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人生は努力次第。でも、そう言われる苦しさもある

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「あたり」と「はずれ」です(本記事は2022年1月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 京都でタクシーに乗ったところ、降車の時に運転手さんから、
「四つ葉のクローバー号、ご乗車記念です」
 と、カードとシールをいただきました。それを見た私は、
「嬉しい! この車、そうだったの!」
 と、大喜び。

 このタクシー会社のトレードマークは、クローバーです。車の上に乗る、いわゆる行灯にもクローバーが描いてあるのですが、普通の車は三つ葉のクローバーであるのに対して、四つ葉のクローバーが描かれた車が4台だけ走っていて、それが「四つ葉のクローバー号」なのでした。同社の約1300台のタクシーの中の4台ですから、確率は約0・3パーセントということになります。

 私はタクシーと記念写真を撮り、いただいたカードとシールを大切にしまいました。何かいい事ありそう!……と、気分が上がります。  

 この「四つ葉のクローバー号」は、非常に良い顧客サービスのように私は思います。ほとんどコストをかけずに、私のような者を大喜びさせることができるのですから。

 私は、いわゆるクジ運が良い方ではありません。ビンゴでも福引でも、バッとしたものが当たった試しはなく、子供の頃、アイスクリームの棒に書いてあったのは「はずれ」ばかり。ですから京都におけるタクシーの「あたり」がものすごく嬉しくて、ついはしゃいでしまったのでした。

 「あたり」の嬉しさとは、努力せずして幸いが舞い込んできた、という喜びです。何となく乗ったタクシーが四つ葉のクローバー号だったり、何となく食べたアイスクリームの棒に「あたり」と書いてあったりするから、幸いが舞い降りてきた気分になる。「あたり」を得るため、ひたすらタクシーに乗り継いだり、アイスクリームを食べ続けたりしたならば、それは努力の結果としての幸せであり、また違う喜びなのではないか。

 源氏物語を読むと、「さいわい」、つまり「幸い」の意味が、あの時代と今は異なることがわかります。努力して獲得するものではなく、玉の輿のようにたまたま降ってきたものこそが、女性にとっての「幸い」だったのです。

 努力しようにも術がなかった、と言うこともできましょう。勉強や仕事に力を注いで成功を手にする道は閉ざされていた、昔の女性達。だからこそ「幸い」は、自分で手に入れるものではなく、他人から与えられるものだったのです。

 対して私は、自分の努力で「幸い」を得られる時代に生きています。それはとてもありがたいことではあるものの、たまに「全てが努力次第」ということが苦しくなることも、あるのでした。何か不満があっても誰のせいにもできず、「自分の努力不足のせいでしょ?」となるのですから。

 だからこそ私は、たまたま四つ葉のクローバー号に乗ったことが、ものすごく嬉しかったのでしょう。何ら努力していないのに、タクシーの神様がふわりと四つ葉のクローバーをもたらしてくれたのであり、まさに僥倖でありご褒美、という感じ。

 「はずれ」を引き続けている人にとって、滅多にない「あたり」は、このように大きな喜びをもたらしてくれるのでした。射倖心が刺激されすぎるのはよくないけれど、たまに努力と関係のない部分で良いことがあると、「また頑張ろう」と思えてくるのです。

酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『処女の道程』(新潮文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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