あらためて、『オリンピア』について思うこと
パリ五輪が終わりました。以前も『オリンピア』もうひとつのあとがきと、ある編集者の感想に書いたとおり、『オリンピア』は1992年のバルセロナ五輪までのオリンピックを背景とした物語であり、一気に商業化が進んだ1996年のアトランタ五輪以降のオリンピックについては、わたしはずっと冷めた目で見ているので、あまり思い入れがありません。ただ、自分は相変わらず敗者のふるまいに興味があるんだな、と思いながら、横目で観ていました。『オリンピア』はまさに敗者の(再生の)物語であり、自分が『オリンピア』という作品の翻訳出版に長くこだわってきた理由のひとつはそれだからです。
市川崑監督の〈東京オリンピック〉(1965年)は、勝者はそっちのけで、水泳で4位に終わった選手の背中をずっと追いつづけたり、陸上予選であっという間に敗退するチャドの無名選手の1日をひたすら紹介したり、逆に勝者のなかの勝者であるはずの女子バレーボールの大松監督が勝利の瞬間に見せる虚脱の表情を音声OFFのスローモーションで描いたり、およそオリンピックの公式記録映画とは思えないシークエンスがつづきます。クライマックスの男子マラソンにしても、優勝したアベベ・ビキラを勝者というより苦悩する求道者として描いているようにしか見えません(ベルリン五輪の孫基禎を否が応でも思い出させます)。
わたしは、ふつうなら異物として排除される敗者の「呼びもどし」とも言うべきこの手法が後年の金田一シリーズのとりわけ脇役の描き方で徐々に洗練され、「細雪」(1984年)で頂点に達したと考えています。これは技術というより、市川崑の後期作品の「主題」だと思います(そのことについては、いずれ別の機会にくわしく書くかもしれません)。
そして、つまるところ、『オリンピア』の主題もこれに近いものがあります。これはオリンピックで成功できなかった無名アスリート一族、オリンピックの脇役たちの物語であり、そこにさまざまな美しいイメージの断片が埋めこまれています。作品のトーンはまったく異なるものの、敗戦国の歴史が根底にあるところも共通しています。『オリンピア』もまた、異物として排除された敗者たちを呼びもどす物語なのです。
そういったことは、『オリンピア』を訳していたことは意識しなかったのですが、今年の2月に毎日新聞の田原和宏さんが詳細な取材に基づく記事を書いてくださったことをきっかけに考えるようになりました。
有料記事ではありますが、ここにあらためてその記事のリンクを張っておきます。
その『オリンピア』の読書会が22日(木)の夜に神保町のPASSAGE bis! におこなわれます。まだ残席が少しあるので、よかったらご参加ください。読書会終了後に、そのまま同じ場所で軽食つきの懇親会をおこなう予定です。長い本ではないので、いまから読みはじめてもじゅうぶん読了できます。ぜひ、皆さんの感想を聞かせてください(受付は8月19日までです)。
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