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お肉も人間関係も。「薄さ」や「淡さ」を尊んでもいい。

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「厚い」と「薄い」です(本記事は2023年3月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 冬、京都の友人から千枚漬をいただきました。聖護院かぶらを薄切りにして漬けた、白くて丸いお漬物です。

 1個のかぶらを千枚に切るほどに薄い、という意の千枚漬を味わいつつ、私は「千枚漬は、その薄さを味わう食べ物であるなぁ」と思ったことでした。これが分厚かったら全く異なる味わいになってしまうのであって、薄く切るからこそ、味わいと歯応えが増す。

 ほんの数枚が1パックになっている千枚漬は、他の漬物と比べても高価な品です。が、薄さもまた身上であることを考えると、私達はその手間暇ごと味わっているのかも。

 海外に住む友人が、
「こちらにいると、薄いお肉が食べたくなる」
 と言っていました。巨大な塊肉や分厚いステーキ肉はたくさん売っているけれど、
「そんなのばかり食べていると、しゃぶしゃぶ肉みたいな薄ーいお肉が恋しくなるんだけど、こちらには売ってないし、自分ではあんなに薄く切れない!」
 のだそう。

 確かに、我々は薄切り肉が好きです。特に牛肉や豚肉の場合、塊肉や分厚い肉はハレの日に食べるもの、という感じ。日常のおかずには、薄切り肉を使用しがちです。

 私も、しゃぶしゃぶ用の肉を常備し、しゃぶしゃぶのみならず、炒め物やら汁物やらにも多用しているのでした。肉もまた、「薄いからこそおいしい」という部分があって、海外に住む友人が「薄い肉が食べたい」と思うのもよくわかります。

 牛丼のチェーン店においても、カンナで削ったのではないか、という感じのヒラヒラした肉が使用されていますが、あの肉もまた、分厚かったらおいしくないに違いありません。のみならず、鰹節やらおぼろ昆布なと、薄さを追求した食品はいずれも日本食では重要な存在。我々は、薄いからこその繊細な味わいを好んでいるのでしょう。

 「厚い」と「薄い」と言った時、「厚い」方が何となく良いイメージがあるものです。たとえば「情」は薄いより厚い方が良いわけですし、布団のようなものも、煎餅のように薄いよりも厚い方が喜ばれる。

 しかし日本では、時に厚みが重みに感じられることもあるのでした。たとえば気温も湿度も高い夏には、厚すぎる情も分厚い布団も、はたまた厚い肉も何だか重苦しいわけで、そんな時はあっさりと薄いものの方がありがたい。

 暑い時ばかりではなく、重厚・濃厚なものにばかり囲まれていると、心身ともに疲れてしまうのが、我々です。時には分厚いステーキにも心踊るけれど、毎日食べたいわけではない。濃厚な人間関係に疲れてしまうと、一人でいたくなる。……ということで、何事にも淡白な我々だからこそ、薄さや淡さに対する愛と親しみを持っているのではないか。

 薄い肉は、厚い肉のように「肉を食べている!」という実感は強くもたらさないけれど、共に料理されている野菜などの味を生かしてくれます。肉だけでなく、薄い食材は全て、周囲の食材をも尊重して調和をとる存在なのです。

 そう考えると、日本人が好きな薄い食品群と、和を重視する国民性を持つ我々は、似ているのかも。薄い肉の協調性と柔軟性に我が身を重ねつつ、我々はすき焼きや牛丼を食べているのかもしれないなぁと思うのでした。
 
 
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966 年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003 年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『女人京都』(小学館)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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