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ポップコーンは買わない。vol.106

空白

もし自分の娘が突然このような形で事故死してしまい、折り合いをつけないくてはいけない状況に置かれた時、演じている古田新太のように誰にでも怒号を飛ばしながら、わかりようのない責任追求をすることはないかもしれないが、

どこかに責任を追求したい気持ちが生まれてしまうのは自然なことだと私は考える。

でも古田新太は娘に対して何もしてあげられてなかったという責任もある。取材にくるメディアやまわりの目、それは実は自分自身への怒りがあのように周りに怒号を散らしていたのではないかと思った。

その自分自身の問題に対して周りが関与してきたときに自分がどのように意思を体現することができるか。そしてまわりの受け取り方によってどうなるのかなど、非常に複雑な問題が含まれている。

メディアは出来事を拡散する役割としてあるが、ただ拡散することができればいいということではないだろう。視聴率も大事かもしれないが、その人自身の問題をもっとセンシティブに捉えて報じ方は考えなくてはならのではないかと思った。

結果的にその人の意思とは真逆の方向に世論を向かせてしまうことになり、初めは手の届く範囲での問題だったことが、世間によってどんどん追い詰められていく姿、こちらが全く制御できない堕ちていく感じの胸糞感、迫るものがあった。

優しさとは受け取る側がジャッジする概念

世で言われている勧善懲悪って見方の問題で、はっきりと物事の良し悪しが分かるコトってないんだなって思った。

人の優しさ、怒り、悲しみは見方によっては共感できるけど、一方では全く共感できないし、その理解のできなさにハラワタが煮えくりかえる思いをすることもある。

この作品における主人公的な立場にあるのは古田新太が演じる添田と、松坂桃李が演じるスーパーの店長の青柳。

描き方としては被害者にも加害者にもなりえる立場で、お互いに主張は拮抗しているように思える。

決定的な万引きの瞬間や痴漢の有無などをはっきりと描いていないため、我々もどっちが悪いのか悪くないのかが全然わからない。

そんな2人の間に入る存在として描かれるのが寺島しのぶが演じている草加部というスーパーに勤めるパートのおばちゃん。

草加部は、スーパーの店長である青柳の味方としての立場をとっている。青柳への好意もあって、彼のためには善意フルパワーでなんでもやってあげようとする。

でも、その人自身が善意で(相手に喜ばれると思って)やってあげたことが、施された当人からするととんでもないことをされたという被害感覚に陥ってしまう現象がある。

僕の身近な経験でいえば、思春期に母親が勝手に自分の部屋に入り込んで掃除をしたりとか、勝手に整理された時に、ものすごい恥ずかしい気持ちとともにわきたつ怒りの感情がその被害の感覚に当たる。

家族ならなんだかんだ言いながら、おさまっていく現象ではあるのだけれど、それが他人からとなるとややこしい話だよな。

形としては遠慮という形で断りを入れても、そのバリアを破ってズケズケと施しをしようとする人に対するウザさ。これが見事に描かれている。

これでわかったのは優しさというのは受け取る側がジャッジする概念であって、施した側が優しくしたという風に思っていてもその時点ではただのエゴであるということなのだ。

優しさの種類

男女の話でも、「優しい人が好き」という文言を聞くことは多いと思う。そりゃそうだ。みんな優しくされたい。だからといって優しくされる方とする方の優しさへの解釈にはギャップがある。

でもこれをやればある程度は優しい人間と認めてもらえる型はあるように思える。

例えば
男が車道側を歩くとか、とかとか

マクロ的な優しさ

そのさらに奥にあるミクロ的な優しさって、ただその型の決まった優しさをこなしているだけではダメな気がしている。

その施しはその場その場で慮りながら施さなければならない。と理屈では考えられるけど、実際にできるかと言われればそれはムズし。笑

なんでもかんでも〇〇してあげるというのは人によって場面によっては暴力にも感じてしまうことがあるということを気をつけなくてはいけない。

最後に

人間ってめんどくさい。変に頭が回るようになると余計にめんどくさい。

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