「上手い下手・いい悪い」でなく「自分が見て好きか」で上達を目指す
突然ですが私の写真を見てください。
いかがでしょ。
好きだと思ってもらえますか?
私は自分の写真も、私の写真を好きだと言ってくれたあなたも大好きです。
では逆に。
私の写真は「上手い写真」「いい写真」だと思いますか?
これは各々感想が違っていいと思います。
なんせ私自身、この4枚のなかでも「いい写真」と「そうでもない写真」があるので。
今回は世の中にある「写真が上達するポイント3つ」みたいな、インスタント上達テクニック文章に反発する記事です。
むしろ創作全般で共感してもらいたい。
ただし読んでくれるあなたにバリューは提供します。
抽象的な話もしつつ、写真についてはレビューも交えて。
「上手い下手・いい悪い」指標の弊害
「上手い下手」「いい悪い」という指標は、とても分かりやすいというメリットを持っています。
文章なら1文のレトリックや構成。
写真なら画面構成や色彩。
絵ならタッチやパース、再現度など。
特定の指標をものさしとして、世の中にあるコンテンツから見て相対的にどの位置に置けるか、という観点で評価ができます。
さらに基準も自由に設定できるので、「私の作品より△△がいい」「○○さんよりも××が下手」など、自分がどう評価したいかという尺度で物を見ることができます。
分かりやすい反面、基準点をどこに置くかが恣意的です。
私が観た最たる例として「絵はルネサンス美術など、鑑賞するうえで宗教的教養や技法などの知識を必要とするものがすべて。こんな絵くだらない」なんていうYouTubeのコメント。
あなたが批評してるの、モネの傑作ですけど???なんて思ったり。
例は絵画作品ですが、創作物すべてに言えます。
「この絵はピカソと比較すると~」
「木村伊兵衛の写真と見比べると見劣りする~」
「村上春樹が素晴らしい作品を書いてるのだからあなたが書いても~」
このとおり、アンチ難癖ファッ〇ン下衆の出来上がりです。
ちなみに私の頭の中では自分の写真や文章をこき下ろすファッ〇ン下衆が飼われています生きづらいね。
また「この人は賞を取っているから素晴らしいのだ」という権威主義的な思想にも陥りがちです。
賞を目指して努力すること、受賞したことや賞自体を否定することはナンセンスではあります。
しかし見る側の観点として、自分の主観的な判断ではなく、その権威に裏付けされた何かを盲目的に賞賛しかできないのなら、これほど虚しいことはありません。
「自分が見て好きか」という指標
他人の作品でも、自分の作品でも。
私は「なんかいい」について深堀りすることを重要視しています。
「なんかいい」、すなわち、自分がその「何か」にときめいていて、要素を抽象化したときに自分が作りたいものが見えるのでは、という観点です。
好きな作品の例に印象派絵画があります。
特にモネの「印象・日の出」「散歩、日傘をさす女」「ラ・グルヌイエール」「連作・積みわら」「連作・ポプラ並木」
ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」「レースの帽子の少女」などなど。
どれも知識欲を満たす(宗教上の○○を描いていて~とか、この技法は~とか)よりも、直感的に好きだと思わされて、そしてなぜ自分はそれを好きだと思うのか、と没入できるものです。
印象派絵画は技法や成り立ちが特徴的なので、解説を聴けば要素分解が可能です。
しかし、しかし、もっと直感的な「なぜ心動かされるのか」を抽出できたとき、それは自分の作品にも活かせる武器になります。
例として、私の家に飾られているモネの「積みわら - 雪の効果」を持ってきましょう。
冬の早朝、寒くて目覚めてしまった日。
散歩にでも出るかと、歩いて見ると雪をかぶった積みわらが。
雪を踏みしめる音に体の芯まで冷え固まりそうなのに、朝の陽ざしを受けた藁のあたたかさに、冬のにおいを覚える。
そんなシーンが連想できません?私は連想しました。
でもこれは上述したファッ〇ン下衆が難癖付ける作品です。
でも私は好きだから好きなんです。以上!おわり!うるせぇ!
すごく難しいですが、言語化に至る前の直感を、そのままの鮮度でアウトプットしたい。
そのままの鮮度の直感を、そのまま写真や文章に起こしたい。
まだまだ出し切れていないものを求めて活動を続けているのだと思っています。
私の写真の好きなところ聞いていけ
自分の記事なんだから自分語りさせろい。
ただ何枚も語ると冗長なので一葉だけピックアップ。
こちらの記事でも掲載したいろさんの写真です。
写真は何を写して、何を写さないのか、という取捨選択の世界です。
それはフレーム内においても、フレームの外に何があるかを想像させる余地を残すかも、という両側面の意味に於いて。
写真を撮る者、取捨選択に究極の答えが存在するのかという正解のない道を歩んでいくものと思っています。
その中において、ひとつ”武藤彩を撮る”という課題に対しての答えを出せた気がする一葉です。
光の入れ方、顔のパーツの切り取り方、アクセサリーや服との調和。
彼女の美に対する想像を絶する努力、アイテムの選択に対する磨かれたセンス。
そういった力が一つの束として実を結んだ、だから好き。
あなたが見たとき、どんなシチュエーションを想像するか聞いてみたくなります。
写真という一瞬を切り取る装置において、背景に存在するストーリー含め、「これだ!」というクオリティが出せました。
何より他の人からの評価が気になる私が、「自分が納得しているからそれでいい」と確信できるのです。
確信を信じられない人間が、ひとさまを納得できるはずなどなく。
胸を張って好きだといいます。
自分の好きを信じられるか
私は私の写真も文章も好きです。
撮りたいように撮って、書きたいように書いて。
それでいて見てくれた人、写ってくれた人も好きだと思ってくれるのですから。
どうやって好きになったか、なんて振り返ってみると、他の人の写真や絵を見て「どこがいいと思うんだろう」と考える時間のお陰と思ってます。
モネの絵なんかは、美術館にいる間ずっと考えています。
SNSの写真も同様に見ています。
手法も同じ。
例えば「フィルムライクなレタッチの方法!」なんて動画を見て試しても、その方法って他で使うことは無くて。
作業手順の中に(あ…この操作で出てくる色いいな…)ってときめいた手法だけ、今でも使っていたりします。
別に方法の是非とかどうでもよくて。
「自分が好きだと思ったものを信じてみる」ことが重要。
見て、試して、自分の審美眼を拠り所に判断をする。
結果を見て自分の作品を好きだと言えるか、を基準に考える。
世間での評判とかトレンドとかとりあえず抜きにして、まず自分基準で。
その積み重ねだと思うのです。
誰かの真似をしてそのまま終わりでなく、どこが好きなのか、なぜそう思うのか、を言語化するために真似る。
そして自分のアウトプットが自分の感性にマッチするのか観察する。
好きになるにはどうなったらいいのか、ちょっとだけ考えて変えてみる。
何より世間でのウケは二の次にすること。
他人様の「上手い下手・いい悪い」を追い求めることも時には必要ですが、まずは自分の脚で立つこと、その上で要望に応えること。
決して多くはなくとも、1つの好きを追い求めること。
そのために多くの物を見て、考えて、取り込んでいくこと。
そんな姿勢、いかがでしょうか。
おわりに:とはいえ評価されないと辛いよね
先日投稿した自信作の写真があまり伸びなくて辛いという話。
noteのアルゴリズムにうまく乗っかれなかった、noteユーザの需要にはマッチしなかった、というだけの話で。
私の写真そのものの価値が毀損されたわけではないと理解しています。
この写真たちは、自分のなかでも特に自信があるので、やっぱ見てほしいし共感してほしい。
辛いもんですが…でもモデルさんと一緒にお気に入りな写真なので、それでいいです。
noteもなんやかんや毎週投稿が3年に到達しました。
下手の横好きとはいいますが、始めた当初に比べたら幾分か評価いただけるようになってきました。
それでもダメな時はあるもんです。
周囲の環境に流され過ぎるのは、どうにか避けたいなと。
あなたの好きはどこにありますか?
良かったら教えてください。
それでは。
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