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古くて新しい現に在る問い:中村雄二郎「哲学の現在ー生きること考えること」

今年になって、中村雄二郎の「哲学の現在」を本棚から引っ張り出して、手元において何度か見直している。「現在」といっても 1977 年に第一刷の発行なので、40年ちょい前の「現在」である。そして、手元にあるこの岩波新書は 1982年の第10刷ということなので、高校生のころに買ったものだ。

しかし、内容は決して古くはない。と書いてみて思ったのだが、哲学や思想の名著が古くならないのは、あたりまえかもしれない。それは、古代からの人間の問いかけ「生きる意味は何か」に対して普遍的な答えを求める理性の働きだからだ。個々の人間が経験すること、考えることは、時代や地域特有の背景や、物理的な生産・運送・分配・所有の手段や、情報の生産・伝達・分配・所有の手段によって、様々な形態をとる。具体的に直面する問題は、地域や時代によって、大きく異なる。

だが、生まれてから成長して老いて死ぬまでの人間の一生、一日は、それほど変わっているわけではない。だから個人の経験と、本人と環境に現に在る概念を総合して、普遍的な真理を理性によって求めるときに、古いか新しいかということはないのだ。

中村雄二郎は次のように書いている。

生きること考えることをかえりみるということは、古くて、しかも新しい。といっても、単に永遠の問題だからではない。固定したもの、不動なものとしての永遠の問題ではない。そうではなくて、たえず甦り、現前するものとしてである。甦りと現前によって結びつけられ、関係づけられた古さと新しさである。(略)だから、なによりも必要なことは、よく甦らせ、現前、現在させることであろう。

それにしては、哲学者の数だけ哲学がある、とも思えるほど、世界や自分自身の捉え方やそれをもとにした思想は様々ではあるが、どれをとってみても「なるほど、今、私が直面している問題について、こういう考え方があるのか」と思うところは多いであろう。プラトンやソクラテスなど紀元前数百年のころから今に至るまで歴史上に残っている思想は、それだけ多くの人が「なるほど」と思ったものが厳選されて残っているとも言え、それぞれに固有の限界や問題点があるのかもしれないが、幅広く多くの人間に影響を与え、通用してきた考え方だと思われる。

だから、古の賢人を訪ねるのは大事だと思うのだ。大きな時代の転換点にいる私たちの抱える問題は、新しい様相を呈していても、本質は昔からあって、くり返しくり返し私たちが直面してきた問題なのではないだろうか。

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さて、この本を読んで面白いところは、哲学史のコンパクトな整理として分かりやすいということだけでなく、著者の肉声を聞くような感覚である。まるで、ご本人が目の前で私に問いかけ、私に語りかけているようだ。

ビジネス書などを読んでよくあるのが、引用が多く、引用文献リストと索引だけで全体の25%-30%程度を占めている本だ。あの人がこう言っている、この研究ではこういうことがわかっている、などと言いたいことの傍証や補強はわからないでもないし、論文としては過去の論文をちゃんと踏まえて、独自性や先進性を主張する必要があるので、一定の引用は仕方ないとは思うけれども。

あとがきにこのようなことが書いてある。

この本では、誰々いわくという式の引用はほとんどなくしたし、人名も最小限しか出さなかった。(略)人名や引用をできるだけ少なくすると、その分だけ自分のことばでいろいろな考え方を現前させなければならなくなった。あたりまえといえばあたりまえの話なのだが、私にとってはなかなか面白い経験であった。

述語や専門用語をできるだけ使わずに、日常の日本語を使い、以下のような十五のテーマをたてて議論されている。

1. 生きること考えること、2. 知識と知恵、3. ことば、4. 感覚と知覚、5. 見る・聞く・触る、6. イメージと想像の働き、7. 意識と主体、8. 身体、9. 関係性・場所・役割、10. 経験と常識、11. 科学的知、12. 神話の知・魔術の知、13, 目にみえる制度とみえない制度、14. 必要と共感、15. 歴史・出来事・時間

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どこを開いてみても面白く、いろいろ考えさせられる。自分に迷ったとき、学校や会社、そして社会の中でうまくいかないとき、自分って何だろう、知恵とは生きるとは、個人や社会や歴史とは、と、振り返って見るときがあるだろう。そんなときには先人の言葉に耳を傾けてみるとよいと思う。どこかヒントになるところはあるだろう。

よく考えることはよく生きることである。

万人に勧める一冊だ。


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