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ヨコハマ・ラプソディ 2

二.山下公園 

今度は平日ではなく、俺たちはちゃんと日曜日に会った。待ち合わせた場所は、初めて会った日と同じ喫茶店「Moon」だ。
大いなる不安と緊張感を抱えたまま、約束の午前十時三十分の約十分前に俺が喫茶店に着いた時、すでに志織は店で待っていた。彼女はドアを開けた俺に気付くと、わざわざ立ち上がって俺に向かって手を振ってくれた。
服装は白いロングスカートに薄いピンク色のカーディガンを着て、髪はおさげではなくポニーテールにいている。着ている服は可愛いらしいが、最初に会った日の制服姿の印象よりも不思議と大人びて見えた。それはそれで、俺はまた緊張する。
会って挨拶もそこそこに、俺たちは早速、持って来た本を交換した。

「はい、これ『動物農場』。そんなに長い話じゃないから、割と気軽に読めると思う」
「ありがとうございます。はい、これが『アルジャーノンに花束を』です。最初の部分は少し読みづらいかもしれないけど、我慢してゆっくりちゃんと読んでみて下さいね」
「うん、ありがとう。『アルジャーノン』は前から読んでみたかったんだ。すごく楽しみ」
『アルジャーノンに花束を』は、巷でも評判になっていた本だった。書店でも「おすすめの一冊」と書かれた小さな手書きの看板が添えられていたりして、俺も気にはなっていたのだが、文庫本ではなく単行本だったので値段が高く、買うのを躊躇していたのだ。
「それでね、この間雑誌で読んだんですけど、著者のダニエル・キイスって人が『アルジャーノンに花束を』を書き上げたあと、最初に持ち込んだ出版社の編集長から、『結末を書き直したら出版させてやる』って言われたらしいんです。もし、言われた通りに直していたら、きっとこれほどの傑作にはなっていなかったでしょうね」
お互いが受け取った本を自分のバッグの中に仕舞おうとする途中で、志織が俺に話しかけてきた。
「へー、やっぱり本を出すのって、すんなりとはいかないもんなんだ」
「もし松崎さんだったら、自分がこんなこと言われたらどう思われます?」
思ってもみなかった志織からの質問に少々戸惑ったが、俺は素直に自分が思ったことをそのまま言葉にした。
「俺だったら、そいつの机蹴っ飛ばして、すぐに出ていく」
「お金に困っていても?」
「当然」
「うふふっ」
志織が、いかにも自分が思った通りの言葉が返ってきた、と言わんばかりの笑みを浮かべると、真っ直ぐな視線で俺の目を見た。
彼女の澄んだ瞳に見つめられて、俺の心臓がひとつ、ドキリと跳ねた。
(なんて、きれいな目だ)
「結局、別の出版社から中編として出版されたんですけど、書いた本人はどうしても長編に書き直したいって思っていたらしいの」
「へー」
「でもね、またしても出版社の人が……」と言いかけて、「ごめんなさい。この先は本の結末に関わるから内緒ね」と、志織は軽い上目遣いで俺を見て、小さく微笑んだ。
「その雑誌にも書かれていたんですけど、『アルジャーノンに花束を』は『まごころを君に』って題名で映画にもなってるんです。私はまだ見たことないんですけどね。主演のクリフ・ロバートソンはその『まごころを君に』でアカデミー賞の主演男優賞を受賞してて。私、クリフ・ロバートソンが出てる『愛のメモリー』っていう映画が、ちょっとヒッチコック監督の『めまい』を思わせるところがあって好きなんです」
嬉しそうに眼を細めながら、志織が俺に語りかける。
「それでね……」
彼女の話はこのあとも、途切れることなく続いた。

志織は初めて会った日に喫茶店で話をした時点で、俺の無口な性格を把握したのだろう。今回はずいぶんとおしゃべり好きな性格を前面に出してきた。最初の時は初対面だったせいか、少し遠慮をしていたみたいだ。
二回目の今日は、話が途切れる間もなく、なんだかんだと自分から話題を持ち出し、会話をリードしてくれる。俺は彼女の話の合間に相槌を打ち、時々彼女からの質問に答えるだけで済んだ。
女子高生とどんな話をすればいいのか、また会話が途切れ沈黙ばかりになるのでは、という心配は、どうやら杞憂に終わってくれそうだ。

二人でお互いが読んだ小説や漫画の話をしている時間は、やはり楽しかった。志織の持つ小説についての話題は豊富で、聞いていてちっとも飽きがこない。気が付けばいつの間にか、お昼近くになっている。女性と一緒にいて、これほど時間が過ぎるのを早く感じたのは、ここ数年記憶にないことだ。
それでも、俺は彼女を昼食に誘おうとまでは思わなかった。せっかく今のところ、俺たちの会話は上手くいっているし、ちょうどお昼で切りがいい。
今日は俺のボロが出ないうちに、この和やかな雰囲気のまま、ここらでお別れにしたほうがいいと思っていた。
次に会うのは一週間後、時間はまた今日と同じ時間帯がいいな、と考えていると、「松崎さんって、食べ物はなにが好きですか?」と、志織からの質問がきた。
「だいたいなんでも好きだけど、あえて言えば中華料理かな」と答えたら、急にお腹が「クーッ」と鳴った。ちと、恥ずかしい。
俺が住む寮の近くには二軒の中華料理店があって、俺を含めた多くの寮生は昼夜を問わず、毎日のようにどちらかの店に通っていたのだ。「大源軒(だいげんけん)」という店のカニチャーハンが特に俺のお気に入りである。もう一軒のお店は麻婆ラーメンが旨い。
「ほんとですか? 私も中華、大好きなの。中華街にお勧めの店があるんですけど、今から一緒に行きませんか?」と、志織は俺を誘ってきてくれた。
一瞬、俺はためらった。年下の女子高生と二人っきりでの外食、それも有名な中華街での食事なんてどちらも初めてのことだ。
でも、志織となら一緒にいてもあまり苦にならないだろうと考え、中華街の本格的な中華料理にも心惹かれた俺は、思い切って彼女からの誘いに乗ることにした。
「うん。いいですね。中華街で出される中華料理ってどんなものか、前から一度食べて見たかったんだ」
俺たちはすぐに喫茶店を出ると、横浜駅から電車に乗って志織お勧めの店へと向かった。

道中の電車の中でも、志織のおしゃべりは止まらなかった。
「私、大学は文学部へ進学したいって思っているんです。中でもフランス文学科に行きたくて。でもどの大学がいいのか、色々迷ってるの。それぞれに特徴があるみたいで。もちろん偏差値の問題もあるんですけどね。小学生の頃から本はよく読んでたけど、特に外国の文学に興味を持ち始めたきっかけが中学一年の時に、フランス人作家でフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』を読んだことだったの。その本が大好きで何度も繰り返し読んだんです。あとはテグジュペリの『星の王子さま』とか、スタンダールの『赤と黒』とかね。とにかく中学の頃からフランス文学がとても好きだったの」
そうか、彼女はフランス文学志向だったのか。
「じゃあ、この間言ってた『モモ』っていうのも、フランス人が書いた本なの?」
「ううん。ミヒャエル・エンデはドイツ人。フランス文学は好きだけど、別にそれだけっていう訳じゃないんです。どっちかっていうと、面白そうなのは手あたり次第って感じかな。もちろん、日本の作家さんのも読みますよ。お母さんは私のこと活字中毒だって言ってたけど。自分では中毒っていうほど、ひどくはないと思うんですけどね。でも確かに中学の一時期は、フランス人作家の本を読むことが多かったような、気はします」
自分はどうだったのか。俺の中学時代には、外国の文学作品に興味を持つことは特になかった気がする。ましてやそれがどこの国の小説かなんて、考えたこともなかった。
当時父親と一緒に見に行った映画の影響を受け、横溝正史さんの「金田一耕助シリーズ」をよく読んでいたのは覚えている。そのあとしばらくは推理小説を好んで読んでいた。外国の推理小説も読んだのだが、今ひとつ読みにくさを感じて、あまり手を出さなかった。
もっとも、俺も小学生の頃から、本といえば主に学校の図書館で借りたものをよく読んでいたし、一か月間の間にどちらがより多く本を読んだかを、友達と競争したこともある。俺が本を好きになったのは、こういった小学生時代の影響が大きいと思う。
でも中学に進んだ俺は小学校時代からの友人に誘われ剣道部に入部し、しばらく剣道に対し真剣に打ち込んだので、小学生の時ほど本を読むことはなかった。
「へー、そうなんだ。俺が外国の文学作品もよく読むようになったのは、高校に入ってからかな。高校三年間の間に、学校の図書館で色んな本を借りまくって読みまくってた」
「私も学校の図書室は、よく入り浸ってます」
「きっかけは、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』だったな。テレビでその映画を見たのが、そもそものきっかけだったんだけどね。あと『武器よさらば』とか『日はまた昇る』とか、それから『老人と海』と立て続けに読んだっけ。でもその四冊とも、全部実家に置いてきちゃったんだよなあ」
「『老人と海』は読んだことがあります。私も好き。確かあれが評価されて、ヘミングウェイはノーベル文学賞を受賞したんですよね」
そんな話をしながら電車のつり革に掴まって、二人で並んで立っていた。
志織の身長は俺より十センチくらい低いぐらいだろうか。俺の身長が一六九センチぐらいだから、一六〇センチ前後か。
前に付き合っていた彼女は、俺とほぼ同じくらいの身長だった。今の志織への目線は高過ぎず低過ぎず、ちょうどいい感じ。そんな些細なことに、なんとなく心地良さを覚えている自分がいた。

中華街へは石川町駅から歩いてほんの五分ほどで着いた。
ここが噂でよく聞く中華街かと、例の有名な門や、驚くほど多く立ち並ぶ中華料理店を見て思いながらも、俺は田舎者丸出しの雰囲気は出さないようキョロキョロとはせずに、志織の手前、何度か来たことがあるよという体(てい)で歩いた。まあ、思えば逆にみっともないし、他愛もない見栄だが。
志織お勧めの店「福景飯店(ふくけいはんてん)」には、すでに何人かの行列ができていた。
「このお店は、私が小さい子供の頃から家族とよく来ていたとこなの。上海焼きそばと担々麵が名物なんです。どっちもおすすめですよ」
でも、俺には別のお目当てがあった。やはり中華といえば、チャーハンだろう。
俺たちは十分ほど待ったあと、二人掛けの席に案内された。他にテーブル席は大小合わせて八つほど。二階にも席があって、志織によれば大きな円卓もあるそうだ。
早速俺がメニュー表を見てみると、チャーハンの種類が豊富で、なんと海老チャーハンなるものがあった。これは寮の近所の中華料理屋にはないメニューだ。さらにメニュー表のエビチリに目をやると書かれてあった値段に喜んだ。思っていた以上に安い。
エビチリも近所の店にはない料理だが、俺の大好物である。すでにやめてしまったけど、俺は大学に入りたての頃、つい美人のお姉さんに誘われて「落語研究会」に入り、数か月だけ在籍していた。そこの新人歓迎コンパで行った居酒屋で初めて食べて、あまりの旨さに絶句したのだ。世の中に、こんな旨いものがあったのかと。
けれど、以前新宿かどこかの中華料理店では高い値段に驚いて手が出せなかったことがある。中華街と聞いてどれだけの値段がするのかと不安に思っていたが、この店なら俺の財布の中身でもなんとかなりそうだ。
他にも美味しそうなメニューがいくつもあり、お得なランチセットもあって色々目移りしたけれど、あまり時間をかけて優柔不断なやつと思われたくない。結局俺が海老チャーハンとエビチリを、彼女は上海焼きそばと薬膳スープを注文した。
「エビ、好きなんですね」と志織が目を細めて笑う。まあ実際そうだ。
「子供の頃は好き嫌いが激しかったけど、エビだけはずっと好きだったんだよね。大学に入って寮に住むようになってからは、なんでも食べるようになったけど。実家にいる時とは違って誰も食べさせてくれないから、好き嫌い言ってたら食べるものがなくなって、飢え死にしちゃうからね。昔は嫌いだった納豆も、今では好きになった」
「私もちっちゃな頃はお肉が苦手だったんですけど、今では大好きになりました」
そんなことを話していると、思ったより早く二人が注文した料理が全部運ばれてきた。
「いただきまーす」
「いただきます」
早速、エビとチャーハンを一緒にれんげですくって口に運んでみる。
「おー。うん、うまい!」
「ほんと?」
「うん。思ってた以上」
続いてすぐにエビチリにも手を伸ばし、食べてみた。
「こ、これは……」
今まで俺が食べてきたエビチリとは、いったいなんだったのか。辛いだけじゃなく、なんというか旨味が凄い。
「う~ん、さすが中華街。どっちもエビが大きくてプリプリしてるし、やっぱり一味も二味も違う。ここって値段も手頃だし、いい店だね」
「中華街には高級な店も多いけど、手頃な値段でも美味しい店は他にもあるんですよ」と志織が話してくれた。
なんと素晴らしい。俺も横浜に住みたいと思ったくらいだ。

志織が食事をする姿を見てすぐに思ったのは、彼女が若いながらもきちんとした躾を身に付けている、ということだった。
まず、食べている時の姿勢が良い。すっと背筋を伸ばし、もちろん決してテーブルに肘はつかない。食事中は、できるだけ音を立てないように気を配っていた。さらにスープをレンゲで飲む姿、箸の握り方、置き方。それらひとつひとつの所作が美しいと感じた。
俺自身、食事中の礼儀作法などは、子供の頃から特に喧しく言われたことはなく、きちんと身についているとは言い難い。一種のコンプレックスだ。

「私って、横浜生まれの横浜育ちなんです。あと、一人っ子で両親と三人暮らし。うちのお父さんは家具や木工細工を作る職人で、作った物は横浜市内の店で販売もしているんです」
「へー、職人さんなんだ」
「でもうちのお父さんって、門限にすごくうるさい人なの。ほんと、やんなっちゃう。両親とも躾はなにかと厳しいんだけど。特にお母さんのほうがねぇ。金沢に住んでる母方のおばあちゃんが生け花の先生で、幼い頃からきっちり教え込まれたみたいで。でも本当は二人とも優しくて、どっちのことも好きなんですけどね」
そんな、厳格な家庭で礼儀正しく育ったらしい彼女が、なぜ学校をよくサボっているのか。俺には理解不能だった。

ひと通り食事を終えた頃、俺たちはお互いの電話番号を交換した。
「ただ、うちの両親って男の人だけじゃなくって、女の子からの電話にもうるさいぐらいなの。だからできるだけ松崎さんからの電話は遠慮して欲しいんです。でも、絶対ダメって訳じゃないのよ。そこは誤解しないで欲しいの」と、志織は少し申し訳なさそうに言ったあと俺の目を見た。
「用がある時は私のほうから、家のすぐ近くに公衆電話があるから、そこから電話するね。そっちのほうが遠慮なく色々話せるし」
厳しい親だなと思ったが、それはそれで仕方がないだろう。
うちの寮には電話が二つあり、それぞれの電話番号を志織に伝えた。
「寮の電話の受付は原則朝八時から夜十時までで、それ以外の時間は運よく近くに寮生がいれば取ってもらえるけど、あまり期待しないで」と付け加えた。
けれど、俺たちがお互いに電話をかけることなど、あるのだろうか。そもそも俺と彼女が会うのは、本来あと一度きりのはずだ。
今、俺のバッグに入っている『アルジャーノンに花束を』を読んだあとに志織に返し、同時に彼女から『動物農場』を返してもらう。それにて俺たち二人の関係は終了。と、なるはずである。そのあとのことは、俺には想像が及ばなかった。さすがに俺と三才も年下の女子高生が、どうにかなるとは考えにくい。
でも、なんらかの事情で、急に予定を変えたくなることがあるかもしれないし、その際連絡がつかないと困ることもあるだろう。だから、それぞれの電話番号を交換しておくことは、必要なことだ。
「ねえ、このあと近くの山下公園まで散歩に出かけません? 今日は天気もいいし、腹ごなしちょうどいい距離ですよ」
志織からの提案を、俺が断る理由はなにもなかった。

福景飯店を出た俺たちは、中華街の通りを山下公園へ向かって二人で並んで歩いた。
やっと三月中旬に差し掛かったばかりとはいえ、この日の午後はあまり風もなく、暖かくて外でも過ごしやすい。桜が咲くにはちと早いが、季節は本格的な春へと着実に近付いていることを、俺は頬で感じていた。
何気なく横を見ると、俺の隣に志織の姿がなかった。
慌てて後ろを振り向くと志織が立ち止まり、ソフトクリームの看板をじっと見つめていた。
「食べる?」
「うん!」
なんという明るい笑顔だろう。まるでそこにだけ花が咲いたみたいだ。それも俺の好きなひまわりが。
「いくつか種類があるけど、どれがいい?」
「私、バニラ!」
「じゃあ、バニラを二つ下さい」
俺が店の窓口で買った白いソフトクリームを二人で舐めながら歩いていると、なんだかデートみたいだ。
ん? これはデート……じゃないよな。

山下公園に着いたあと、二人で氷川丸という船が見えるベンチに座り、俺たちはまたおしゃべりを続けた。
「氷川丸ってね、横浜という港町のシンボルみたいなものなの」
戦前に建造され、貨客船・引揚船・病院船、最後はまた貨客船として引退した船だと、志織は氷川丸の歴史について、いくつか俺に教えてくれた。
「それに戦時中に三回も機雷に接触したし、アメリカの潜水艦と遭遇したこともあったのに無事に生き延びたの。おまけに終戦後は戦後賠償として差し押さえになりそうにもなったし、最後の航海のあとには、解体されてスクラップになる可能性だってあったのよ。でも保存を希望する多くの市民の声もあって、今のような観光船になったの」
「へー。そんな複雑な目にあった船だなんて知らなかった。なんとも運がいいというか」
「でしょ? だから、氷川丸は強運の船だとも言われてるの」
「うん。間違いないな。外観からは想像できないけど、まさに波瀾万丈といった歴史をもつ船なんだね」
俺は氷川丸のはるか先に見える建設中の首都高速を指さしながら、志織に話しかけた。
「実はつい二日前に、俺、あの首都高速の建設現場で、寮の仲間三人と測量のアルバイトをしたんだけど。それでね」
その日の休憩中、バイト先の先輩が尿意を我慢できず、思わず高速道路の上で起こしたちょっとした破廉恥なエピソードに、志織は口に手を当てながらも思いっきり笑ってくれた。
彼女の無邪気な笑顔を見ているだけで、俺の心をほのかに温かいものがじんわりと満たしていく。こんな気持ち、久しく忘れていた。
これから先もこの子と一緒にいれば、また今の心地良さを味わえるかもしれない。
そんな決して悪くないはずの甘美な予感に、なぜか少し戸惑った俺だった。

しかし、それにしても山下公園には、やはりカップルが多い。というよりも、そこらじゅうカップルだらけだ。右隣のベンチにも高校生らしい男女が仲よく座っているし、さっきから俺たちの前を、何組ものカップルが手を繋ぎ、体を密着させながら歩いて通り過ぎる。
確かに目の前に海があって、港を行き交う船の眺めはなんともロマンチックだし、氷川丸が浮かぶ景観も楽しめる山下公園はデートスポットとしては格好の場所だ。ひょっとして志織も、この公園に誰かと何度か来たことがあるのだろうか。
まあ、当然あるだろう。どこか素朴な印象もあるとはいえ、見た目だけでも十分素敵だし、性格も穏やかで明るく、清楚な雰囲気も魅力的だ。
今、付き合っている人がいたとしても、まったく不思議ではない。というより、志織みたいないい子を周りの男どもが放っておくはずがない。
多くのカップルを目の当たりにした俺は、志織も誰かと交際しているのかなと、ちょっと気になってしまった。
事実を知るに早いに越したことはないだろう。もしも彼氏がいるなら、絶対に、俺の方から志織を映画や食事に誘ったりして、彼女の迷惑になることは避けなければならない。
俺を公園にまで誘ってくれたからといって、彼女が俺に気があるかのように勘違いをして、あとで恥をかくのはまっぴらだ。
俺は隣のベンチの若いカップルにチラッと目をやったあと、普段あまり女性に対して尋ねたりはしないことを、それとなく口にしてみた。

「長澤さんはこの公園、何度も来たことあるの?」
「うん。ここは、割とよく来るところかなあ」
だよな。そりゃそうだ。
「相手は、彼氏とか」
「ううん。男の人と二人で来たのは初めて」
「へ?」
「いつもは一人で来ることが多いの。散歩がてらにね。小さい頃はお母さんとよく来てた」
「ふ~ん」
意外だな。ひょっとして。
「長澤さんって、もしかして今、付き合っている人、いないの?」
「いる訳ないでしょ。こんな女」
「えっ、なんで? 長澤さんってとても可愛い人だから、絶対モテると思ったのに」
「ありがと。でもほんとなの。これでも今、結構緊張してるのよ」
「そうは見えないけど」
「もう、ひどい!」
彼女のちょっと拗ねたような怒った顔が、これまた可愛いかった。
「ごめんごめん。冗談」

そうか、付き合っている人はいないのか。
志織の言葉を聞いて心底ホッとし、俺の未来に一本の明るい光が射し込んできたかのように喜んでいる自分が、確かにそこにいた。
あれ? あれ? もしかして……。

俺は女性に対し、あまり惚れっぽいタイプではない。女の子と知り合って例え好印象を抱いたとしても、相手のことを好きなのだと自覚するまで、ある程度時間がかかるほうだ。前に付き合った彼女も同じだった。
でも今、出会ってまだたった二日目の志織に対し、俺はいつの間にか、親しみ以上の「なにか」を感じ始めていたことに気が付いた。
次の瞬間。俺はギュッと胸が痛くなるのを感じた。この感覚……。
俺が中学二年の時、同じクラスにいた女の子に生まれて初めて感じたものに、それは、どことなく似ている気がした。
しかし、今付き合っている人はいないからといって、俺と付き合ってくれるとは限らない。
だよな?
俺は自分に問いかけた。
その通りだ。俺のようなルックスも大したことのない、しゃべりも上手くない男が余計な期待はしないほうがいいのだ。それこそ、恥をかくだけだ。
それでも。

それでも、少なくともあと一度だけは、今日借りた本を返す時に、俺は志織と会うことができる。もし『動物農場』を面白いと思ってくれれば、『1984年』もきっと興味深く読めるはずだ。
最初はあんなに会うことに不安を感じていたはずなのに、俺はついさっき、ほっぺを可愛く膨らませていた志織という女の子と、本の貸し借りを続けている未来を想像し、思わず胸が高鳴るのを押さえ付けることができなかった。

二人でしばらく話を続け、俺が彼女にバッグを預けて一度トイレに行き、また戻って来た時。さっきまで俺たちが座っていたベンチに、志織の姿はなかった。
どこへ行ったのだろうと辺りを見回すと、ベンチから少し離れた海側の柵の近くを、腰の後ろに両手で俺の茶色いバッグを持ち、所在なさげに歩いている彼女の姿があった。普段もあんな風に、この公園を散歩しているのだろうか。
でも俺は、志織に声をかけるのをためらった。
なんだろう。今まで俺が見てきた彼女からは想像できない、どこか寂しげというか不安げというか、志織の姿には不思議な孤独感が漂っていた。
二人が知り合ってからまだ間がないとはいえ、俺の目の前では一度も見せたこと、感じさせたことのない、彼女から放たれるどこか近寄りがたい雰囲気に俺はひどく戸惑った。
それどころか今、まさに海の方を見ながらまるでそのままスッと、どこかへ消えてしまいそうな儚げな志織の後ろ姿。
俺は、なにか志織を「このまま放っておいてはいけない存在」と感じた。
それは女性に対して、今まで一度も抱いたことのない、初めて覚える感情だった。俺は心をかき乱されてしまった。
すると、ふと振り向き俺に気付いた志織が、もうなんとも言えない、いや、まさに「天真爛漫」という言葉がピッタリの笑みを浮かべながら、俺に向かって小走りで駆けてきてくれた。
この笑顔には、俺は決して太刀打ちできない。唐突に俺はそう理解した。
この瞬間。俺は恐らく、志織との「恋」に落ちたのだ。

春の穏やかな日差しの下、俺たちは再びベンチに座って二人でまた和やかに会話を続けていた。なんとか今日は、この良い雰囲気のまま終わりたい。
それにしても、志織って横から見る顔も素敵だなぁと改めて見とれていると、突然、彼女の話が途切れた。
あれ? どうした?
志織の顔をよく見てみると、なぜか真剣な目をしている。
その時、彼女が意外なことを俺に語りかけてきた。

「私……、初めて松崎さんに会った時、あの最初にぶつかった時。………………『声』が聞こえたんです。……『この人はいい人だよ』って」
「声?」
「声というか、なにかが直接私の脳に語りかけるような。いつもではないんですけど、たまに聞こえるんです。こんな話、信じられないですよね」
「そんなことはないけど」

俺が「いい人」かどうかはさておき、実は似たような話は聞いたことがある。
それも直接、俺のすぐ身近にいた人、本人からだ。
志織のように、時折「人ならぬ者」からの「声」が聞こえてくるのだと。

「今まで親以外は誰もまともに信じてくれなかったし、だいたい気味悪がられるから、もうずっと長い間、人には言わないようにしてたんですけど」
「それなのに、なんで俺に?」
「……本当に……、いい人だって思ったから」
「……、伊豆の踊子?」
「えっ?」
「そんなセリフ、あったよね。『いい人はいいね』、だったっけ」
「ありましたね。『ほんとうにいい人ね。いい人はいいね』」
「それそれ」
「アハハハ!」
俺たちは笑って、その日、その話はそれっきりになった。

しばらくして俺と志織はまた横浜駅に戻り、英文堂書店で小一時間店内を巡ってから店を出た。
すでに日は大きく傾き、いつの間にか街は夕暮れ近くになっている。楽しい時間というものは、どうしてこうも、あっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。
俺たちは横浜駅の前まで歩いて行き、そこで次に会う日の約束をして別れた。
別れる間際、志織がちょっと手を上げて小さく手を振る。
その時の彼女の仕草とあどけない笑顔に、狂おしいほど胸が締め付けられた、黄昏の横浜駅前だった。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。