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生命のはずみ・7:ベルクソン「創造的進化」第四章 思考の映画仕掛けと機械論の錯覚

ベルクソンの「創造的進化」を読み始めたのが7月(2022年)の初旬、一日5ページくらいの割で読んでいて、章の終わりごとに note に思ったところを投稿しつつ10月末に読了予定としてきたが、先々週の23日に読了した。

最終章の第四章の内容について私の理解したところと、全体を通じて感じたところを簡単に書いて、まとめとしておこう(*1)。


この章は、知性による2種類の認識の形式について論じている。つまり、「映画仕掛けの錯覚」と「機械論の錯覚」だ。

映画仕掛けの錯覚とは、ものの運動を瞬間瞬間の静止した映画の1コマ1コマのように断面で捉えてそれを繋いで理解しようとする知性の自然な働きのことだ。

機械論の錯覚とは、ある事象の原因をそれより前の何かの事象に求める知性の自然な働きのことだ。

ここで「ある事象」とはある時点で切り取られたその瞬間の断面であるわけなので、「機械論の錯覚」の前にすでに「映画仕掛けの錯覚」が働いていることがわかる。だから、ベルクソンは「映画仕掛けの錯覚」のほうがより根深いものとし、本章ではまず「機械論の錯覚」から論じている。

そこでは、「無」についての考察から否定の論理を論じ、存在と非存在について吟味する流れとなる。物や事象の有り・無し、そして論理としての否定、についての議論が比較的長く続きその点も興味深いとはいえ、「機械論の錯覚」という言葉との関連が明確に述べられていない。また、上に述べたように2つの錯覚は独立ではなく関係しているので、ほとんどの読者にはわかりにくいのではないか、と思った。

焦点がずれていつの間にか別の主題に遷り、焦点がぼけてそれとわからぬうちにもう一つの錯覚のほうに焦点が絞られるようなそんな感覚だ。

ここで何が問題の焦点になっているかを考えると、理解しやすいのではないか、と思う。

問題は、秩序のありなしについてである。生命の形やありよう全体を見たときに、進化の過程で単純な生命の形から多様化・複雑化しているが、その中で秩序が生まれてきているように見える。そして、無秩序の状態は低レベルで秩序ある状態が高レベル、人間が生命の中で最も秩序の高い状態である、という具合に私たちが考えがちだ。しかし、まず第一に秩序の有るように見えたり無いように見えたり、そのような見方そのものが錯覚である、というそういう問題提起なのだと理解した。

つまり生命に満ちたこの世界は、どこを見てもどこから見ても、あるようにあるのであって、全体として捉えなければ生命の本質を見逃してしまう、ということだ。

機械論のように原因ー結果の必然の連鎖で考えようとすると、秩序のない状態から秩序のある状態への遷移について、原因ー結果を分析して考察することになる。機械論の特徴としては、無限の平坦な時間軸を考え、物の理はどの瞬間でも同等である、と考えることにある。だから、秩序のない状態は「あるべき秩序がない状態」ということとなり、「秩序」は、永遠の昔から未来にわたってあるべきものであると考えることとなる。

ところが、生命に関して言うならば、ある時点から「秩序の有るように見える状態」と「秩序の無いように見える状態」の両方が混在する世界が生まれ、その時点の前の世界は、そもそも秩序のありなしを問題にできない質の違った世界だ、と捉えるべきだと言っているようだ。

生命発生以前の世界と生命発生以後の世界は質が異なり、生命の活動、複雑化と多様化そして様々な秩序は今でも持続して生まれている、そのそれぞれの契機が「生命のはずみ」と考えられるということになる。

このように考えてみると、現在、私たちが世界を見たときに、秩序があるとか秩序がない、と見えるのは知性特有の見方であって、そのような見方で生命を捉えようとすること自体が錯覚である、とこういうわけである。



映画仕掛けの錯覚、というのは、私たちが世界を認識するときの知性の働きだ。ある瞬間瞬間の像を映画の一コマ一コマのように認識してそれが映画のように時間軸で並べられているように認識する仕方である。

私たちはあまりにこの知性の働きに慣れているし、科学的なものの見方の根本にあることなので、当たり前のようでその「錯覚」には気づきにくい。

ある瞬間の物の位置および運動と、別の瞬間の物の位置および運動の関係を、物理法則で説明し、あるいは因果関係で結びつける。

ここで、ゼノンのパラドックス(アキレスは亀を永遠に追い越せない、飛ぶ矢は止まっている)について論じることで、現象を瞬間瞬間の静止像で捉えることの問題を指摘する。

近代科学、ことに古典物理学は、数学的な連続と無限小の概念を導入することでこの問題を乗り越えて(あるいは忘れて)いるわけであるが、ベルクソンが問題にしているのはちょっと違った観点である。

つまり、時間を際限なく分割し、分割された各断面を同列に置き、特別な瞬間はないとするならば、有るものはすべて永遠の昔からあり、未来永劫にあるものでなければならない。それが無かった時代には、有るべきものが無かっただけなのだ。その状態がなぜ起こっていたのか、別の有るものに原因を求めることになる。有るべきものが無かったときから有るべきものがあるようになったのはなぜか、この因果関係の連鎖は無限に続く。

そのような見方で、持続する創造の連続である生命を捉えようとすることが錯覚ではないか、ということだ。

人間が因果関係を求めるときには、事象そのもの物体そのものではなく、それぞれの関係を追及する。その際に事象や物体の観測可能な量を抽象化して記号として概念化し、その関係を追及する。だから、追及すればするほどその適用範囲は広くなる。

リンゴに適用できる法則と同じ法則が、人間でもロボットでも、ICBMの弾道にも、月や惑星にも、そして人工衛星でも宇宙船でも、銀河系でも適用できる。

ことに時間をパラメータとしてある瞬間と別の瞬間を静止画のようにとらえて、それらの間の関係を考え、すべての瞬間を同等と見ることで、無限の過去から無限の未来までに適用できる汎用性を持つことができる。

つまり、過去の現象を分析して法則を見つければ未来も予測できるし、場所によらず適用できることになる。

だから、このような科学的思考・知性の働きは、人間にとって非常に強力な道具であり、これなくして今の人類の繁栄はなかったであろう。だからベルクソンは世界がどのようにあるのか理解する方法として機械論や映画仕掛けを否定しているわけではないし、世界に働きかける行動の道具として、知性の有用性や汎用性を積極的に評価している。

しかし、私たちが経験して生きていく時間とはそういうものだろうか。そのような見方をしていることで見落としていることはないのだろうか。

そのような機械的な世界の捉え方は科学に任せておくとして、もっと私たちが生きて体験していること、つまり世界は複雑で多様で持続する創造のなかで未来は予想できない、そのようなことを考える仕方があるのではないだろうか。生物の進化、人の成長と老化、ものの運動、それらを小間切れにせずに全体を捉える仕方があるのではないだろうか。

そこに哲学の役割がある、というのが本書の論点だと理解した。


だが、私が思ったのは、哲学が言葉によって考える限り、それは無理なのではないだろうか、ということだ。ベルクソンが言う「持続」や「生命のはずみ」という概念を機械論の錯覚や映画仕掛けの錯覚抜きで深めて捉えようとするならば、それは言葉によってはできないはずである。言葉は、言葉によって曖昧さの大小はあるものの、すでに現象をある時刻で切り取って概念化したものであると考えられるからだ。日常の言葉をより抽象化して概念や論理を純粋にしていけば、論理学や数学になるし、それらが科学の言葉となるわけだ。

私たちが生きる意味を求めるときに、「生きている私たちを抽象化して要素に分解して関係を求めていったところで見つからない、世界の中で生かされている私を生きていくその姿に意味がある」といえば若干魅力的ではあるが、そこから先を思弁することは文学になるか宗教になってしまうか、あるいは「人生哲学」になるか、そんなところではあるまいか。

言語によって語りえないものを言語によって語ることはできるのだろうか。

1900年以後、科学のさらなる発展に関しては言うまでもない。それは、これから先も永遠に無限に続く連鎖かもしれないが、観測できる限界の少し先まで現象を説明する言葉を手に入れてきた。

考えてみれば、哲学すなわち古代ギリシャのイデアの哲学は科学となり、その有用性と汎用性によって発展し分岐し深まり、まるで生命世界のように複雑化と多様性の拡がりを見せている。一方、哲学は反哲学の道を歩み始めたが、実際、ベルクソンが提起した概念の先で生命現象に対する新しい理解がなされただろうか。むしろ、科学技術の発展によって遺伝子とその構造が発見され、複雑系・開放系の理論、そして確率論によって「生命のはずみ」や「持続」に対する新たな理解が得られたと言えるのではないだろうか。そして科学的知の手法はその後に拡張され、以前のような時間を固定して細分化し分析・構築する手法だけでなく、システム理論のように全体を俯瞰して持続して生きている姿を理解する手法もできてきたと言えるのではないだろうか。


とはいえ、「科学的な人生の法則を考える」というといかがわしいが、「哲学的に人生をどう生きるか考える」というとそれなりにしっくりくるように思うのは、それぞれの人生が簡単に割り切れるものではない、という素朴な感覚が残っているからであろう。自分の人生を振り返ってある側面と瞬間で切り取って分析して未来の人生を予定調和で説明しても、それは過去の説明ばかりだ。これまでの連続した生き様を語り未来への希望を語るのが今を生きるということだろう。

科学的なものの見方、私たちが手にしている科学技術、それらが大変に汎用的で実用的であるがために、大事なことを忘れていないか?ベルクソンは進化論を考察し科学的知のありようを相対化して「生命のはずみ」「持続」といった独特な時間の見方を導入し、そのような問いをつきつけているように思い、面白く読んだ。

やはり、1900年前後の知の巨人は、哲学や宗教、数学や物理化学、博物学や生物学といった広い分野に精通し、よく理解したうえで論を展開しているので読みやすく、現代にあてはめても広い視野が得られるように思うので面白い。もっとも、思弁的な部分は読みにくいし、当時の科学の知見によって制限されている部分もある。

現代ではそのように広い分野に精通しつつ物事を深めるのは難しいと思う。それとも、宮本武蔵の「兵法の利にまかせて、諸芸、諸能の道となせば、万事に於て、我に師匠なし。」のように、一分野を究めればそのような視界が開けるのだろうか。


ベルクソンは、知性によって捉えられない世界のありようを示し、そこに光をあて当時の知見を俯瞰しながら真正面から論じているため魅力がありカリスマ性がある。しかし、そのような対象であるがゆえに、語りえないことを語ろうとする困難が自ずからあり、展望されたその先が示されてはいない。そこが私にとっては一番モヤッとする部分だった。

もう一つ私がモヤッとした部分は「知性の映画仕掛けの錯覚」について、当時、無限集合と無限小や連続についての数学的理論もあったわけだし、それらの概念の成り立ちや本質について、換言すれば数学や物理のよってたつところについて、考察があまりなされずに映画仕掛けと断じてしまう点だ。それはベルクソンが理解していなかったから、というより、問題意識がそのような細部にはなかったからかもしれない。

科学的なものの見方についての分析や考察は、やはり同時期の知の巨人、ポワンカレの「科学と仮説」に詳述されていて、そちらのほうがしっくりとくる。

そのようなモヤモヤを残しつつ、今回再読して、生命の持つさまざまな知のありようの中の一つという視点で科学的知について改めて考えることができ、本当によかったと思う。いずれまた将来、再読することになるだろう。そのときには今回とはまた違った世界が見えると思う。


私たちはどこから来て、どこに行くのだろうか。


■注記

(*1)予定では、先週に4章について、来週に全体のまとめ、と2本書く予定だったが、結局、ここまでかなり書いてしまったので、今週のこの記事で両方をすますことにする。

■関連 note 記事

本文内容に直接関係はないが、思い付きで一文を引用したので、関連記事として貼っておく。


私たちが持つ様々な知の形態と、科学的知のありようについては、中村雄二郎「哲学の現在」にコンパクトにまとめられていて合わせて読むと参考になると思う。Ⅳ章「さまざまな知」の 二「科学的知の位相」。

次の記事にはその内容については触れていないが、「哲学の現在」は私の好きな本だ、ということを書いている。


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