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感情が持つ力を軽んじてはならない

 キム・ジヘ著 『差別はたいてい悪意のない人がする』(大月書店) を読んだので、本書から個人的に考えたことをまとめておく。

 本記事のタイトルは、『差別はたいてい悪意のない人がする』(以下、本書)のとある一節を言い換えたものである。以下にそれを引用する。

ある集団に対して抱く嫌悪感を、たんに仕方がないことだと思い、野放しにしておくと、さらに不平等が深まる。残念なことに、法律と規範なしに「個人の自発的な合意」を通じて平等が実現することを期待するのは難しい。不平等な体制を維持させる、私たちの感情の力を過小評価してはいけない
(強調引用者)

キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする』大月書店 p.136

 本書の中でも取り上げられている、ヘイトクライム(憎悪にもとづく犯罪)は、まさしく「嫌い」という感情によって引き起こされる犯罪だ。
 日本でも、国籍や人種などを理由とした差別的言動の解消のために、「ヘイトスピーチ解消法」が平成28年6月3日に施行された。マイノリティの権利を奪うような言動、特に憎悪犯罪のように、感情によって行われるものは、民主主義に反する。
 しかし、民主主義における選挙や立法は基本的には多数決の原理を取り、多数派の利害関係によって下された決定は、少数派(マイノリティ)の基本的人権までも侵害する恐れがある(※1)。
 「嫌い」という感情によって、マイノリティを公共領域(政治的・社会的空間)から排除すれば、その可能性は更に大きくなる。
 また、マイノリティが起こす非暴力的なデモ活動に、マジョリティが暴力的に介入すれば、それは「マイノリティが公共空間に出てくるから悪い」という論理が展開される場合がある。それは結果的にマイノリティを更に公的領域から締め出す結果となり、マジョリティの暴力性を正当化することにも繋がる(※2)。

 私たちはこの世界が「公正」であって欲しいと願っているが、実際は不平等に満ち溢れていると知っている。
 男女の賃金格差はなくならず、障がい者の利用を考慮していない施設も多く、同性愛者は結婚できず、トランスジェンダーは多大な金額や手間や苦痛を経なければ戸籍変更もできない。
 その他、大小様々な不平等や差別を挙げていけばキリがない。
 本書でも、メルビン・ラーナーの「公正世界仮説」という言説から以下のように述べている。

 メルビン・ラーナー(1977)は、人々が「公正世界仮説 just-world hypothesis」を抱いて生きていると述べる。……世の中が公正だと信じているからこそ、長期目標を設定し、これからの人生を計画することができる。平穏な日常を維持するためにも、公正世界に対する信頼は必要である
 問題は、人が不正義な状況を見ても、この仮説を修正しようとしないときに生じる。つねに世の中が公正であるという考え方を改めるかわりに、状況を歪曲して、「被害者を批判」する方向にものごとを理解しようとするのだ。世の中が間違っているのではなく、不幸な状況に置かれた被害者のほうが、もともと悪い特性を持ち、間違った行動をしたために、そのようなことを経験するのだと考えてしまう。私たちが暮らしているのは公正な世界だという思い込みのせいで、かえって公正世界の実現が難しくなるという矛盾がここに生じているのだ。
(強調引用者)

キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする』大月書店  p.178-179

 世の中を公正だと信じる、信じたい人は、不平等な立場に置かれている人に、何かしらの悪しき問題があると考える場合がある。不当な差別そのものではなく、不正義を叫び、差別の是正や平等を望む人に批判が向けられる。
 これもまた、自身の感情に重きを置き、実際の社会の現状を直視しない行為ではないだろうか。
 世界を公平だと信じなければ、自分が身を置くこの社会が、ひいては自分の人生に支障をきたすという「恐れ」の感情が、社会を変えようとする人々に、批判という形で向くのではないか。
 つまり、実際には差別や不平等をなくすことでよりよい社会にしようとしている人々を、現在の公平な社会を壊す不穏分子だと理解してしまう。「公平な社会という幻想」が破壊されることを恐れ、その社会の中で享受している自らの権利まで脅かされるのではないかと危惧する。

 しかし、キム・ジヘが指摘しているように、差別がない、平等な社会になったといって、非当事者の人々の暮らしが大きく変わることがあるのだろうか(※3)。
 無論、税金が自分とは関係のないマイノリティの権利のために使われることを良しとしない人にとっては、税金の無駄遣い、ひいては自分を被害者だと思うかもしれない。しかし、そんなマジョリティの権利を守るためにも、これまで税金が使われてきたことを考えると、今まで社会から無視されてきた人々のために税金を使うことは、平等という意味では批判されるような行為ではないだろう。

 理屈では、みんな分かっているはずなのだ。
 この社会は不公平であるため、それを是正し、公平で、自由と平等な社会にするべきであると。
 しかし、理屈ではなく、「不安」や「恐怖」や「嫌悪」などといった感情を様々な論理でもって正当化しーーたとえそれが矛盾に満ち、破綻していようともーー、マイノリティや平等を叫ぶ人を非難してしまう。

 私たちは自らの感情を軽んじてはならない。
 感情の奴隷のように、嫌悪感や不安感などから他人の権利を剥奪するのではなく、まずは何故そう思うのかを考えるところからはじめてみるべきではないだろうか。
 もしそれが、政治家やマスメディアの影響によって擦り込まれたものだったとしたら、それは本当に自分にとって正しい感情といえるのだろうか。
(たとえば、前記事でも述べたように、日本女性の「母性」は、国策として意図的に強化されたものであった)

 私たちは、今一度、自分の感情に意味をつけなおす必要がある。
 これは誰でも、今からでもできることだ。

 私たちは、不平等を甘受しないし、それを正義とも呼ばない。
 マイノリティを排除しようとする国や政治家に抵抗するための一歩として、自分の感情と再度向き合ってみる必要があるのではないだろうか。

参考文献
※1: キム・ジヘ 『差別はたいてい悪意のない人がする』 大月書店 p.174
※2: キム・ジヘ 『差別はたいてい悪意のない人がする』 大月書店 p.155
※3: キム・ジヘ 『差別はたいてい悪意のない人がする』 大月書店 p.198


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