見出し画像

『オリンピア』もうひとつのあとがきと、ある編集者の感想

オリンピア』(デニス・ボック、北烏山編集室)の刊行から1週間余り経ちました。おかげさまで好評で、読んでくださった方々からすばらしいご感想をSNSなどでつぎつぎいただいています。「オリンピア ボック」「オリンピア 北烏山編集室」「オリンピア 越前敏弥」などのキーワードで検索してもらうと、多くを読むことができるので試してみてください。
 この本は小さな出版社の旗揚げ作品ということもあり、まだ各地の書店にじゅうぶんに出まわっているとは言えません。お近くの書店で見当たらなかった場合、もししばらく待っていただけるようなら、ぜひその書店で注文してくださるようお願いします。

 この作品の持ちこみのいきさつやくわしい内容については、本の「訳者あとがき」を読んでいただきたいのですが(この記事にも少しあります)、きょうはある出版社に持ちこんだ際にシノプシスとは別に添えた文章と、その編集者のかたが作品すべてを読了したうえでくださったとても誠実な返信メールの内容(ご本人の許可を得ています)を紹介します。
 まずはわたしの書いた「もうひとつのあとがき」から。作品内容の核心にあたる部分を数か所削除または改変してあります。

 Olympia の主人公ピーターは1958年生まれ、妹ルビーは62年生まれ、作者のデニス・ボックは64年生まれです。わたしは61年生まれで、ほぼ同じ時代を生きてきました。同世代の作家の作品を訳すときは、やはり目に見えぬ世代的共感があります。
 自分の幼少時代をさかのぼったとき、最も古い記憶は「1964年の東京五輪のバレーボール決勝を親戚の家のテレビで観ていたこと」です。それ以後、オリンピックは、自分の成長過程でたびたび大きな意味を持っていました。68年のメキシコ五輪では、黒人選手がこぶしを突きあげて追放された事件があり、72年のミュンヘン五輪では、(Olympia の第2章にもあるとおり)イスラエル選手団の多くがテロで殺害されました。どちらも子供心に強烈な印象が残っていて、それぞれが人種差別やユダヤ人虐殺の歴史を知るきっかけとなりました。そして、東西両陣営が互いにボイコットした80年のモスクワ五輪と84年のロサンゼルス五輪。「漢江の奇跡」ということばを覚えた88年のソウル五輪。ただ、夢中になって観たのは(Olympia の最終章の背景となる)92年のバルセロナ五輪までで、96年のアトランタ五輪からは、あまりの商業主義に辟易として、一気に興味を失いました。今回の東京オリンピックもほとんど観戦していません。
 オリンピックで自分が何を見ていたかというと、日本人選手の活躍などよりも、国籍を問わず、それぞれの選手が何を背負って戦っているかでした。たとえば、92年の東西ドイツ統一後のオリンピックでは、統一ドイツの選手が優勝した場合、表彰式で旧西ドイツの国歌が流れましたが、表彰台にいたのは多くが旧東ドイツの選手であり、何人かは国歌を聞きながらそっぽを向いていました。それぞれの選手がいま何を考えているんだろう、と想像するのが常でした。
 わたしは市川崑監督の映画が大好きで、大学の卒論のテーマにもしています。市川崑の代表作のひとつ「東京オリンピック」と、それに多大な影響を与えたレニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」(1936年ベルリン五輪記録映画)は、敗者たちを執拗なほどていねいに描いたり、順位そっちのけで観客(ときにはヒトラーや昭和天皇)の表情を追いつづけたり、ひたすら肉体の躍動美を描いたりという点で共通していて、自分の映画への向き合い方、さらには創作物全般への向き合い方を形作ってくれた作品でした。
 そんなこともあって、20数年前にOlympia のあらすじと表紙を知ったとき、異様なほどの興奮を覚えました。リーフェンシュタールの作品をモチーフにしつつ、20世紀のオリンピック史を背景にして、アスリート一族の栄光と挫折を描く作品がつまらないわけがないと思いました。
 実際に読んでいると、栄光などほとんど描かれていなくて、挫折ばかりでした。かつて飛び込みの選手だった祖母が水のせいで苦しむ運命の皮肉。体操選手として前途有望だった妹の夢がかなわず、それを救おうとした兄ピーターの身に訪れるあまりにもきびしい現実。心やさしい人間なのに、そのショックから立ちなおれず、自堕落な日々を送るピーターの苦悩。そういったひとつひとつのエピソードがずっしりと重くのしかかります。
 一方、オリンピックとは関係なく、ドイツ系カナダ人一家の背負っている過去や、世代間の意識の違いなども、読んでいて胸に迫るところが多くありました。とりわけ、ピーターの母の一族は、「ユダヤ人を迫害した側に属しながら、ユダヤ人と同じくらいひどい目に遭う」という複雑な思いをかかえていて、それが姉弟や夫婦の断絶を生んでいきます。
 そういったテーマを重層的に、シンボリックなイメージをいくつも差しはさみつつ語っていく文章は、けっしてわかりやすくはありませんが、ひとたび語り手と同化すると、随所にちりばめられた豊かなイメージや力強い表現の虜になります。正直なところ、これまで手がけたどの作品よりも翻訳がむずかしく、数十人といっしょに少しずつ訳し進めてきた個人勉強会のなかで、参加者からの指摘によって自分の読み落としに気づくことも少なくありませんでした。連作短編集でありながら、たとえば第2話でさりげなく語られていたことが第6話のエピソードの巧みな伏線になっているなど、きわめて戦略的な、油断も隙も許さないテクストであり、その圧倒的な強度に驚かされます。
 そして、最後の第7話では、挫折と苦悩を重ねた主人公たちが思わぬ形で救済されます。その場面の美しさには息を呑みました。そこまでも、赤ん坊のルビーが飛翔するなど、マジックリアリズムめいた手法がいくつか使われているので、奇跡の場面に違和感はなく、主人公に感情移入してきた読者なら、ふつうのフィクション作品とは次元の異なる深い感動を覚えるでしょう。
 最後にひとつ、さらに個人的な事実を付け加えると、主人公ピーターと妹ルビーは3歳半ちがいで、これはわたしの息子と娘の年齢差と同じです。兄妹の精神的なつながりの深さも、とてもよく似たものを感じます。仮にピーターと同じ立場に追いこまれたら、心やさしい息子は同じようにむなしい思いをかかえてずっと生きつづけるのではないか、果たして立ちなおることができるだろうか、などと想像します。わたしはそんなふうに、主人公と自分自身、登場人物と自分の家族を同時に重ね合わせてこの作品を読んできました。
 読者を選ぶ作品ですが、選ばれた読者にはまちがいなく大きなインパクトを与えるでしょう。願わくは、ひとりでも多くのそういう読者に届けられる機会がありますように。
                        越前敏弥

 その後、『オリンピア』全文を読んでくださった編集者のかたから来たお返事は以下のようなものでした。

(前略)
越前さんがおっしゃっていたようにとても読みごたえのある作品でした。
幾重にも響き合う水のイメージ、生き物の進化の系譜のなかに一族の運命を見ようとする主人公の心、それぞれの人間がうちに蓄える膨大な時の流れ、語り得ぬことの切ないまでの重み、エピソードの断章としての鋭さ、象徴性の奥深さを随所に感じる作品でした。
個性的な登場人物たちは鮮やかな存在感を放ちながら、安易な共感を寄せつけません。
相手の姿は見えるけれども、海流のなかの島々のごとく存在しています。
たがいを隔てる流れは分厚く激しいもので、人間的な時間のなかでそれを渡ることはできません。
だからこそ、水が引いていくラストシーンには深い意味があるのですよね。
詩的なイメージのなかに人間のもっとも奥深いつながりを見出そうとする著者の願いを感じます。
けれども、いまの日本の出版界に身をおく自分が、どのようにこの作品を世に問えばよいのか、どうすれば「売る」ことができるのか、「これだ」という切り口を見つけることはできませんでした。
越前さんの炯眼に敬服しつつ、その深いお心にお応えできない自分の非力を恥じるばかりです。
(後略)

 この作品は計7社に持ちこんで成功せず、8社目の北烏山編集室が出してくれることになったのですが、不成功に終わった出版社の方々も、作品自体は評価してくださるものの、昨今の出版事情では残念ながらむずかしいというお返事ばかりでした。版元に決まった北烏山編集室だけでなく、じゅうぶんに時間をかけて検討してくださったほかの出版社のみなさまにも感謝しています。

 このあと、『オリンピア』の刊行記念イベントが東京と京都でおこなわれます。作品の魅力と新出版社旗揚げのいきさつの両方を聞ける濃密な時間になることはまちがいありません。お近くのかたはぜひご参加ください。

◎12月17日(日)14:00~15:30 青山ブックセンター本店
 『オリンピア』(北烏山編集室) 刊行記念
 越前敏弥 × 倉本さおり × 樋口真理 トークイベント

◎1月26日(金)19:30~21:00 京都出町座(イベント主催 CAVA BOOKS)
 『オリンピア』(北烏山編集室)刊行記念イベント
 越前敏弥×樋口真理


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?