vol.125「仮説はいくつか持つといい。他者の反応に依存しないこと。」
引き続き、「わかる」の難しさについて考えてみます。
前回までの話を整理すると、「相手のことを完全に理解できる」瞬間は永久に訪れない。だから「理解する」は後まわしにして「他者の存在を否定しない」。それが多様性を受け入れるということだ、という話でした。
◆「わかる」の構造的な難しさ。
誰か他者が、理解できないこと、不合理に見える行動を取ったとき、「それはおかしいでしょ」「自分だったら絶対やらない」と批判したくなることがあります。
だけど「ある場面で取った行動」は、そこに至るまでの積み重ねの最後の結果だ。長い場合はその人の半生、環境(外的要因)、人間関係。その人の抱えている前提条件・見えない抑圧・思考・心のひだ、そういったものの無数の繰り返しのあとに、「ある場面の選択」をしている。
だから「わかる」は、その人の半生を試しに生きて過ごしたうえでその場面になったとき、違う選択をできてはじめて言えることだ。仮定の、机上の、後づけの結果論で「自分だったら」と意見をいうことに意味はない。
他者の人生に乗り移って生きてみることはもちろん不可能。だから「完全に理解できる」ことは不可能だ、というのが私の意見でした。
では「理解することを放棄していいか」というと、違う。努力すべきものと考えています。
◆ホスピタリティのプロの教え『仮説を複数持つ』。
前に、高野登さんの講演でお聞きした話。「仮説はいくつか持つといいですよ」というものです。
すごく腹におちた、また身に覚えのある話でした。
誰かにご馳走したときの反応。相手が遅刻してきたときの第一声。後輩を指導育成した後日の変化。
人はとかく、自分のものさしで想像して、期待して、怒ったりしている。
「仮説を複数もっておく」ことで多く防げるものです。
◆理解する努力はして、「理解できた」と思わないこと。
「理解する」問題も似ています。
受け取り手(受信者)は、相手を理解する努力をあきらめずに続ける。同時に、完全に理解できると思わない。安易に「わかる」と言わない謙虚さを持つ。
逆も同じ。当事者(発信側)は、伝える努力をあきらめずに続ける。同時に、完全に理解してもらえるのは難しい。相手に甘えすぎないわきまえを持つ。
二つのスタンスを取れること。視点(仮説)を複数持つこと。または行動と、それを冷静に観察する視点をわけること。そうすることで、「相手を許せない(他罰的な感覚)」から解放されるのかなと考えています。
◆自分と相手、どちらに依存するか。
高野さんのお話でもうひとつ。
「仮説をいくつか持つ」と共通するのが、「相手の反応に依存※していない」こと。
席を譲ろうと声をかけるとき、相手が感謝するか怒り出すかを気にしない。「今回はこうだったな」と受けとめるだけで、次また声をかける。
クレドを1000回言って伝わらなかったら、「まだ伝わってないのだな」と受けとめて、1001回目の説明をする。関係なく言い続ける。
他者の反応に依存しない、自分の判断軸で自分の行動を選択することがいかに大切か、わかるお話です。
「ぜんぶ理解できることはないが、といって理解する努力を放棄しない」が、現時点の私の結論です。
※「依存する」は、べったり頼りきりになる、の意味ではなく、「その関数f(x) の変数(x エックス)はなにか」という意味で用いています。
孔子の「知らざるを知らずと為す是知るなり」、ソクラテスの「無知の知」(不知の自覚、とも言うそうです)は、ほぼ同じことを指摘しています。
知らないことを知らないと認識することが、知る(わかる)の第一歩である。
そして、本当に知らないことは「自分はそれを知らない」とそもそも認識できない。
したがって、「自分はすべて理解した」は論理的にありえないのだとわかります。相手に「わかるわかる」と安く言えない、ということです。
この記事自体、「完全にはわからないこと」について考えているから、整理しきれない。読みづらい、冗長な文章になっていると思います。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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