在宅勤務に際立つ、穏やかなテクノロジー|mui
京都に本拠地を置くスタートアップ「mui Lab」は、穏やかなテクノロジーを志向しています。中学・高校の同級生でもある代表・大木和典氏に主力製品である「mui」を譲っていただき、その世界観を垣間見ると、日常との隔たりを無くそうとするデザインに、これからの技術の在り方を考えさせられるのでした。
いつでも、どこにでもコンピュータが存在することを表す「ユビキタス・コンピューティング」。1990年代前半にマーク・ワイザー(Mark Weiser)によって提唱されたこの言葉は、その後のスマートフォンやクラウド・コンピューティングの登場を喚起し、今のIoT(Internet of Things)時代の訪れに一定の役割を果たしたと言えるだろう。一方で、同時期に定義された「カーム・テクノロジー」の概念は、すっかりと置き去りにされたままだ。2025年に416億台に達するとも言われるデバイスが身の回りに溢れる時代を見据え、ワイザーはテクノロジーに振り回される未来を危惧していたというのに。SNSからの通知が途絶えない今日は、まさにその予言の通りになっている。
カーム・テクノロジーとは、「穏やかな」技術のあり方を示唆するものだ。生活に溶け込むテクノロジーが本来の道具としての機能を発揮させると指南する。例えば通知だけを見ても、急がない用件にいちいち注意喚起を繰り返すスマートフォンはとても穏やかとは言えず、私たちの機嫌を大きく損なっている。それはもちろん作り手の親切心の裏返しでもあって、いわゆるお節介が今のアテンション・エコノミーを助長しているのかもしれない。技術に追い立てられる私たちは、苛立ち、本当に必要な通知を見逃してしまう。
人類学者でありUXデザイナーでもあるアンバー・ケース(Amber Case)は、著書『カーム・テクノロジー』にて、その解を使い手の「意識の周辺部」に見出している。すなわち通知は必ずしも意識の中心に作用する必要はなく、さりげなく、他の作業の手を止めない程度に気付かせれば良いというのだ。それは自動車などの成熟したプロダクトではお馴染みのもので、例えばインパネで点灯するライトは冷却水の温度やガソリンの残量を、運転活動を妨げない程度に知らせてくれる。もしこれらがカーナビを倣って、常に音声で警告を始めたとしたら、私たちの集中力は大きく削がれてしまうことだろう。
様々なテクノロジー製品が多機能化を競う中、もはやこれだけ洗練された実装は期待できないのだろうか。もちろんそんなことはなくて、例えばケースの著書にも登場する「mui」は、IoTの時代にカーム・テクノロジーを体現する。普段は木片にしか見えない本製品は内部にタッチパネル式のディスプレイを有することで、必要に応じて入力と出力を担うことができる。シンプルなデザインだけに使い方は無限大だ。一般住居においてはスマートホームの一部として機能する。今日の天気や予定を見たり、灯りを消したり、音楽をかけたり。スマートフォンとの違いは、圧倒的に機能が制限されていることだ。明日の予定は分からないし、選曲もできない。それでも使ってみれば十分だと分かる。
部屋の一部として、子供が外出前にさっと天気を確認できたり、電話が掛かってきた時にさっとオーディオの音量を落とせれば良い。この便利さは在宅時間が増えた今にこそ、より一層際立つものだろう。何かにつけてスマートフォンを手に取らなければならない生活は、その度に他の通知に気を取られ、目的を失わせ、残念ながら穏やかなものにはなっていない。
在宅勤務の際にはなおさらだ。意識の周辺部に佇むmuiは可愛らしい。家の中では働く場所を固定しないことを推進する私も、ついついmuiの隣に陣取ってしまう。メールやメッセンジャーの通知はPCとスマートフォンに任せれば良い。muiは何となく読み取れる程度の低い解像度で、今流れている曲のタイトルをそっと教えてくれる。それは襖や障子に囲まれて、気配を大切に生きてきた日本人にとって馴染みの深い感覚なのかもしれない。まだまだ日本人がテクノロジーを取り戻すチャンスは多いように感じられる。
つながりと隔たりをテーマとした拙著『さよならセキュリティ』では、これまでの西洋思想に基づくセキュリティの限界を示唆し、日本文化的な解決策を模索しています。是非、お手にとっていただけますと幸いです。