見出し画像

源頼家の最期

──建仁3年(1203年)、鎌倉で不吉な事件が続いた。

1月  2日 八幡大菩薩が巫女に憑依して「一幡は家督を継げない」と神託。
3月10日 将軍・源頼家、急病。⇒3月14日に完治。
5月19日 阿野法橋全成、謀反。
6月23日 阿野法橋全成を誅殺。
6月30日 鶴岡八幡宮の宝殿にとまっていたキジバトが死亡。
7月  4日 鶴岡八幡宮で鳩が1匹死ぬ。
7月  9日 鶴岡八幡宮で鳩が1匹、首を切られて死ぬ。
7月16日 阿野法橋全成の子・頼全を誅殺。

──そして、ついに、将軍・源頼家が倒れた。

7月20日 将軍・源頼家、急病。
7月23日 将軍・源頼家の病気治癒のため、祈祷を行う。
8月  7日 将軍・源頼家の病気、悪化。
8月10日 将軍・源頼家、三嶋大社に自筆の「般若心経」を奉納。

■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)1月2日」条
將軍若君(一万君)御奉幣鶴岳宮、被奉神馬二疋。被行御神樂之處、大菩薩詑巫女給曰、「今年中、關東可有事。若君不可繼家督。岸上樹、其根已枯。人不知之、而恃梢緑」云々。
(将軍・源頼家の嫡男・一幡が、鶴岡八幡宮へ御幣を奉納し、さらに馬を2頭奉納した。神楽の最中、八幡大菩薩が巫女に憑依して神託するには、「今年中に、関東に有事がある。一幡は家督を継げない。岸〔崖?〕の上の木は、根が既に枯れている。人々はそれを知らず、梢の緑を頼りしている」と。)
※このご神託(予言)は当たったので八幡大神はすごい! でも、正月早々こんな話は聞きたくない。おみくじが大凶だった気分だ。
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)3月10日」条
自去夜亥尅、將軍家、俄(にはかに)御病惱(びょうのう)。
(昨夜の亥の刻(午後10時頃)から、将軍・源頼家が突然、病気。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)3月14日」条
將軍家御不例平癒之後、御沐浴也。
(将軍・源頼家の病気が治ったので、沐浴して穢れを洗い落とした。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)3月14日」条
子剋、阿野法橋全成〔幕下將軍御舎弟〕依有謀叛之聞、被召籠御所中。武田五郎信光生虜之。即被預于宇都宮四郎兵衛尉云々。
(子の刻(夜中の12時)に、「阿野全成(源頼朝の弟〕が謀反」と聞いたので、御所の中へ監禁した。武田信光が捕まえた。すぐに宇都宮頼業に預けられたという。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)5月25日」条
申尅、阿野法橋全成、配常陸國。
(申の刻(午後4時頃)、阿野全成を、常陸国へ配流した。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)6月23日」条
八田知家奉仰、於下野國、誅阿野法橋全成。
(八田知家は、命令を受け、下野国で、阿野全成を誅殺した。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)6月30日」条
辰尅、鶴岳若宮寳殿棟上、唐鳩一羽居、頃之頓落地死畢。人奇之。
(辰の刻(午前8時頃)、鶴岡八幡宮若宮の宝殿の棟の上に、キジバトが1羽とまっていたが、突然、地に落ちて死んだ。人々は怪奇とした。
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)7月4日」条
未尅、鶴岳八幡宮、自經所与下廻廊造合之上、鴿三喰合落地。一羽死。
(未の刻(午後2時頃)、鶴岡八幡宮の経所と下回廊を繋ぐ屋根の上から、土鳩(どばと。神社や寺で放し飼いにしている普通の鳩)が3羽、喰い争いながら落ちてきて、1羽が死んだ。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)7月9日」条
辰刻、同宮寺閼伽棚下。鳩一羽、頭切而死。此事無先規之由、供僧等驚申之。
(辰の刻(午前8時頃)鶴岡八幡の神宮寺の閼伽棚の下に、鳩が1羽、頭を取れて死んでいた。このような事は、今までなかったので、供僧が驚いて報告してきた。)
※鳩は八幡大神の使いとされるだけに不吉だ。
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)7月20日」条
戌尅。將軍家、俄以御病惱。御心神辛苦。非直也事(じきなること)云々。
(戌の刻(午後8時頃)将軍・源頼家が、突然、病気。苦しそうである。ただ事ではないという。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)7月23日」条
御病惱既危急之間、被始行數ケ御祈祷等。而卜筮之所告。靈神之崇云々。
(御病気は、かなりの重態なので、複数の祈祷を始めた。占いの結果は、霊神の祟りだという。)
■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)8月7日」条
將軍家御不例、太辛苦云々。
(将軍・源頼家は、大変苦しそうだとのこと。)
※霊神とは? 人穴に宿る浅間大神か?

※「建仁3年。源頼家の病気と病死報告」
https://note.com/sz2020/n/n529aa6f484ca

1.「比企能員の変」は「北条時政の変」だった!?


──将軍・源頼家の危篤は、相続問題へと発展する。

 『吾妻鑑』によると、8月27日、関西38ヶ国の地頭職を10歳(注:14歳の誤り)の源頼家の弟・千幡に譲り、関東28ヶ国の地頭職と総守護職を6歳の源頼家の長男・一幡(6歳)が相続すると決めたが、比企能員は反対した。
 9月2日、一幡の母・元若狭局(現讃岐局?)は、「地頭職を2つに分けたら、覇権争いとなって国が乱れる」と判断し、病床の源頼家に北条氏討伐を進言した。源頼家は、すぐに比企能員を呼び、北条氏討伐を許可した。それを立ち聞きした北条政子は、父・北条時政に報告すると、北条時政は、その日の内に「我が家で彫らせていた源頼家の病気治癒の薬師如来像の開眼式を共に行いましょうと」と言って自邸に比企能員を呼び出すと、天野遠景と仁田忠常が竹藪に連れ込んで殺害し、さらに小御所(一幡の館)に攻め込み、比企一族を攻め滅ぼし、一幡も焼け死んだ(「比企能員の変」)。つまり、比企能員が北条時政を殺そうとしたので、北条時政は先手を打って比企能員を殺したとする。(比企能員の妻は 渋河兼忠の娘とする。)
 一方、『愚管抄』では、北条時政は「一幡に全権力を移して、比企能員が補佐する」と聞いて、比企能員を討ったとする。(比企能員の妻は ミセヤ(三尾谷?)行時の娘とする。)

■『愚管抄』
建仁三年九月の頃をい、大事の病をうけて、既に死なんとしけるに、比企の判官能員(阿波国(注:安房国の誤記?)の者也)と云ふ者の娘を思ひて男子を生ませたりけるに、六に成りける。一万御前と云ひける。「それに皆、家を引きうつして、能員が世にてあらん」としける由を、母方の伯父・北条時政、遠江守に成りてありけるが聞きて、「頼家が弟・千万御前(実朝)とて、頼朝も愛子にてありし。それこそ」と思ひて、同九月廿日(注:2日の誤記)、能員を呼びとりて、やがて遠景入道にいだかせて、日田四郎に指し殺させて、やがて武士をやりて頼家が病み伏したるを、大江広元がもとにて病せて、それに据えてけり。

2.将軍・源頼家の出家


──将軍・源頼家の出家についても、『吾妻鑑』と『愚管抄』では異なる。

 『吾妻鑑』では、源頼家の出家を9月2日の「比企能員の変」の後の9月7日の亥の刻(午後10時頃)とし、一幡は「比企能員の変」で焼死したとする一方、『愚管抄』では、源頼家の出家を「比企能員の変」の前の8月31日の二更(午後10時頃)とし、一幡は「比企能員の変」後の11月3日に討たれて、埋められたとする。

 『吾妻鑑』では、北条政子は、9月7日、「病気な上に、今の政情では鎌倉殿は務まらない」として出家させた。そして、9月10日、千幡を鎌倉殿にすることに決めたとする。

 『愚管抄』では、源頼家は、病気が重症になったので、8月31日に自分から進んで出家し、「これで一幡の世になった。みんな仲良くするだろう」と気が楽になったら、病気が回復した。しかし、9月2日に「一幡を討つ」という話を聞き、「これはどういうことだ?」と、近くの太刀を手に立ち上がったが、病み上がりなので、ふらつき、北条政子が支えて、修善寺に押し込めたとする。

■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)9月7日」条
亥尅、將軍家令落餝給。御病惱之上、治家門給事、始終尤危之故。尼御臺所依被計仰、不意如此。
(亥の刻(午後10時頃)、将軍・源頼家は出家した。病気の上、家門を治めることが危ぶまれたからである。尼御台所(北条政子)が、考えられて仰せになったのであり、不本意ながらこのような形となった。)
■『愚管抄』
 さて、其の十日、頼家入道をば、伊豆の修禅寺(と)云ふ山中なる堂へ押し込めけり。
 頼家は、世の中心ちの病にて、八月晦日二更にて出家して、広元が元に据えたる程に、出家の後は、「一万御前の世に成りぬ」とて、「皆、仲良くて、かくしなさるべし」とも思はで有りけるに、やがて出家の即ちより、病はよろしく成りたりける。九月二日、「かく一万御前を討つ」と聞きて、「こは如何に」と云ひて、傍らなる太刀を取りて、ふと立ちければ、病の名残り、誠には敵(かな)はぬに、母の尼も取り付きなどして、やがて守りて修禅寺に押し込めけり。悲しき事なり。
 さて、其の年の十一月三日、終に一万若をば、義時、とりておきて、藤馬と云ふ郎等に指し殺させてうづみてけり。

3.源頼家(金吾禅閤)の最期


 源頼家の最期について、『吾妻鑑』には、元久元年(1204年)7月19日」条に「酉尅、伊豆國飛脚參着。「昨日(十八日)、左金吾禪閤(年廿三)於當國修禪寺、薨給」之由申之云々」(酉の刻(午後6時頃)、伊豆国から伝令が着き、「昨日(18日)、左衛門督・金吾禅閤(年23)が、伊豆国修善寺で亡くなった」と報告したという)とあるだけである。大々的な国葬は行われなかったのか?

画像2

 『保暦間記』には、「次年(元久元年)七月十九日に三十三歳にして修禅寺の浴室の内にて討ち奉り」、『愚管抄』には、もう少し詳しく、「さて、次の年は元久元年七月十八日に、修禅寺にて、又、頼家入道をば指し殺してけり。「頓(とみ)に、え取り詰めざりければ、頸に緒を付け、陰嚢(ふぐり)を取るなどして殺しけり」と聞こへき」(さて、翌年・元久元年7月18日に、修善寺にて、源頼家入道を刺し殺した。「(武芸の達人だけあって)すぐに取り抑えられなかったので、首に縄を掛け、陰嚢を取って(切り落として? 強く握って?)などして殺した」と聞きいている)とある。

※「『保暦間記』にみる源頼家の死」
https://note.com/sz2020/n/ne314d52f2af9

 上の絵は、修禅寺で売っている絵葉書の1枚。あれ? おかしいぞ。さて、どこが変でしょうか? 答えはコメント欄へ。

4.謎の面 -「病相の面」と「死相の面」-

──伊豆には「病相の面」と「死相の面」がある。

 「病相の面」は、お風呂に漆を入れられて真赤に腫れ上がった源頼家の顔で、「死相の面」は、死ぬ瞬間の源頼家の断末魔の顔だという。

 「死相の面」は、岡本綺堂の『修禅寺物語』で一躍有名になった。

※「岡本綺堂『修禅寺物語』」
https://note.com/sz2020/n/nd9edb720fa75

そして、今でも観光客に
「夜叉王の墓はどこですか?」
「かつらの墓はどこですか?」
と聞かれて、修善寺の人々は困惑しているそうだ。2人とも架空の人物で、墓などない。だが、備中神楽面最中(岡山県高梁市成羽町)に匹敵する最中ならある。

※『最中は語る ― 最中旅のブログ』「修善寺物語:静岡県伊豆市」
https://blog.monaka-data.net/shuzenjimonogatari/

画像3

 「死相の面」は、昔から雅楽で使われる「納曽利(なそり)」の面に似ていると言われて来たが、構造が全く異なり、現在では否定されている。
 私は、初めて「死相の面」を見た時は、「源頼家を襲った刺客がしていた面では?」「真ん中で割れてるのは、その刺客が斬られたからでは?」と思った。(もしそうなら、血がついてるはずだ。)
 しかし、踊り手がかぶる面でも、刺客の顔を隠す面でもない事は、実物を見れば一目瞭然である。
 専門家は「京都のこの面や奈良のこの面に似ている」と図鑑で示すが、私は「同時代の伊豆のこの面と、同時代の鎌倉のこの面に似てる」と思っているが、現地取材をしていないので、根拠はない。サポートしていただければ、いつの日にか、自説検証の旅に出てみたい。(ちなみに、この面は未完成であろう。同時代の伊豆や鎌倉の面にそっくりな面があるが、どちらも頭髪と髭がある。)

※「福地山修禅寺」
https://shuzenji-temple.com/index.html
https://shuzenji-temple.com/jihou01.html

5.元鎌倉殿の13人

──鎌倉殿になった時点での源頼家の近習は5人であったが、晩年には13人。

画像1

■「源頼家 家臣 十三士の墓」(現地案内板)
北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年)7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。

 元久元年(1204年)7月18日、元鎌倉殿・源頼家の「御家人13人」(「近習五人衆」と違ってメンバーは不明)は、敵討ちを企てたが、発覚して討たれた(『吾妻鑑』「元久元年(1204年)7月24日」条)。
 修善寺の「十三士の墓」は、元鎌倉殿・源頼家の「御家人13人」の墓だと言い伝えられており、源頼家の庵跡にあったが、台風被害により、平成17年(2005年)7月17日に現在地に移築された。
 そもそも、元鎌倉殿・源頼家の「御家人13人」の中には遠流になった者もいて、近侍していなかったようである(『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)11月16日」条)。

■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)11月16日」条
建仁三年十一月大六日庚午。左金吾禪室、自伊豆國、被進御書於尼御臺所并將軍家。「是深山幽棲、今更難忍徒然、日來所召仕近習之輩欲被免參入。又、於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘發」之旨被載之。仍有其沙汰。「御所望條々旁不可然。其上被通御書事、向後可被停止」之趣、今日以三浦兵衛尉義村爲御使、被申送之云々。
(建仁3年(1203年)11月16日。源頼家が、伊豆国から、手紙を北条政子と源実朝へよこした。「深い山に幽閉され、退屈なので、以前の近習をよこすよう許可して欲しい。また、安達景盛を私に引き渡し、処分させて欲しい」と書かれていた。その沙汰があった。「望む項目は、全て却下。その上、今後は手紙をよこすことも禁止する」と、今日、三浦義村が使いとして申し送られるという。)
■『吾妻鑑』「元久元年(1204年)7月24日」条
左金吾禪閤御家人等、隱居于片土、企謀叛。縡發覺之間、相州、差遣金窪太郎行親已下、忽以被誅戮之。
(源頼家の御家人が、(鎌倉の)近辺に隠れて謀反を企てていた。発覚したので、相州(北条義時)は、金窪行親等を向かわせ、忽ち誅殺した。)

※藤沢衛彦編『日本伝説叢書 伊豆の巻』「十三塚」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953563/156
※「源頼家の家臣 十三士の墓」
http://www.goshuzenji.com/10.html
※柳田國男『石神問答』「十三塚表」(十三塚の一覧)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993744/163


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。