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子供の頃教わったことなんて大人になれば忘れてしまって

いくつになっても褒められたい、優しくされたい、思いやりがほしい。人間なんてそんなかわいいくてめんどくさい生き物です。

例に漏れずわたしも。


とあるわたしの年下の知り合いが、素敵で透き通ったメッセージをくれた。

職業柄、イベントにお誘いする機会が多いのだが、その子にもお誘いのメッセージを送った。
返ってきた文章に心酔してしまった。
これまで人間関係を広げすぎてしまって人疲れしてしまってるから、最近は人と会うのを控えているんです、だから今回はごめんなさい、でも素敵なプロジェクトなので応援しています、とのメッセージ。

なんてできた人間なんだろう、わたしもこんなことをさらっと言ってしまえる人間になりたいとさえ思った。
それと同時に、世の中の人間全てが彼女のように言葉を使えるのであればどれだけ平和で幸せだろうか、とも思った。


またまた別のとある時には、頑張りの対価がお金ではない場合、それが「ありがとう」になりうると感じた。

お金もらえるからとかじゃなくて、自分はこれがやりたい。
どうせやるなら楽しくやりたい。
みんなとだからやりたいんだ。
でも、今はなんだかつらい、と電話越しに涙を見せてくれる大人がいた。

そんな大人が1人でもいてくれることで、この世界はまだ捨てたもんじゃないと思える。

絶対ワインが好きなわけで

わたしが思うに、うまくいかない時、もやもやする時はたいてい、そこにちょこっとだけ思いを乗せきれてない。それはほんのちょこっとで。

でもそのちょこっとが命取りになる。

てか、世の中は、特に大人(わたし含む)はそのちょこっとをサボりすぎてる。本当にサボりすぎだ。
そんなことにいちいち気を遣っていられない?今は効率の世の中?
おいおい甘ったれんなって。ほんと。そこまでしっかりやれるのが大人ってもんじゃないのか。

夜遅くにすみませんとか、お忙しいところ恐縮ですとか、そうだよねって同意するとか、そこはわたしが悪かったごめんねって言うとか。なんで、なんでそんな簡単なことができなくなっちゃうんだろう、言えなくなっちゃうんだろう。
自分がやられたことは相手にしないとか、悪いことしたら謝るとか。小さい頃に教わったことを、どうして何十年も経って頭も良くなって経験も積んだはずの生き物が忘れてしまうんだろうか。悲しい

そんなこともあってか、大学生の頃にも過ごしてたこの今の景色が、少し違って見えてきた。
同じに見えていた大人たちが、少しずつグルーピングされる感覚が出てきた。自分にとって合う人とあわない人は一番わかりやすい分け方ではあるけど、この人はビジネス寄りの人、この人は道理と人情が大事な人、みたいな。自分がそれを知らなくて、心が傷つきながら火傷しながらその分け方をしている感覚がある。1つ1つのエピソードを思い出すだけで心臓がきゅーってなる。
前職の時に嫌な気持ちにさせられた取引先からの電話を受ける気持ちとすごく似ているから、その感覚は好きじゃない。とても好きじゃない。

だから今はそれに戸惑ってる。
大学生の頃には誰もがみんな素敵でかっこよくて面白い大人に見えてた。けどちょっと違って今は見えてる。正直に言えばどっちを信じたらいいかわかんないわけで。
わたしが未熟だったからなのか、みんなわたしが学生だったから甘口コースで対応してくれてたのか。何を信じればいい。大人ってなんだ、わたしもそんな大人になってしまったのかもしれない、と。

だからって茨城に帰ってこなければよかっただなんて思ってはない。
家に帰れば大好きなお母さんがいて、もふもふのうさぎさんがいて、美味しいご飯も安全なベッドもある。この人と働きたいと思っていた人のところで働けている。これでよかったし合っていると思っているし何て幸せなんだろう。

大学生と社会人の違いは大きい。
自分は変わらないのに周りが急に変わっていく。そんな感覚。割とやってられない。

仕事だから思いやりなんてなくていいのか、結果だけ求めればいいのか、甘ったるい世界線は許されないのか。わからない。

周りに時々急に現れる、サバイブを促してくる大人は怖い。そういう人をわたしは思想強い人と呼んでるけど、そういう人ってカモフラージュがうまい。だからゆる〜くふら〜っと生きてると罠に引っかかる。痛い目にあう。なんで痛い目に遭わないといけないんだろうねえ、
自分の理論がしっかりしてる人は、その人が気づかないうちに自分の主義主張を相手に押し付けてしまっていることにもっと気づかないといけない(自戒も込めて)。それが強すぎると、相対的に弱い人がそうじゃなくてさ、って言えなくなる。てか言わせない。だしその場面では大抵、相対的弱者がものを言うのを諦める。
こうやって恐怖政治ができるし、そんなの絶対嫌なんだけど。

好きなことして時々働くのサボって今何がしたいかわかんなくなって、わかんないこともわかんなくなってる人の行き場をなくしてなんになる。
翻ってわたしは、そういう人が弱音や本音をこっそり言える環境を作りたいし守りたい。思いを言葉にすることが大事な世の中なのは知っているけど、言葉にできる人だけが勝っていく世界は見たくない。

思想強い人の気持ちもわかってしまうから、だから余計につらい。自分に失礼なことがあったのかなって思って反省する反面、そんな言い方しかできねえのかよいい歳してとか、あなたはそんなに偉いんですかとか、暴言吐きたくなる。でも結局吐かないし1人でもやもやして終わる。
なんでいつもあんただけ好き勝手に、と思う。なんでいつもわたしが我慢しないといけないわけなんですか、と思う。選んで我慢してるのはわたしなんだけど。

何を言ってもその人はその人で、わたしはわたしで。
いつだって変えられるのは自分だけで。
ちょっと落ち着いて考えると、その人がその人でいいんだし、わたしはわたしでいいから世界が回ると思うし。

こうやって世の中の小さいこととか相手のこととか考える人から順に幸せになっていけと思う。そうでない人はもれなく、急いでる時の信号が全部赤になってしまえとか、たんすの角に足の小指ぶつけろとか、携帯の充電が常に10%になってヒヤヒヤする魔法にかかってしまえとか、大抵そんなことを考えている。

こうやってここに書くだけでしか憂さ晴らしができない肝っ玉の小さい人間であるわけだけど、案外わたしはそんなわたしが嫌いじゃない。
嫌いじゃないけど、めんどくさいし陰湿だし腹立たしい。なんかうまいこと言って大人ぶってんじゃねえよと思う。でもそれがわたしの戦いかただと思ってるし、そう思ってる以上は怖くて苛立つ大人たちと一緒なのかもしれない。否定しようのない事実なんだろうな。まだ青い。

わたしは人が好きだから一生人に振り回されて生きていくんだろうし、その分人のことは振り回さないんだろうし。そう思うとわたしは案外いいやつなんじゃないかなと。神様、見てくれてる?

誰かと誰かがつながる場所に立ち会えるのが好きで、
誰かの笑い声と笑顔がエネルギーで、
声にならない誰かの思いをしっかり形にしたい。

それがわかったとてこれからどう生きていったらいいか全然わかんないけど、わかるまでやればいいんだと思う。言葉の足りない大人たちを軽蔑しながら、そしてそれをやってしまってるかもしれない自分にうんざりしながら、自分が思い描く大人に向かって歩くしかないんだろうな。

神様、そんな甘っちょろくて信じたいものしか信じられないわたしに、どうぞなけなしの幸運を。
それと、効率と自分の思いで城を固めた大人たちに、子供時代の社会のルールを再び。



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