見出し画像

一切はデカダンスを経る

 19世紀の文豪オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を今読んでいる。ワイルド自身もそうであるが、本作で重要な美的価値に「デカダンス」というものがある。
 日本では、澁澤龍彦の存在や、太宰治をデカダン派と呼んだりするが、そもそもデカダンスとは何なのかを今一度考え直そうと思う。

 一般に頽廃たいはい(退廃)と訳されるdecadence(英)。
 学研・スーパーアンカー英和辞書では、(道徳・文芸などの)退廃、衰微、堕落、デカダンス、とこの語を紹介している。
 ロングマン現代英英辞典では、「having low moral standards and being more concerned with pleasure than serious matters」と述べる。
 すなわち、モラルが低く、“重大な問題(serious matters)”よりも、快楽に関心を寄せていること。

 ちなみに、形容詞「decadent」の訳には、①[けなして]退廃的な、堕落[衰退]に向かっている、②[おどけて]いささか贅沢な、豪華な、という意味がある。
 この言葉は、前者がデカダンスに属さない人が発するものであることが分かる。後者は、ある種内輪ネタのようなものだろうか。
 デカダンスというものが、一般に想定される趣味趣向とは異なったモノへ浪費することを感じさせる。

 かつて僕は、デカダンスの聖書と呼ばれる小説『さかしま』に登場する、デカダンス的インテリアについて触れたことがある。
 『ドリアン・グレイの肖像』との共通点といえば、気に入った本や宝石、香りへの研究とこだわりだろうか。
 いずれも、上流階級にとっては流行りや全体的なバランスを気にするもの。

 そして、もう一つが「快楽主義」。
 貧富の格差が激しかった帝国の時代、19世紀。だが、上流階級の男性は黒色の服を基本として、女性を一律的に規定したのもこの時代であった。すなわち、非常にモラルに関心を持っていたのが、この時代の文化なのだ。
 ある意味では禁欲主義的な時代であればこそ、「総力戦」が生じたのかもしれない。

 その時代精神に反して、物質的・精神的な快楽を追究した人々。それらを頽廃的と表現したのだ。
 快楽主義自体は、古代ギリシアのエピクロスまでさかのぼることができる伝統的なものではあるが、hedonism(ヘドニズム/快楽説・快楽主義)が台頭したのが、20世紀のアメリカ的な消費文化へと至るきっかけだったのではなかろうか。

感覚的な快楽を幸福と捉え、これを産出する行為を正しい・善いとみなす
倫理学上の立場であり幸福主義の一種である。

Wikipedia「快楽主義」

 霧のロンドンに名探偵ホームズが開業し、ルーマニアからドラキュラ伯爵がやってきたのもこの19世紀というゴシックの世紀。
 20世紀初頭、コズミックホラーを開拓し、新たな神話を見出したラブクラフト。クリスマスを祝う曲のひとつ「Carol of the Bells」が作曲されたのは1914年であったが、やがてその曲は、ラブクラフトの作品に登場する、旧支配者と呼ばれる異形の存在をたたえる替え歌「旧支配者のキャロル(Carol of the Old Ones)」がつくられることに。これもまた、頽廃であるが芸術の一種であろう。
 この種の、かつての価値にとってみればダークな創作や表現を、豪華かつ徹底的に執り行うことが、デカダンス的な装飾芸術であったと思われる。

 キャロルというのは、宗教的な祝歌という意味。
 クリスマスキャロルとは他でもなく、キリストの誕生と復活を讃えている(讃美歌)。その趣旨から意図的にずらしたりしつつも、モチーフや象徴として利用することが、これまた19世紀に登場した「象徴主義」なる芸術。
 文化は必ずデカダンス(衰退)へと向かうが、その中で美しいものは、本来の在り方を変えつつ、次の世へと伝わっていく。


よろしければサポートお願いします!