『保暦間記』にみる源頼家の死
建仁三年七月廿一日、頼家(左衛門督、歳廿二)、病を受き。此人、多く死霊の故にや、大方、人の望にも背けるが、病気、日に増、夜重ふせ〔重らせ〕給ひければ、八月廿七日、遺跡を長子(一幡君)に譲り、坂より西三十八箇国は舎弟(千幡君)に譲ふれ〔譲られ〕給ひけり。爰に執権の人の無德なるを鬼神とがめ給ふにや、又、因果の報にや、大臣威あらそひの元こそ出来けれ。比企判官藤原能員(一幡君六歳外祖)、「遠江守時政(千幡君十歳外祖)を討、天下の世務を一人して相計はん」とする隱謀あり。此事聞へて、九