見出し画像

子どもが生まれて3ヶ月経った8月に、初めて気付いたこと

子どもが生まれて、3ヶ月が経った。

周りにあまり子どもがいない環境で育ったので、昔から子どもに対して苦手意識があった。

だけど、生まれてみたら、当然のように可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
笑っても泣いても怒っても可愛い。
とにかく信じられないくらい可愛い。

これまでと打って変わって、街で子どもたちを見かけると、「うちの子ももうちょっと大きくなったらあんな感じかな」などと想像し、口元を緩めてにやにやしている。
子どもの毎日の成長を楽しみにしながら、でも今の可愛さを留めておきたい!と写真と動画を撮りまくる日々。
まあ、世の多くの親と同じである。

おばあちゃんの娘

目元が私に似てるだの、鼻はパパ似だねぇーなど色々言うが、わが子は私の母にも少し似ていて、なんだかタイムスリップして自分が母を育てているような不思議な気分になるときがある。

母を育てたのは、当然うちの祖母なので、「おばあちゃんはこんな気持ちで、お母さんを育てたんかなぁ」などと面白い想像を巡らしてみたりして、はたと気が付いたことがある。

私の祖母は、満州からの引き揚げ者である。
開拓団の妻として満州に渡り、そこで娘を産んでいる。
初めはそれなりに豊かな暮らしもできたようだが、祖母は満州で敗戦を迎えた。
敗戦を知らされた時、夫はすでにシベリアに出兵していていない。
つまり、その後の運命は、夢の大地が一気に敵地ど真ん中に変わり、ソ連兵も侵攻してくる中、「命からがら」という言葉では表せないほどの壮絶な道のりを、母娘2人で日本に帰ってきた。

日本に向かう船に乗るまでに、多くの仲間が集団自決をし、自分もそうするつもりだったが止められ、中国人の家族に助けられたという。

中国人家族からは「日本に帰る方が危険だ、ここに残れ。せめて子どもだけでも置いていけ」と言われたそうだ。
祖母はその選択をせず、絶対に娘を連れて日本に帰ると決めて帰ってきた。
もしそのとき、その選択をしたら、今でいう残留夫人・残留孤児になっていただろう。

しかし結局、無事日本に帰った後、ほどなくして娘は2歳で栄養失調で亡くなってしまう。

その後、祖母は再婚し、私の母や叔父を産むのだが、94歳で亡くなるまで、ずっと亡くした娘の話や自身の引き揚げ体験を語り続けていた。

初めて気付いた祖母の根源

話は戻って。
生後3ヶ月の我が子を見ながら、祖母の気持ちを想像する。

祖母は戦後、街で子どもを見かけるたびに、きっと「あの子が生きていたら、こんな風だっただろう」と、ずっと亡くした娘のことを考え続けていたに違いないと、私は自分が子どもを産んで初めて気が付いた。

戦争を知る世代がいなくなると言われ始めて久しい。
そして、もうすぐ本当に誰もいなくなる。

とはいえ、戦争体験というのは、その後語ることができた人と、もう思い出したくもないと語ることができなかった人とがいる。
多くの人が後者である。

それなのに、どうしてうちのおばあちゃんはずっと戦争体験を語り続けていたんだろうと、私は長年不思議だった。

だけど、いま気が付いた。
祖母が、本当なら思い出したくない記憶を語り続けたのは、
紛れもなく、娘を死なせてしまったからだ。

もう二度と、あんな風に死んでしまう子がいなくなるように、
あの子の死を、あの子の命を語ることで、
その生涯をかけて、娘のことを悼み続けたのだと、私は初めて分かった。

祖母は、作家として自分の体験を文章にして出版し、あらゆる媒体で寄稿し続けた。
祖母の体験は、岩波文庫から『大陸の花嫁』として出版され、NHK「ラジオ深夜便」のラジオドラマにもなった。

祖母は、本の売り上げや原稿料は、すべて残留夫人・残留孤児のために寄付していた。

母から聞いた話だが、亡くした娘と同い年の人と知り合うと、貧乏ながらもよく食事をふるまったりしていたそうだ。

そうして、ずっとずっと亡くした娘を思い続け、祈り続け、そうすることで、祖母はその後の人生を生きたのだ。

おばあちゃん。
私にも可愛い子どもが生まれて、無事に3ヶ月まで育ったよ。

この子がここまで育ってくれたこと、あたりまえじゃない。
だけど、世界中でそれがあたりまえになってほしいと、心から願う8月15日です。

井筒紀久枝『大陸の花嫁』 
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b256336.html

あやすと笑う、3ヶ月のわが子。
健康優良児。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?