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建仁3年。源頼家の病気と病死報告

その年-建仁3年(1203年)-は不吉な年であった。

正月、八幡大神が巫女に憑依して、
今年中、關東可有事。若君不可繼家督。岸上樹、其根已枯。人不知之、而恃梢緑」(今年中に、関東で事有る可(べ)し。若君、家督を継ぐ不可(べからず)。岸の上の樹、其の根、已(すで)に枯る。人、之(これ)を知不(しらず)し而(て)、梢(こずえ)の緑を恃(たの)む)
と告げた。
普通は、比企一族の滅亡「比企氏の乱」を指すとして、
「今年中に、関東に有事〔比企能員の死去と鎌倉殿の交替〕がある。(比企能員が死に、比企能員が乳母夫の)一幡は家督を継げない〔鎌倉殿になれない〕。岸〔崖?〕の上の木〔比企能員〕は、根が既に枯れている。人々は既に根が枯れていることを知らず、梢の緑〔春になって葉が芽吹き、夏には涼しい木陰を作ってくれること〕を頼りしている〔一幡の成長に伴って比企一族が成長すると信じている〕」
と訳すが、どうであろうか?
 私は、『吾妻鑑』は、源頼家を暗君に仕立てようとしており、このご神託も「源頼家の失脚」を指すとして、
「今年中に、関東に有事〔鎌倉殿の交替〕がある。(源頼家は急病になり、長男の一幡を助けられないので)一幡は家督を継げない〔鎌倉殿になれない〕。岸〔崖?〕の上の木〔源頼家〕は、根が既に枯れている〔体調を壊し始めている〕。人々はそれを知らず、梢の緑〔源頼家が大樹に育つこと=名君になること〕を頼りにしている」
と訳すべきだと考えてきたが、八幡大神は、一幡に向けて告げているので、ここでの主語は源頼家ではなく一幡であり、前半は「今年中に鎌倉殿の交替があるが、お前(一幡)は家督を継げない」で、後半は家督を継げない理由の説明であって、
「岸〔崖?〕の上の木〔お前=一幡〕は、根が既に枯れている〔一幡を助ける周囲の人々の未来には暗雲がたちこめており、源頼家は急病にかかり、比企能員は暗殺される〕。人々はそれを知らず、梢の緑〔一幡が家督を継いで大樹(立派な鎌倉殿)に育つこと〕を頼りにしている」
と訳すべきかなと思う。

※「岸の上」は「崖の上」の誤記だと思われる。崖っぷちに立っている木である。
※一般的に、お告げとか、占いは、どうともとれる言い方であり、事後に「あれは、この事だったのか」と分かる場合が多い。

■『吾妻鑑』「建仁3年(1203年)1月2日」条
將軍若君(一万君)御奉幣鶴岳宮、被奉神馬二疋。被行御神樂之處、大菩薩詑巫女給曰、「今年中、關東可有事。若君不可繼家督。岸上樹、其根已枯。人不知之、而恃梢緑」云々。

(将軍・源頼家の嫡男・一幡が、鶴岡八幡宮へ御幣を奉納し、さらに馬を2頭奉納した。神楽の最中、八幡大菩薩が巫女に憑依して神託するには、「今年中に、関東に大事件が起きる。一幡は家督を継げない。岸〔崖?〕の上の木は、根が既に枯れている。人々はそれを知らず、梢の緑を頼りしている」と。)

1月  2日 八幡大菩薩が巫女に憑依して「今年、有事が発生」と神託。
3月10日 将軍・源頼家、急病。⇒3月14日に完治。
5月19日 阿野法橋全成、謀反。
5月26日 将軍・源頼家、伊豆国へ巻狩りに出発。
6月  1日 将軍・源頼家、伊豆国伊東崎の洞窟を調査。
6月  3日 将軍・源頼家、駿河国の富士の裾野の洞窟を調査。
6月  4日 仁田忠常、洞窟調査から帰還。
6月10日 将軍・源頼家、駿河国から鎌倉に帰還。
6月23日 阿野法橋全成を誅殺。
6月30日 鶴岡八幡宮の宝殿にとまっていたキジバトが死亡。
7月  4日 鶴岡八幡宮で鳩が1匹死ぬ。
7月  9日 鶴岡八幡宮で鳩が1匹、首を切られて死ぬ。
7月16日 阿野法橋全成の子・頼全を誅殺。
7月20日 将軍・源頼家、急病。
7月23日 将軍・源頼家の病気治癒のため、祈祷を行う。
8月  7日 将軍・源頼家の病気、悪化。
8月10日 将軍・源頼家、三嶋大社に自筆の「般若心経」を奉納。
8月27日 将軍・源頼家、悪化。家督相続を決めるが、比企能員は反対。
8月29日 将軍・源頼家、日に日に悪化。
9月  1日 将軍・源頼家の病気、祈祷も効果無し。
9月  2日 比企能員、将軍・源頼家に北条討伐の許可を得るが逆に討たる。
9月  5日 将軍・源頼家、病気から少し回復。9月2日の事を知り、激怒。
9月  6日 仁田忠常、加藤景廉に討たる。
9月  7日 将軍・源頼家、出家。朝廷、千幡を征夷大将軍に任命す。
9月10日 次の将軍は千幡に決定。
9月15日 朝廷から、千幡の征夷大将軍任命書が鎌倉に届く。

  9月5日、病状が回復した源頼家は、「比企氏の乱」を知って激怒し、北条時政の誅殺を和田義盛と仁田忠常に命じるが、和田義盛は従わず、一幡の乳母夫の仁田忠常は、どうしようか悩んでいる内に討たれてしまった。
 9月7日、源頼家は出家させられて伊豆国修善寺に幽閉され、9月15日、弟の千幡が源実朝と名乗り、鎌倉殿を継いだ。正月の「若君不可繼家督」という八幡大神の予言は当たったのである。

1.源頼家が休養していた場所はどこか?


 『吾妻鑑』には源頼家が倒れた場所も、寝ていた場所も書いてない。わざわざ書く必要がない場所なのであろう。
 9月2日、比企能員は、源頼家の寝所へ行き、北条討伐の許可を得るが、それを立ち聞きした北条政子は、すぐに父・北条時政に報告し、比企能員は、その日の内に討たれた。北条政子が立ち聞きできたということは、源頼家の寝所は、大倉御所内の一室なのであろう。

 一方、『愚管抄』では、「源頼家は、大江広元の屋敷で倒れ、そのまま大江広元の屋敷で寝ていた」とする。

武士をやりて頼家が病み伏したるを、大江広元がもとにて病せて、それにすえてけり。(『愚管抄』)

 2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大倉御所で立ち聞きしたのは、北条政子ではなく、立ち聞きは源頼家がしようとしたことであり、それは、主人公・北条義時の策であるとした。北条義時は、比企能員を大倉御所に呼んで自白させ、それを源頼家に立ち聞きさせ、源頼家の許可を得て、善児に比企能員を誅殺させようとしたのである。ところが立ち聞きしているはずの源頼家がいない。そこに源頼家を連れてくる役の北条時房が来て、「源頼家が倒れた」と急を告げた。そして、源頼家は、危篤の源頼朝が寝ていた部屋で寝かされた。北条義時が「あの部屋は源頼朝が亡くなった部屋なので、縁起が悪い。どこか別の場所に」と言うと、対立している比企能員と北条時政が「我が屋敷に」と言うが、北条義時は、どちらであっても好ましくないと判断し、「大江広元の屋敷に」としたので、源頼家は大江広元の屋敷に運ばれたとした。

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