見出し画像

『保暦間記』にみる源頼家の死

 建仁三年七月廿一日、頼家(左衛門督、歳廿二)、病を受き。此人、多く死霊の故にや、大方、人の望にも背けるが、病気、日に増、夜重ふせ〔重らせ〕給ひければ、八月廿七日、遺跡を長子(一幡君)に譲り、坂より西三十八箇国は舎弟(千幡君)に譲ふれ〔譲られ〕給ひけり。爰に執権の人の無德なるを鬼神とがめ給ふにや、又、因果の報にや、大臣威あらそひの元こそ出来けれ。比企判官藤原能員(一幡君六歳外祖)、「遠江守時政(千幡君十歳外祖)を討、天下の世務を一人して相計はん」とする隱謀あり。此事聞へて、九月二日、能員を時政の宿所へたばかりよせて差殺し畢ぬ。
 同六日、一幡君并能員息・宗朝以下、御所〔小御所〕に篭て合戰を催す。義時、義村、朝政等を大将として、数万騎の軍兵を差遣し、相戦ひ、終に押入、御所〔小御所〕中に火をかけ、能員が一族、悉討滅し畢ぬ。剰、一幡御前も猛火の中にして空しくならせ給ふ。是を「小御所合戰」と申す。能々彼を勘へ、此を計りみるに、何も因果の徃来より外、他事なし。其元、天地の化にあり。化者感応なり。
 同七日、頼家卿、出家し給ふ。
 同十七日、千幡御前、元服ましまして実朝と号す。
 廿二日、仁田四郎忠常(一幡御前乳母)討れけり。
 同廿七日、実朝(十二歳)にして征軍夷将〔征夷大将軍〕の宣旨を蒙り給ふ。然るに頼家卿、少験を得、「能員をこそ打れめ、目の前にて一幡を討れぬる事無念也。時政を討べし」と議して諸人を召処に、同廿九日、伊豆国修禅寺へ移り行ぬ。然して後、時政、実朝の執権として天下の事、執行ひけるに、「頼家卿、猶、御憤つよくなり行」由聞へければ、次年(元久元年)七月十九日〔十八日〕に三十三歳〔廿三歳〕にして修禅寺の浴室の内にて討奉り、時政、弥権を恣にぞしたりける。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532209/52

 建仁3年(1203年)7月21日、源左衛門督頼家(22歳)は病気になった。この人は、多くの死霊のせいだろうか、ほとんどの人の(「回復して欲しい」という)望みに反して、病気は日が経つ程に悪化し、夜を重ねたので(危篤状態が続いたので)、(万一の場合に備えて相続問題を処理しておいた方がいいと思い)8月27日、家督を長男・一幡に譲り、坂東より西の38ヶ国は、弟・千幡に譲った。ここに執権の人に德が無いことを鬼神が咎めたのだろうか、あるいは、因果応報なのか、大臣の権力争い(比企 VS 北条)の火種となった。
 比企判官藤原能員(一幡(6歳)の外祖父)が、「北条遠江守平時政(千幡(10歳)の外祖父)を討ち、天下の世務を一人占めしよう」と企てた。これを聞いた北条時政は、9月2日、比企能員を北条時政の宿所へ策を弄して呼び寄せて刺し殺した。
 9月6日、一幡と比企能員の子・比企宗朝ら比企一族は、小御所に篭って合戦した。北条一族は、北条義時、三浦義村、小山朝政らを大将として、数万騎の軍勢を率いて戦い、終に小御所に押し入り、比企一族を悉く討滅した。剰え一幡も猛火の中で焼け死んだ。これを「小御所合戦」という。よくよくかれこれ考え、考察するに、どれも因果応報だと思われる。根源は「天地の化」にある。「化」とは感応のことである。【比企氏の乱】
 9月7日、源頼家が出家した。
 9月17日、千幡は元服して「実朝」と名乗った。
 9月22日、仁田忠常(一幡の乳母父)が討たれた。
 9月27日、実朝(12歳)、征夷大将軍の宣旨を受けた。しかし、源頼家の病気が少し回復して、「比企能員が討たれ、目の前の小御所で一幡が討たれるとは無念である。北条時政を討て」と諸人を集めて会議を開いて命じたが、(賛同者は無く、自身が)9月29日、伊豆国修禅寺へ移って行った。【源頼家の失脚】
 こうした後、北条時政は、源実朝の執権として、天下の事を執行していたので、「源頼家の怒りが強まった」と聞くと、翌年(元久元年、1204年)7月19日〔18日〕、33歳〔23歳〕の源頼家を修禅寺の浴室内で討ち、北条時政は、弥(いよいよ)権力を恣(ほしいまま)にした。【源頼家の暗殺】

--------------------------------------------------------------------------------------

 9月2日、北条時政は、比企能員を自宅へ呼び寄せて刺し殺した。さらに同日(『保暦間記』では9月6日)、比企一族が逃げ込んだ小御所(一幡の屋敷)を焼き払った。
 これを「比企能員の変」とか「比企氏の乱」という。
「変」と「乱」の定義は無く、昔からどう言われて来たかという慣習によるというが、政変(クーデター)を企てた個人や集団を捕らえて処刑したのが「変」で、大規模な合戦が「乱」だと思う。『保暦間記』にあるように、北条氏が数万騎で押し寄せたのであれば「乱」であろう。そもそも、比企氏の企みを聞いた北条氏が、「先手必勝」と、比企氏を襲ったのであるから、「比企能員の変/比企氏の乱」ではなく、「北条時政の変/北条氏の乱」であろうし、『保暦間記』にあるように、「小御所合戦」でもいいと思う。

■『新編相模国風土記稿』「小御所」
(前略)建仁の頃は、一幡(能員が女・若狭局が生所也)、爰に住す。三年九月、比企能員、誅せられ、其の一族等、此所に篭りて謀叛す。政子、軍兵を遣はし、是を討たしむ。彼輩、防戦の後、舘に火を放ちて自害す。一幡も其の殃(わざわひ)を免(まぬが)れず。(後略)

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。