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丸い世界で生きるのは、実は大変なのかもしれない

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「丸」と「四角」です(本記事は2020年9月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 四人で食事をする時、丸いテーブルと四角いテーブル、どちらがあなたはしっくり来るでしょうか。
 
 ちなみに私は、四角いテーブル派なのでした。丸いテーブルは、たとえばパリのカフェのそれのように見た目は可愛いのですが、あまり物が載りません。角っこまで物が載せられる四角いテーブルの方が、機能的のように思うのです。

 実用的な面のみならず、丸と四角では食卓につく人の心理も違ってきます。四角いテーブルの場合は、一人につき一面、という感じで、それぞれの持ち分というか“陣地”のような範囲が決まってくるもの。対してテーブルが丸いと、両隣の人と自分の“陣地”は溶け合い、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの……的なことになってくるのです。

 そうなると、陣地が決まっている四角いテーブルの時よりも、考えなくてはならないことが多くなってきます。

 「あれ、このパンって私の? あなたの?」
 とか、
 「このおしぼり、 誰か使った?」
 などと。

 単なる「形」として見た時は、角が立っている四角よりも丸の方がよい、とされがちです。若い頃は激しい性格だった人は、年をとるとしばしば、 「丸くなった」と言われるもの。性格の角が取れることはよいことだ、とされるのです。

 京都のとある禅寺に行った時は、丸い窓と四角い窓が並んでいて、丸い窓には「悟りの窓」 、四角い窓には「迷いの窓」と名がついていました。丸い窓の向こうにお庭の緑が見える様からは、確かに平和な雰囲気が漂っていたものです。

 おだやかで、なごやかで、平和。それが丸のイメージですが、しかし丸いテーブルで食事をしている時に思うのは、 「丸の中で生きるのは、実はとても大変なのではないか」ということなのでした。四角のように陣地が可視化されていないので、譲り合ったり空気を読んだりすることが必要。じっと我慢しなくてはならない時もあります。どちらが楽に食事ができるかと行ったら、おそらく四角いテーブルなのではないか。

 丸い地球で暮らすということは、丸いテーブルで食事をすることと似ているのかもしれません。地球という「丸」の中では、隣人と自分との違いを認めるとか認めないとか、陣地から出たとか出ないとか、様々な摩擦が生じています。同じように、丸いテーブルで食事をする時は、隣人の食べ方が気になったり肘がぶつかったりと色々あるわけで、それを何とかやり過ごしながら、なるべく楽しく時を過ごす努力をすることになる。

 丸いテーブルは、そうしてみると私たちにとって一種の練習台なのでしょう。他人と自分との間の境界線が曖昧な中で、折り合いをつけながら食事をする。それは平和に生きることへの第一歩なのかも。

 世界は四角くないから面倒くさいわけですが、しかしコロナ時代、家にこもって「個」として過ごす時間が多くなる中で、あの面倒臭さが少し懐かしくなってきたのも、事実です。コロナが明けたならばレストランの丸テーブルをあえて選んで、久しぶりに丸い世界の面倒臭さを体感してみようかとも思っているのでした。

【築地本願寺新報 2020年9月号より転載】

酒井順子
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経て、エッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『無恥の恥』(文藝春秋)『うまれることば、しぬことば』(集英社)など。

【上記記事は、築地本願寺新報に掲載された記事を転載しています。本誌の記事はウェブにてご覧いただけます】


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