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貧弱なる「秤」(※文学ってなんだ 7)

宇野常寛氏が『リトル・ピープルの時代』という本の中で、いわゆる「サブカル論」を発表したのは、2011年、震災後すぐのことだった。

一読して、これは、特別に「サブカルチャー」を取り上げて論じようとしたものというよりも、小説、映画、アニメ、テレビ、アイドル、等々――いわば、現代社会に現れた種々の「表現」を、多岐にわたって、宇野常寛という評論家が、きわめて熱ぽっく語っただけの文章だ、という印象を抱いた。

宇野氏は、たとえば、映画『ダークナイト』を真剣に、情熱的に「読み解く」ことによって、リーマン・ショックを引き起こしたために、混迷をきわめたアメリカ社会をあげつらい、ひいては、大震災に見舞われて、やはり暗闇に囚われてしまった(ような)日本社会へ向けて、新しい何かを「提唱」しようとする、そんな意気込みを盛り込んでいた。

評論家として、それは正しい態度である。また、賞賛すべき態度であるとも言えよう。

しかし、そういった態度を、小説家として、あるいは、広義には「クリエーター」として、そのまま模倣すべきではない――という話を、今回はしてみようと思う。

『ダークナイト』論の中で、宇野氏も心酔した「ジョーカー」のような、圧倒的な「ヴィラン(悪)」についても、併せて論じながら。


『リトル・ピープル』の中で、宇野氏がその主張の中に宿らせた「情熱」は、小説家であれ、クリエーターであれ、誰であれ、もっとも見倣うべき姿勢である。「情熱」が無ければ、あらゆる作品、事業、仕事…は、その命を持たないのと、同じだからである。

模倣すべきでないというのは、「時代を読み解いて」、「そこにうごめく人間(も読み解いて)」に向かって、「なにがしか提唱しよう」という態度の方なのである。

評論家は、それでもいい。(とういか、「情熱」をもって、そうすべきなんだろう。)

しかし、クリエーターに、少しでも、そんな気ぶりがあると、作品にとって、それはまるでがん細胞のような、悪さを働く。

例えば、大江健三郎の小説や、スタジオジブリの映画や、ザ・ビートルズの音楽なんかには、そんな「がん細胞」に冒されている作品が目立つ。

それゆえに、変にペダンチックで、はなはだ理屈っぽくて、なぜか偉そうで、ゲンナリするほど説明的で、――要するに、すこしも「オモシロクも、オカシクもない」のである。

なぜか。

なぜ、そんなふうな、はっきり言い切ってしまえば「失敗作」が、生まれてしまうのか。

混迷する時代を読み解いて、翻弄される人間を励まし、勇気づけたい――という心が、間違っているのだろうか?
(自分を含めて)困難に陥っている人間を、見捨てることができない――まことにまことに、人間らしい心ではないだろうか?

がしかし、そんな心のどんなにか「正しく」あったとしても、どんなにか「人間らしい」ものであったとしても、その「秤」は、いったい誰のものなのだろうか?

「正しい」とか「人間らしい」とか、そういう基準は、いったい誰が決めるのだろうか?

お前にも、社会にも、世の中にも、そして、この俺自身にも、――つまるところ、誰にも決められないものじゃないのか…?

――たとえば、こんな感じに、なかば演技のような、あるいは、完全に狂ったような笑みを浮かべながら、「正義」や「人間」に向かって、薄気味悪く言い寄って来るのが、『ダークナイト』に描かれ、宇野氏も絶賛した、ジョーカーである。

そして、主人公であるバットマンは、こういうジョーカーの「笑い」に対して、いつでも、はっきりとした反論ができないのである。

クリストファー・ノーラン監督は、非常に分かりやすい「意図」をもって、ジョーカーという「善悪の秤が完全に欠落した」ような、「ヴィラン(悪)」を、『ダークナイト』の中で描いている。

その意図とは、圧倒的な「ヴィラン(悪)」によって、「正義」が翻弄され、蹂躙されていく様子と、「人間」がおじまどい、失敗し、打ち負かされてしまう顛末を描くこと――である。

『ダークナイト』の中で、「正義」を代表する検事や警察も、「人間」の象徴としてのバットマンも、純粋ともいうべき「悪」なるジョーカーとの、度重なる闘いに打ち勝っているように見えて、その実、一度たりとも勝っていない。むしろ、ひたすらに、敗け続けている。

それゆえに、検事は悪に堕落し、警察は嘘で真相を隠蔽し、バットマンはすべての罪をかぶって闇の彼方へと追いやられていく――そんな「完全敗北」のような結末をもって、物語は幕を閉じるのである。

なぜか。
なぜ、『ダークナイト』という三部作の二作目は、まったく面白くもないその他の二作品とは一線を画した、不思議な、あるいは不可解な終わり方をしているのだろうか…?

ここに、『ダークナイト』よりも約半世紀前に制作され、やはり絶賛を浴びた日本映画、『天国と地獄』がある。

『ダークナイト』と実によく似た、いやむしろ、それをはるかに超越した、他に類を見ないような衝撃と、迫力に満ちみちたエンディングが、描かれている。

『ダークナイト』も『天国と地獄』も、「正義」と「人間」対「悪」という物語の基本的構図は、まったく同じである。そして、「正義」と「人間」が「悪」に対して、表面的には打ち勝ったように見えて、その実「敗けてしまっている」という結末まで、同じである。

しかし、その描かれ方が、全然違っている。

圧倒的な才能の差でも見せつけるように、『天国と地獄』は『ダークナイト』にその完成度において勝っており、さらには、「クリエーター」としての黒澤明(監督)の真価まで、光り輝かせている。

すべては、映画を締めくくる、わずか5分か10分のラストシーンに結晶される。

そのシーンとは、ある日突然、子どもを誘拐され、身代金を要求され、そんな事件によって、それまでの人生で築き上げてきた「金も、地位も、名誉も」、すべてを破壊され、失ってしまった父親が、ついに逮捕され、留置場に入れられ、裁判で裁かれ、あとはただ死刑執行を待つばかりの、鉄格子の向こう側の誘拐犯とあいまみえて、会話を交わす様子を描写したものである。

黒澤明は、この、たった5分か10分のシーンだけで、すべてを一変させてしまう。

それまでの物語において、これでもかというほどに描かれ、語られ、貫かれていたはずの、「正義」や「人間」による「悪との闘争」も、――その激しく、魂の火花を散らし続けるような闘争の末に、つかみ取ったはずの「勝利」も、――たった一瞬にして、覆され、ひっくり返されてしまうのである。

しかも、命をかけて闘った相手である「悪」の正体など、まったくもって、明かされないままに…。

ノーラン監督は、『ダークナイト』の中で、ジョーカーという「悪」を、多少なりとも「説明しよう」としているフシが見られた。そんなシーンは、はっきり言って不要だった。しかし、『天国と地獄』の黒澤明にいたって、そんな「説明」も「解説」も、ほとんど天才的な芸当でも見せられているように、なされていない。

黒澤は、あえて、わざと、はなはだ意図的に、それを避けて、避けて、避けて、最後の最後まで避け続けて、映画を描き切った。

そうまでしておきながら、最後の最後で、「悪」に命じたように、たった一瞬だけ、その「素顔 」をあらわにさせる。

「悪」の素顔――その圧倒的な「狂気」が、観る者すべての心をわしづかみ、ただただ、生涯忘れられないような驚愕と、恐怖を、抱かせる。

「悪」の素顔――その圧倒的な「激情」が、やりきれない、底のしれない、救いようのない深淵として、ばっくりと鰐口を開いた、――次の瞬間、黒澤明は、映画の幕を、唐突に、一方的に、強制的に、下してしまうのである。

そればかりでは済まされない。さらに黒澤は、観る者すべてに意地悪でもするかのように、「悪」を舞台から退場させた後に、「正義」を信じ続けて来た「人間」を象徴する主人公であるところの父親の、微動だにできなくなった背中を、映し続ける。

自分が人生をかけて、すべてを犠牲にしてまでして、追いかけ、捕まえ、いざ、裁こうとしている「悪」とは、いったいなんだったのか…? 

本当に、俺は、この「悪」を裁ける存在なのであろうか…?

本当に、俺に、そんな資格はあるのだろうか…?

俺が今の今まで、人間らしい生き方だと信じて疑わなかったものとは、何だったのか…?

この「悪」を生み出したのは、俺が「正しい」と信じて来た生き方に、ほかならないのではないのか…?

例えば、そういった問いかけを、父親が見せる後ろ姿に、「余映」として残しながら、ついに画面は、真っ暗になっていく。


さて、ここで冒頭に戻り、なぜ、「時代を読み解いて」、「そこにうごめく人間」に向かって、「なにがしか提唱しよう」という態度が、「クリエーター」は模倣すべきでないのか――

もはや、「説明」する必要はあるまい。

もちろん、ペダンチックに、理屈っぽく…やりたければ、やったらいい。すべてのクリエーターは、ただ自分の信じた道をこそ、進めばいいし、その自由を奪うことは、何人にも許されていないのだから。

ただ、いつでも、ジョーカーは笑っていて、「深淵の鰐口」は、開かれたままである。

時代や文明によって右往左往を繰り返すような、「正義」や「人間」という、貧弱なる「秤」に対してこそ…。


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