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群馬県で「さぬき」の面影を探す【第15回】宝福寺と佐貫庄(群馬県邑楽郡板倉町)

京都の西本願寺で勤められた「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」を記念して、宗祖・親鸞聖人(1173-1263)が関東の地に残された由緒を伝える「ご旧跡」を、令和の時代に昭和の香りを残すおじさん僧侶2人が巡ってみました。今回は宝福寺と佐貫庄(群馬県邑楽郡板倉町)です。

ご旧跡紹介

 1214(建保二)年、親鸞聖人が越後国から常陸国に向かう途中のこと。「武蔵の国やらん、上野国やらん、佐貫と申すところ」(『恵信尼消息』(三)註釈版聖典P816)にて、聖人は衆生救済のため、浄土三部経(浄土真宗の根本聖典である『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』」のこと)を1000回読誦しようとされた。

 しかし4、5日後には中止された。そのことを1231(寛喜三)年、聖人59歳のころ思い出されたという話が『恵信尼消息』(親鸞聖人の妻・恵信尼さまから末娘・覚信尼さまに宛てられた手紙)の中に出てくる。経典を読誦しようとしたこの行為について聖人は、阿弥陀如来の本願を自ら信じ、人を教えて信ぜしむることこそ、仏恩に報いることだと思い直し、中止したのであった。

 読誦しようとしたことを後年改めて反省し、恵信尼さまに語ったというエピソード。その佐貫の地が、群馬県邑楽郡板倉町にある宝福寺と考えられている。

現地ルポ

 2月号に書いたように、1921(大正十)年に『恵信尼消息』が西本願寺の蔵から発見され、この佐貫の地が、現在の群馬県邑楽郡板倉町にある宝福寺であるという説が有力になりました。

 宝福寺は開基が聖徳太子と伝えられる真言宗豊山派の寺院で、京都から越後、関東と親鸞聖人とともに過ごした門弟・性信の坐像などが伝わっています。

 我々が行った際、宝福寺は閉門されており、今回は外から参拝しました。そして実は現在、群馬県邑楽郡板倉町には佐貫という地名は残っていません。かつて佐貫庄と言われていたのは、現在の群馬県東南部、利根川と渡良瀬川にはさまれた広大な湿地帯を有する地域でした。今は治水されており宝福寺周辺には住宅地が広がっています。

 そこで今回、「さぬき」の痕跡を探すために、周辺を歩いてきました。その結果、明和町の「大佐貫」という交差点、千代田町では「佐貫庄」と名づけられた日用品雑貨店に出会いました。

旅ある記


星 今回は真宗門徒の間で大変に有名な「佐貫」の地にやってまいりました。
藤 もちろん2月号(栃木県塩谷町の佐貫観音)もそのつもりでご紹介はしたんだけどね。
星 宝福寺の性信さん坐像は、先日まで京都国立博物館で開催されていた親鸞展で拝見することができました。
藤 私も行ってきたけど、ちょうどこのタイミングで見られたことにご縁を感じましたね。
星 ここから大佐貫交差点は10キロ……。
藤 星さん安心して。大佐貫から佐貫庄までは7キロしかないから!
(途中省略)
星 ついに来ました!佐貫庄!
藤 (ガチャッ)星さん、缶コーヒー飲む?
星 はい。ああ、ご法義が体に流れてくるような気がします。
藤 今回の取材で発見したこの1本の缶コーヒーとの出会いこそ、私たちにとっての「シン・佐貫草庵」というわけですねぇ。
(藤本真教・星顕雄)

熱中症対策を取った上で、できるだけ車での移動をおすすめします。

公共交通機関でレッツアクセス!
〒374-0132群馬県邑楽郡板倉町大字板倉2406
(実相寺)
築地→(東京メトロ日比谷線北千住方面行き)→北千住→(東武スカイツリーライン南栗橋方面)→南栗橋→(東武日光線・東武宇都宮方面行き・ここまで計960円)→板倉東洋大前→(徒歩1時間)→宝福寺

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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