見出し画像

その日僕は古書につられて京都にいた。

筆者撮影

この記事はすべてフィクションです。
実在の人物・団体・事件等にはいっさい関係ありません。

その日僕は、京都で例年催される「下鴨納涼古本まつり」へ訪れていた。
由緒ある神社の境内で、木々と古書と人々に囲まれたその場は、外にあって、ひとつの空間をなしており、俗世と彼方とが一体化した世界であった。

さて、冒頭にあげた写真以外に何も取っていないので、あとは叙情的に風景や様子を語らなければならないのだが、その前に意味ありげに「その日」などと用いた理由を、ある種の弁明としてまず片付けておきたい。
その日、とは東京においてコミックマーケット100が開催された日のことである。したがって、僕が訪れた日も自ずと計算するまでもなく明らかになるが、そこは紳士協定、エッセイに史実的干渉はご法度であろうと釘を刺しておく。

僕は不安と期待を胸に京都へ向かった。こんな書き出しはラノベにおける新学期の描写のようで舞台からして京アニですかと問いたくなるが、それに加えて僕は罪悪感もあった。
罪悪感。これこそが人間を人間たらしめ、そして人間を不幸にさせる原罪またはそれに伴う処罰であろうと思われる。
というのも「その日」、知人(友人と表現するのはおこがましい。だがオフでお逢いしたことがあるので慇懃に相互フォロワーとはあえて言うまい)が売り手として出店なさっていたのだ。
作品をつくる、そしてそもそも当選するかどうか、というもはや天運さえも影響しているであろうその機会。知人を自認するならば、ぜひとも僕は買いに馳せ参じるべきだろう。

僕は恥ずかしながらカントにはあまり明るくない。それ故に「~べき」という行動原理に対する彼の哲学をここで紹介申し上げることはできかねる。
ところで、すべき行動は少なくとも道徳上あるだろうが、いるべき場所というのはどうだろう。
仮にその文章が言語的ではなく哲学的に通用するものだとすれば、僕はその日、コミケにいるべきだったやもしれない。ここで可能性が生じている時点で、べき論は成立していないのだろうが。

ともかくも、僕は東京ではなくて京都にいて、同人作品ではなく、絶版書籍を買いあさっていたのだった。それはまさにパラレルワールドの如き些細な違いではあったが、だからこそ選択に対する罪悪感がわき起こったのだろう。

閑話休題。
ここで気分転換に戦利品紹介に入ろうと思う。僕が買ったのは合計5冊。それぞれ別々の書店さんだったので、おそらく特定されるようなことはないだろう(する意味もない)。

戦利品

『日本の名著 吉田松陰』『新北朝の人と文学』
『王権』『建武の中興-理想に殉じた人々-』『書物への愛 フィロビブロン』

言うまでもなく、購入する際に気にしていたのは、①興味の有無、②比較的綺麗、③値段、④BOOKOFF等で見かけたことが無い、の四点。

特に最後の影響で、今回、文庫本や新書は買うに至らなかった。また、これらの書籍が中古で販売していたとしても、高価であることが少なくないため、箱入り書籍や専門書の類に注目していた。

ちなみに、ホカートの『王権』は今も岩波文庫で販売中だが、安かったのと、もともと買うか迷っていたのもあって、購入に至った。

『書物への愛』も“ビブリオフィリア”や“ビブリオマニア”についてネットで調べていた折に、その書名と出会ったが、既に絶版だった記憶がある。
ちなみに、類似したテーマの小説でオススメしたいのは、創元社からでているアンソロジー『書物愛』と、角川スニーカー文庫・三雲岳斗(作)『ダンタリアンの書架』。
前者は日本編と海外編の二冊があり、僕は海外編しか読んだことがないのだが、特にツヴァイクの『書痴メンデル』が印象深い。
後者は全8巻も続いていたし、ガイナックスでアニメ化されている。

正直、ガイナックスにおけるひとつの名作であるとさえ感じているが、知名度はそこそこ。
読書家が出てくるアニメとなると個人的には、『犬とハサミは使いよう』と『大図書館の羊飼い』が思い出される。

ちなみに未読ゆえに憶測だが、「新北朝」の「新」とは、後醍醐天皇が建武の新政前に隠岐へ配流となった際に即位された光厳天皇(持明院統/北朝①)に対して、南北朝期において成立した「北朝」のことを言っているのだろうと思う。
光厳上皇の北朝。室町幕府のある北朝。
そう言えば僕はその日、上洛していたのか。上京と言ってもいいが、もはやそれは東京へ向かう語に限定されている。

記念品

飲み物を買うともらえるうちわ。コミケがそうであるように、こちらもかなりの暑さと労力を用いるので、僕は久方ぶりにアクエリアスを買った。
本を購入したときに入れてくれた袋。「ANTIQARIAN BOOK FAIR」と「京都古書研究会」の印字。
なお袋は基本有料だが、何も言わず入れてくれるお店もあった。写真にある、すなわち僕の手元にあるのは後者。

ところで、下鴨神社の古本市といえば、森見登美彦の作品を彷彿させる方も多いのではないか。アニメ化されているが、なるほどほとんどあのままの光景だった。
けれど、上記のように僕なりの良書はあったが、美少女に出逢うことはついぞなかった。
その理由は、午後の悪天候ゆえである。逢うも別れるもみな、足元の水たまりを避け、あるいは手に傘とせっかくの戦利品を濡らさないようにする気ぜわしさもあり、視界がビニールテントに覆われ、もはや不可思議な魔力は半減し、雨の市場という俗世間となっていたからだ。

加えて、鴨長明『方丈記』の庵が再現されていることでも有名な当地だが、なんと修復でみることができなかった。無常だ。
小学生の時に読書にハマり、以降、現在に至らしめたのはドイルのホームズシリーズの影響だが、中学生の頃の愛読書は兼好法師の『徒然草』。
そんな僕にとって『方丈記』はひとつのマニュアルでもあった。
徒然草は思想を、方丈記は在り方、過ごし方を示しているように思えたからだ。これもある種の中二病である。
「晴耕雨読」と、江戸川乱歩も好きになっていたので「真実一路」が好きな言葉だった。

雨読とはその前提として雨風をしのげる場があることを意味しており、雨宿りでわずかながらもテントに飛び込み、そこで先ほどは気がつかなかった書籍に目を輝かせることではないと思う。幸いにして、中止にはならなかったが、地面が土なので、僕の靴に跳ねて帰りはドロドロであった。
これも“いるべき場所”にいなかったせいか、と当地でも少し脳裏をよぎったが、帰宅後にTwitterをみたところ、コミケもかなりの雨だったとか。
やはりこの論法は成り立たないのかもしれない。
けれどごめんね、買いに行けなくて(m´・ω・`)m ゴメン…

晴れて僕は本棚が埋まっている現状に気が付きつつも、さらには少しずつ読了しているが積読もまた増えたという事実を知りつつも、電子書籍を一度も用いないというポリシーを貫き自らの蔵書を誇っている。
そうなのだから、たとえ知人の同人作品が買えずとも、美少女と本がきっかけでお知り合いになれずとも、それをしてただちに孤独に苦しむ必要は無い。
古本市を舞台にした短編小説も書き始めたし、しばらくはこのままでも大丈夫そうだ。カクヨムに投稿する日は未定。
社会において、僕の現状が確かに「大丈夫」なのかは、この際、問う必要はない、はず。ともかくも本はまだ僕にとって娯楽であり、教養主義に接近しつつもまだ陥ってはいないと思われる…………そう、思われる。

この記事が参加している募集

夏の思い出

よろしければサポートお願いします!