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災害の多い日本だから今こそ「祈り」の意味を考えて行動しよう

私の田舎では田植えという一大イベントに向けて着々と準備が進められている。

田おこしや代掻き、苗の育苗など農家は世間の休業騒ぎとは無縁である。

そんな中で先日4月19日に春の大祭が関係者のみで祈祷が行われた。

本来ならば集落の神社に村人が集結して神楽を鑑賞したり、村人同士のコミュニケーションに花を咲かせたりするのだが、この度のコロナによる感染症拡大予防のため、そのような催しは行われなくなった。

関係者のみでの祈祷が行われたと記したが、こんな時だからこそ人は祈り、平安を願うのかもしれない。今回はそんな民俗信仰に関する記事。

各集落においてこのような祭りごと、信仰はいまだに形として残っている。形として残っていることは前提。その中身が伴っているのかどうかということが問題である。

自然という争うことのできない存在に対して我々は古くから恐れ、尊重した。だからこそ自然との調和を図ろうとしてきたし最大限に気を使ってきたはずだ。その結果が山岳信仰などに繋がってくると考える。

それは全国どこにでもあったはずだ。もちろん東京にも。今は自然の見るかげもない祈りの形すら見るかげもないコンクリートまみれのジャングルと化してる関東だが。

新潟県柏崎市に「米山」という山がある。

この山頂 には、日本三大薬師の一つである米山薬師堂 がある。米山は、奈良時代の和銅5年(712年) に泰澄大師により開山され、田の神、作の神 などの農業神としてまた病気平癒の神として農民を初め多くの人々の信仰の対象とされていた。

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これは私の暮らす集落に安置されている石碑である。

「米山塔」

この米山は先ほど記した米山に順ずる。

この石碑は新潟県の中越地域によくみられる。田植えが始まる前の今頃の時期に村人は米山に祈りを捧げ農事に取り組んでいた。

農作物は自然がもたらしてくれるものという、ある種での形なのではないだろうか。決して化成肥料や農薬がもたらしてくれるものではない。

自然を制御しようとするのは技術の発展があってのことだと思うし、よりよくしてこうというのは大変にいいことだとは思うが、ただ前提の自然を忘れてしまった時の人間というのはあまりも無力だし、食料が収穫できずに苦しんでしまうの自分たちだ。そうならないように恐れなくてはいけない。新潟では古くから信濃川をはじめとした水害に悩まされてきた。その度に河川を改良してきた。恐れてそして尊重する。準備、行動することが何よりも大切なのではないか。昨今のコロナしかり、地球温暖化によるゲリラ豪雨などの異常気象はまさに人間のエゴの揺り戻しがやってきてるのではないか。

なぜ人々は祈るのか。

祈りの意味を理解し、行動することが大切なのではないか。

そこからスタートすれば今僕らが何をすればいいのか見えてくる気がする。

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