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綾波レイの台詞が詩的な事に関する所見


“これが涙。泣いているのは私?”

 綾波レイは僕をはじめ、多くのオタクを生み、そして二次元愛を目覚めさせた存在として知られている。彼女の儚げな在り方は、そのセリフと相まって、いっそう作品に強い印象を残している。

 寡黙でミステリアスな彼女の発言は、全てが名言として切り出されているといっても過言ではない。
 だからこそ、僕はアヤナミストというファンネームを、綾波主義者アヤナミストと解釈している。
 綾波推しはその容姿・性格に端を発する受動的なものとすれば、アヤナミスト道は彼女の言動の実践に見つけたり。
 こんなことを年がら年中言っているので、「アヤナミスト」とGoogle検索したら、僕のnoteがわりとすぐ出てくるようになった。みんな、もう語っていないのか?

 さて、彼女の台詞として非常に有名なものの多くが、「あなたは死なないわ、私が守るもの」や「こういう時、どんな顔をすればいいのか、分からないの」などなど、エヴァの名シーンと一緒に記憶され続けている。

※以下、エヴァの画像は「残酷な天使のテーゼ」より

 こうやって見返すと別段、「ポエム」のような文言という訳ではない。その意図も言葉・会話として通じるレベルで、意外と声を大にして詩的と表現するほどではないのだ。
 彼女がむしろ詩的になったのは、新劇場版からなのかもしれない。「碇君といると、ぽかぽかする」という表現とか。幼稚園での会話にしか出てこないでしょ。

 しかし、人々の記憶に詩的に投じられているのは、彼女の息遣いや世界への姿勢を垣間見えるからこそ。
 ところで、彼女がなぜ特徴的な間や言葉遣いをするようになったのかは、視聴者・読者にはひとつ思い当たる事件〈ファースト・インパクト〉がある。

phase 壱:純粋ゆえの傷痕

 TVアニメ版・第弐拾壱話での回想。
 そこでは、ネルフ誕生間際に、赤城ナオコと幼女のレイが出会うシーンがある。

 今でこそ、新劇場版の最終作では農業をしていたりと、いたいけな美少女然としているが、その時はやはり子どもらしく、残酷なまでに純粋。
 既にそのときから、他の子どものように遊びまわるような「可愛げ」は無く、他者との違いを一瞬で感じさせる。 

幼少のレイ(中央)

 ナオコに対し、レイ(幼女)が「ばあさん」と呼ぶシーン。
 なるほどナオコは中年だが、レイが初対面に近い大人に理由もなくそう告げるようなタイプには見えない。
 彼女がそう呼んだ理由は、ナオコが愛していたゲンドウが、裏では彼女のことを「ばあさん」と呼び、「ばあさんは用済み」と言っていたからだという。

 このときの彼女の特筆すべき点は、言うべきではない裏話を、率直に伝えてしまう点ではなく、それを冷笑するように「ニッと嗤う」(シナリオ本『EVANGELION ORIGINAL Ⅲ』参照)のだ。

 その結果、彼女は死にかける。TVでは息を吹き返すシーンはカットされた。
 零号機に乗るあのレイは二人目(のちに三人目)であり、幼女である一人目のレイは、その後どうなったのか。

 彼女の子どもの頃の記憶が何らかのかたちで継承されているならば、その後、彼女が笑顔を見せないことや、詩的な物言いになっていく大きなきっかけなのではないだろうか。

 直接的な表現は、命をも危うくさせる力がある。エヴァに乗ることを「絆」と表現する彼女にとって、一見クールなようだが、決して他者に無関心なわけではない。その関心の矛先が乏しいだけであって。

 いわば、レイ自身は後に認識していないかもしれないが、幼少期のトラウマが深層心理にあったり、あるいはこの事件を反省して、ゲンドウらが二人目のレイを「調整」したのか。

phase 弐:戦闘員に雑談はない

 少し前にソシャゲ「NIKKE」に登場するブリッドが好きだという話を自己分析も含めてnoteに書いた。

 白状すると、12月下旬(年末)から4日までの約一週間以上、ログインしていなかった。このまま消すのかもなと思いつつ、久方ぶりにプレイ。

ブリッド……。

 このセリフは常時聞くことができるけれど、ワーカホリックとして知られる彼女が、そう呟くことは、何度聞いても感慨深い。
 それに、知らぬ間に背景が新年用に変わっていて、なんだか一人ぼっちで新年を迎えさせた(実際そうだが)ようで、心苦しい。

 彼女もまた、レイのような自分を省みず、働きづめだったりする。
 彼女の言葉は端的だが、素っ気なくはないのは、列車を運行するというサービスへの従事や使命感からもうかがえる。

 ブリッド、そしてレイも、雑談をしてこなかったことが、その言葉を詩的なものへと変化させたのかもしれない。

 そもそも、NIKKEの多くがこれに当てはまると思う。
 彼女たちに共通するのは、任務への忠実、意志ある兵器としての自覚、むちむち、そして達観的かつ詩的な語り口なのだ。

 レイは決して最初から詩的なわけではなかった。
 むしろ鋭利すぎる言葉を持っていた。だが、読書や自己反芻を通して、彼女は自分のための言葉をもった。絆、ぽかぽかetc.。
 それは誰かや周囲から教えてもらうような表現としては、あまりにも抽象的で、普段の会話では用いることは滅多にないだろう。
 
 だが、雑談や「友だちとの遊び」を経ず、また僕らのようにネットにも繋がっていない彼女たちは、受け売りでもなく、そして攻撃的な毒も無い、自分の言葉をもつに至ったのだろう。
 それが、聞く者に詩的に伝わる。
 彼女たちが数多溢れる孤独な人ではなく、孤高な存在であればこそ、その言葉が詩的に機能する。
 詩人はなるものではなく、そうあるもの、ということなのだ。

“出汁が違うのだ! 出汁が!”
by海原雄山(『美味しんぼ』)

phase 参:すべてはゼーレのシナリオ通りに

 改めてメタな発言をすると、彼女たちは雑談はおろか、会話すらもしていないに等しい。彼女たちはシナリオに沿った言葉を発しているだけである。AIのように適当なレスポンスを行っているわけではなく、その作品の制限内にある。
 これは二次元愛を覚えている対象を、具象的なものからむしろ抽象的なものへと認識の度合いをチューニングする行為であり、感情の向ける相手が消失しかねない。

 だが、それはあくまでも自分が、彼女たちとは違って、作品の外にいる場合である。
 もし彼女たちの詩的な言葉に官能しているならば、己をもその住人たらしめるか、あるいは彼女を目指し、そして自己同一化を図らねばならない。
 これが、奇しくも冒頭にて示唆した綾波推しと「綾波主義者アヤナミスト」の差異なのだ。
 二次元美少女に萌えている・推しているのではなく、普遍化させているのだ。一切を綾波レイに帰する思考。能動的なフィルター・色眼鏡。

最終フェーズ:
“こんな時、綾波レイならどうするの?”

 信仰とは、他でもない、倣うことである。
 学ぶという言葉の語源が「真似る」にあるというが、実際はどうであれ、言い得て妙なのはたしかだろう。
 キリストか、もしくは仏陀か、それともツァラトゥストラなどなど、その他いかなる宗教であっても、単に愛でることが信者ではない。
 自身がその高みへと昇ろうとするのが修行であり解脱というものだと思われる。もはや二次元論ではなく、二元論の話。

“アンチA.T.フィールドか……”

 人ならざるものが、あえて人に合わせて言語を話しているからこそ、彼女たちの言葉は、福音であり、どこまでも詩的なのだ。
 ところが、彼女たちは人の心を持ってもいる。だからこそ、自動車工場のロボットアームと違い、僕らは彼女たちに同情し、かつ感動する。罪悪感こそが、感動の正体なのだから。

 純粋であり残酷でもあり、そして、いたいけな言葉の響きは、きっと天界の音に似ているに違いない。世界を詩的に表現するということは、とりもなおさずそのように彼女らが認識している訳だ。
 思考も志向も趣向もなにもかも、言葉という概念があって、それを学習し、その上で理解できる範囲だけが、僕らには認知できる。語彙が少なければそれだけ、世界を表現する手段も限られる。
 
 また一方で、語彙がこの世に溢れているからこそ、選んだ言葉が結果的に人を傷つけることも往々にしてある。バベルの塔が崩落した後、こればかりは宿痾としていつまでも人類に付きまとう。
 さればこそ、孤独と己の中で言の葉を育み、必要最低限の情報を巧みに提示すれば、ミステリアスさが詩的に作用してくれる。
 綾波レイ―――自分―――なら、こんな時どうするのか。そもそも、「○○って何」なのか。それを問い続ける姿勢が、まごころであり、詩的なのだ。

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