害されてしまっている。
それがひとめでわかるような、そんなかんじだった。
妹とかわるがわる話しかけるが、父の表情はあまり変わらない。
乳児が反射的に表情を変えるのとよく似た感じで
時折目を見開いたり、じっと見つめ返したり、
うんうん、と頷いたり、ううん、と首を振って意思表示をしてくれたりはするけれど、
それが確固たる意思に基づく動作なのか、偶発的に繰り出された反応なのか…
何を思っているのか、どこまで「わかって」いるのか…
毎度ひとりで向き合う母が、言い様のない孤独感に陥るのは無理もない。
この現実にひとりで立ち向かうのはきつい。
・・・そう思って泣けてくるのをこらえるのは辛い。
ぼんやりとしたままの表情ではあるけれど、
わたしたちのことはわかるようで、「〇〇だよ、わかる?」の質問に、なんなら食い気味に頷いてはくれた。
父は何も言葉にしない。ただただわたしたちは話しかけ続ける。
スマホに撮りためた動画に映る孫たちを見せて話しかける。
父はじっと画面を見つめる。
「大きくなったでしょ、〇〇だよ」「仲がいいでしょ、あいかわらずみんな」
目をつぶり(うんうん、)と頷く父。
「急にしんどくなって大変だったよね」
「手術もしんどかったよね、がんばったね」「助けてもらえてよかった」
「でもさ、お母さん、お父さんいないと電球も替えられないって。元気にならなきゃね」
かわるがわる言葉を掛ける。父の表情はほぼ変わらない。それでも伝える。
手を握る。脚を触る。「細くなったなぁ」
父の目に張り付く目ヤニをみつけ、
「お父さん、目ヤニがついてるなぁ。目がふさがりそう。取っていい?」
ーー(頷いて、妹が手を伸ばすと目をつぶる)ーー
「取るよ!うわ、結構手ごわいよ、こびりついてる、痛いなぁごめんよ」
「眠い?疲れた?」
ーー(首を横に振る)--
「違うか、疲れてはないんだね」
そして車いすから立ち上がろうとするように、動くほうの足を動かし脚を立てるようなしぐさを見せる。
「動きたい?そっか、足、ちゃんと動いてるね」
「さっきまでリハビリだったのかな?」「リハビリで立ったの?」
ーー(首をかしげる)ーー
「リハビリ、ではなかったかもしれんか」
時折、左手で上の病衣を引っ張るしぐさを見せる。
もしかして、娘たちにおむつをしているのを見られたくなかったかな…
そんな気持ちが、あったりするんだろうか。
・・・それすらもわからない。わたしがそう思いたいだけか。
たった15分の面会。
看護師さんが呼びに来て、
「お父さん、またね!」「お父さん、バイバイ、また来るね!」
妹が目の前で何度も手を振ると、
(妹曰く仕方ないなという感じで?)手を振り返してくれた。
数日後に、父の主治医と担当言語聴覚士・理学療法士(その日作業療法士さんは同席せず)、看護師さんとの定期面談に母と一緒に同席させてもらい、今の父の状態やリハビリの様子などについて聴くことができた。
STさんが
”一緒に写真を見ていて尋ねると、孫さんの名前はちゃんと覚えておられるように思います、それぞれ、多分合ってるなっていう口の動きをされてるように見えます。声は出ないんですけど”
と教えてくれたのが特にうれしかった。
父はこれからどのくらい「回復」するのか。「元気に」なれるのか。そんなことは誰にも分からない、ということも、改めて理解した。
そもそもに、昔から父は、口数の多い人ではなかった。
喋らない、わけではない。
子どもたちにとぼけたことを言って笑わせたりするのは好きだったし、でも余計なことは言わない、壊れたおもちゃでも電化製品でも何でも器用に直してくれる穏やかでやさしい父は、身内みんなに慕われていた。
ただ、控えめな父は、何かを積極的に強く主張する、ということがほとんどなかったし、わたしたち家族は「お父さんならきっとこうだろう」「お父さんはこう思ってるはずだ」と都合よく解釈してきたように思う。
わたしたちが躍起になって同意を迫るようなことの多くは、父にとってはどうでもいいようなことが多かったように思う(これも憶測)し、「ね!お父さん、そうだよね!」と同意を求め、「おーん」「まあそれでええわい」みたいな間の抜けた返事でそれを承認されることで、父はそうなんだ、父はそう思ってるんだ、とその事象に対する父の熱量すら、勝手に思い込んで操作してきたかもしれない。
と、今になって改めて考えると、今言葉を失っている父の思いを慮ることも、そんなに変わりはしないんじゃないのか…と思えてきたりもする。
元々勝手に決めつけてたんやん。
父の本当の気持ち、なんて。
父が何をどうとらえて、どう感じて、どう思っていたかに、
ちゃんと耳を傾けてきたんだろうかわたしたちは。
我が我がなんて主張しない父に甘え続けていたんじゃないのか。
間の抜けた同意に、甘んじ続けてきたんじゃないのか。
・・・ただ、今となってはその頃の父のこころ持ちを知るすべもなく。
母親(あるいはそれに代わる養育者)は、言葉を持たない赤ちゃんと、都合のいい憶測と美しき思い込みを駆使して赤ちゃんの「気持ち」を理解したような気になりながら情緒的応答をしていくよね(単なる反射的な微笑み…生理的反応、に感情をのっけて理解しようとしたり)。
でもそれって全然無意味なことじゃない、むしろとっても大事なことだったりする。情緒的なコミュニケーションがここから始まっていくともいえるんだから。それがただの思い込みでも、信じてことばにしていくうち、次第と感情もことばと上手に結びついていくようになるのだから。
赤ちゃんの場合、成長・発達とともに、ことばを媒介にしてその答え合わせができる可能性が残されているけれど、退行していく高齢者の場合はそこに希望が見出しにくくなるところが、切ないよなぁ。
父が教えてくれる日は来るんだろうか。あの時こう思っていたよって。
なんか、うまくまとめられない。
でもここのところなんか、そんなようなことをもやもやと、思っている。
ひとのこころ、を専門にしているって?
ひとのこころ、と日々向き合って、知りたい、わかりたい、って苦悩してるって?
そうだよ。
だけどそんなわたしが常に思っているのは
「どれだけ敏感でも、どれだけ知識を蓄えても、ひとのこころなんて、ほんとうにわからない」
「いつもなんか知ったような、わかったような気になってるだけなんだろうな」
ってこと。
・・・だれにもわからないよ、本当のことなんてさ。
まぁ、わからなくてもいいのかもしれないけど。
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