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ジ愛のオプティミズム 外伝(第四章)・サムライガールと息づく森 *単話としてもお読みいただけます

第四章・サムライガールと息づく森

 バイクの排気音以外に聞こえる音がない。対向車もない、道行く人もいない。
 深夜から走っていたから少々非常識な時間に着いてしまったかもしれない。騒音を危惧するが、カーナビ代わりに取り付けられたスマートフォンには午前10時40分と表示されていた。
 さすがにもう村人も起きている時間だろう。俺は安堵して、Vツインエンジンの小気味良い鼓動感を感じながら村の家並みを眺めた。
 坂を登り切ったところでバイクを路肩に寄せ、目的地の正確な位置を見ようと地図アプリを開く。この先で間違いない。ふと今来た道を見遣ると、遠くの太陽の下に煌めく海面を捉えた。海が近いのに、ここではもう波の音は聞こえないのだな。そう何となく思った。

 やがて着いた目的地は、いたるところに木が植えられて軽い森のようだった。木々の頭の隙間から、キラリと輝く漆黒の瓦の葺かれた屋根が見える。
 瓦は時々青っぽい灰色をしているようにも見えるし、白くキラキラと光っているようにも見えた。太陽光を反射しているのか、背後に広がる濃紺の山々か澄み渡る空の色でも映しているのか、とにかく異質であり、目を惹いた。
 瓦に釉薬というものが塗られていて、色が真っ黒なのも雪下ろしがしやすいようにするためだ、というのは後で聞いた話だ。

 俺は門のそばでバイクを停め、看板を確かめた。毛筆の字で『物玄館』と書いてある。モノクロ館と読むらしい。
 彼女との待ち合わせ場所はここで間違いないが、しかしこんな立派な旅館だとは思わなかった。
 俺が首を振ってこの旅館の全景を目に入れていると、正面の戸がカラカラと音を立てた。

 出てきたのは、細長い布袋を背負った黒いセーラー服の少女だった。
 少女は顔を上げると俺に気づいたのか、そのままピタリと立ち止まった。肩に付かないくらいの無造作な黒髪の、くせっ毛だけが余韻でゆらゆらと動く。
 俺は一瞬迷った。
 女将さんというふうには見えないが、このまま何も言わないのも相手にとって不審であろう。いや少なくともこの旅館の関係者の可能性が高い。例え間違っていても、そう勘違いするのも致し方ない。相手にとっても不自然ではないはずだ。
 そう判断して、俺は次に出す言葉を決めた。
「おはようございます。本日お世話になる荒那(あらな)と申します」
 しかし少女は俺に目を合わせることなく近づいて、そのまま通り過ぎてポツリと呟いた。

「やめた方がいい……ここには鬼が出る」

 鬼、と少女はそう言った。
「鬼、ねえ……」
 この漆黒の旅館が一転、伏魔殿の様相を呈してきたことに、宙に放り出されたような感覚が芽生える。心がウズウズする。
 唯一心苦しいのは、これからあの少女の忠告を無下にしなければいけないことだった。
「そう言われてもな……」
 彼女とは、美麗さんとはこの旅館で待ち合わせることになっているのだ。

 ふと、ヒラっと視界の端で何かが揺れるような気がした。
 建物の角あたりで、布のようなものが見えた気がしたのだ。
 くすんだ薄紫のような、白っぽいような、そんな色の着物の袖のように思った。
 色のない色、と形容するのが相応しかったから、本当にそれが見えたのかは定かではなかった。ただの気のせいかもしれなかった。

「丹色ー?道場遅れるわよー?」
 旅館から声が響き、再び戸がカラカラと開く。
「丹色ー?もう行ったのー?……あら!」
 声の主は、浴衣を着た背の低い女性であった。今度は絶対に女将さんだ!と失礼な確信をする。
 俺が流暢に挨拶をすると、
「あーはいはい!荒那……有稀さんでしたっけ?ようこそ、遠かったでしょう?」
「すみませんご無理を言って……夜までお世話になります」
「いいのよぉ!羽々木(はばき)さんのとこの頼みじゃあ断れないわよ!」
 女将はシュバッと素早く手で空を叩く。
 羽々木というのは美麗さんの苗字だ。まるで大地主かこの地域の有力者か何かのような扱いである。
「羽々木さんちには代々お世話になっていましてねえ、うちの譲羽って姓も羽々木さんから一文字貰って付けたって話で……あ、オートバイはこっちね!」
 女将がぺらぺらと上機嫌に話し続ける中、俺は『物玄館』の戸をくぐった。

 ***

 この旅館に滞在することになったきっかけは、一か月前に遡る。

「実家に帰らせていただきます」
 食卓での美麗さんの言葉を、俺は甘酢和えのきゅうりをパリパリと咀嚼して聞いた。
 昔のドラマのようなセリフだ。
「ああ、良いですね」
 どうせただ言ってみたかっただけで、何の含みがあるわけでもないだろう。本当に単に帰省するという意味で受け取った。
 彼女が焼き肉を箸で持ち、ご飯にワンバウンドする一歩手前なことからも、それは一目瞭然だった。
「まあ特に目的があるわけじゃないんだが、図らずも長い間音信不通にしていたことだしな……」
 そういえば、と俺は納得した。
 彼女はとある事情で、海の向こうへ旅に出ていた。少なくとも7年間は両親と疎遠だったことになる。
 両親の変化を確認したくもなるだろう。帰ってきた時の彼女はまさに浦島太郎状態だった。

 なべて不変な物などはなく、万物は移ろい変化するものだ。
 例えば俺たちが夕飯を食べているこの家には、『幻燈館』という劇場が併設されている。彼女が旅立つ前は元々ミニシアターだった。彼女から受け継いで今は俺が経営していたのだが、話題の作品の供給先は動画配信サービスが主流となった今、スクリーンを外してコンサートや演劇などを催す舞台施設へと転向していた。
 それにこの家だって、元は古き良き日本家屋だった。耐震強度の問題から取り壊さざるを得ず、彼女が帰ってきた時には更地になっていた。
 ちなみに彼女の了解を得て今は、スプルース材の木肌に包まれたナチュラルな明るさ溢れる北欧スタイルのログハウス風木造建築へと生まれ変わっている。ただし庭については元のままなので、テラスの先は日本庭園である。表現上は同じ「木の温もり」だが、雰囲気の毛色は全く違う。
 一見文化が混在しているカオスな景観だが、不思議とマッチしているようにも感じて俺は気に入っている。

 致し方ない部分が多かったとはいえ、俺の趣向が多分に反映されているのも事実だ。それを笑って許容してくれる彼女に、俺は、もっと関わりたいと、そういう思いが湧くのだ。
「あの、俺もご両親にご挨拶したいんですが、いいですか?」
 実はそれだけではない。この浦島太郎がまたどこかに消えないように楔を打ち込みたい、という欲目も少しはあった。全てはタイミング次第、ケセラセラ。とはいえ人事は尽くしたい。これは気持ちの問題だ。
「別にいいけど……日帰りできる距離じゃないぞ?なにせ山の中だからな」
 そう言って彼女はテーブルの下に転がせていた会社用のタブレットを拾い上げた。開館スケジュールをスライドして吟味している。
「君が行けるとしたら、この来月の四連休だな」
 彼女はタブレットを翻してトンっと指を置く。
 俺の休日は基本的に劇場の利用予約次第となっている。来月は空きが多い。夏本番とまでいかない微妙な時期なので、いわゆる閑散期なのだ。
「私は先に行ってゆっくりしているから、君は来月来たらいい」
 だいぶスパンの長い待ち合わせだった。

 諸々話し合った結果、実家に一番近い村で待っていれば夜には迎えに来てくれるということになった。
 せっかくだから集合場所は村の旅館で、と言われ彼女の口利きで予約を取ってもらった。
 旅館自体はオフシーズンで休業していたのだが、食事と温泉だけ開けさせることに成功したらしい。
「さすがにそこまでしてもらうわけには」
と遠慮したのだが、
「言っておくがその村までも当然山だ。決して日が暮れても走れるような親切な峠道ではないし、そこから先は道すらない。少しでも体力を回復しておかないと、無事にたどり着けないぞ」
 そう脅されて、結局俺は彼女のプランに乗ることにした。

 ***

 俺は『物玄館』の女将に続いて、建物を囲む回廊を進む。
 右手には庭、左手には襖で区切られたいくつもの和室が並んでいる。とはいえ襖は開け放たれているので、畳の間がひたすらに広がっているとも言える。
 突き当たりを曲がると、廊下は両側が壁に仕切られるようになった。陽の光と比べるとどうしても薄暗い。
 一部ガラス張りになっていて、凹んだ壁の向こうには展示物が置かれていた。木台に据えられた刀や壺、大皿などがこじんまりと並んでいる。ただ、一箇所だけ刀掛けが空いているようだった。
 俺は展示を眺め、かこつけるように女将にジャブを撃ってみた。
「すごいですね。由緒あるというか、歴史があるというか。何かこの地に伝わる伝承なんかも、色々とありそうですね」
 脳裏にあったのは、丹色と呼ばれていた少女の言葉だった。
「ただ古いだけですよ!面白い歴史も言い伝えも、何もないんだから!」
 女将は謙遜するようにあっけらかんとそう言う。

 ジャラッ、と何かが音を立てた。
 女将の足元に鎖が落ちている。ここはガラス壁の終わりにある扉の前だ。
 女将は鎖を拾うと、その扉を開けて中に入った。そして展示物の裏の壁がスライドして、女将がガラス越しに顔を出す。
「もう!またあの子ね!」
 女将は空の木台を見てそう言う。
 開いた扉からは女将のいる部屋の様子が見えた。葛籠や唐櫃などが置かれている。そこは倉庫というか、宝物庫のようなもののようだった。槍か薙刀のようなものも立っているのが見えて、俺はその抜き身の巨大な刃物に少しギョッとした。
「まったく!稽古で家宝を使うのはやめなさいと何度も言っているのに!あんな曰く付きの刀……」
 俺は少女が肩から布袋を掛けていたのを思い出す。
「ああ、あれは真剣だったんですか」
「もしかしてあの子に会いましたか?」
「ええ、門のところで」
「ごめんなさいね。うちの娘なんです。あの子、何か失礼なことを言わなかった?」
「いえそんなことは……それより、曰く付きなんですか?あの刀は」
 別に失礼なことは言われていない。俺は心の中で言い訳する。
 女将は先ほど何の言い伝えもないと言ったのがバツが悪かったのか、ペラペラと語り出した。
「いえね、あの刀自体はただの無銘の刀なんだけどね」
 それを導入に歩みを再開するので、俺も後に続く。
「あの刀は一回盗まれたことがあって……犯人が自殺しちゃって戻ってきたんだけど、その時に警察が調べたら、刀身から犯人以外の大量の古い血液が検出されたそうなのよ」
 女将は話に熱が入る。手慰みのように鎖を手繰っている。
「それでね!うちは昔にも強盗団が入ったって古ーい記録があるんだけど、その時も盗人同士の殺し合いが起きて、全部無事だったらしいのよ。記録上はあの刀は出てこないけど、もしかしたらその時の殺し合いに使われたのも、あの刀なんじゃないかって私は睨んでるのよ!」
 急に女将が振り向き、ビンッと鎖を両手で引っ張って顔を近づけてきた。
「だからそんな血を吸っている刀なんて不吉じゃない!?何度もそう言ったんだけど、あの子は頑として手放さないし……最近では鬼がいるだの何だの言い出して、きっとあの刀に憑かれているに違いないわ!」
 女将は一息つくと、またタシタシと歩き始める。
「だからあの子が変なこと言っても、気にしないでくださいね」
 今度は振り向かずに、そう嘯いた。

 俺が通された客室は五畳ほどのなんでもない和室だった。四角いちゃぶ台と座椅子、給湯ポットや金庫といった旅館にありふれたものが揃っている。強いて言うならば先ほど広大な畳を見てしまったがために少々窮屈さを感じるくらいだ。
 女将はお茶を入れると、食事の時間を確認した後、
「もしご興味があれば、自由に見て回っていただいていいですからね。うちは歴史だけはありますから」
 先ほどの話などなかったかのように言う。
「あ、でも奥の離れには近づかないでね。病気の人がおりますから」
 さらりとそう付け加えると襖の向こうに消えていった。
 俺はちょっと置いて廊下に出た。来た道よりさらに奥に進むと、果たして本当にその離れがあった。本館の裏手の端に当たるところに正方形の小さな建物がある。ここからでは人の気配も何も分からないな、と独白し、女将の忠告通り身を翻した。
 廊下を戻って再び展示コーナーに着く。宝物庫の扉の取手に先ほどの鎖が適当にかかっていた。大きな南京錠も取手にかかっているが、ただぶら下がっているだけだ。鍵もささっていないのでどうしようもないのだとは思うが、こんな不用心でいいのだろうか。
 ぐるりと辺りを見回すと、先程まで気づかなかったガラス張りの上半分には、賞状やなにかの認定書のようなものが掲示されている。その中に『丹色』の文字を見つけて、思わず目を遣った。それは何かの剣道大会の賞状だった。『優勝』と書いてある。脇には写真もあり、その賞状を掲げる小さな少女と、彼女の肩に手を置き満面の笑みを浮かべる初老の男性が写されている。防具の垂れが二人とも『譲羽』なので親戚か祖父かもしれないと推理した。
 やがて俺は食事の時間まで間がないのに気づき、部屋へと戻った。

 食事は懐石料理のコースだった。まだバイクで移動するかもしれないから酒は遠慮した。小さな器に盛られた前菜や煮物、魚の造りなどが順番に運ばれてくる。女将が一品一品の名前とオススメの食し方を説明する。和牛のすき焼きの後、吸い物と白米が来て、水菓子のメロンがフィナーレを飾る。
「お食事はどうでしたか?」
 食器を片付けた女将がオープンクエスチョンを投げかける。
「そうですね、あの土瓶蒸し?出汁がすごく美味しかったです。あの食べ方の作法、初めて知ったんですけど、絶対誰かの悪ふざけの産物ですよ」
 俺は表情を砕いて笑顔で吹き出しながら答えた。最後のはジョークだとわかるだろう。
 まず土瓶の注ぎ口からお猪口に出汁を注ぎ、それを味わってから中の具材をいただくのだというのが女将の説明だった。ズボラな何者かが土瓶で料理しちゃおうぜと作り出したものが作法に昇華された歴史を、俺は妄想していた。
 女将は途端に糸が解けたような柔和な雰囲気になって、
「あらーそれはよかったわ!そういえば、夜にはお発ちになるならお布団の用意はいらないのよね?温泉もありますからね?露天だけだけど!じゃあゆっくりしていってね」
と高い声で捲し立てる。
 そういえば一人で食事をする上で一々頷いたり感想を言ったりはしないから、女将からすれば俺はずっと神妙な顔だったのかもしれない。
 結構楽しんで食べてたんだけどな。自然な笑顔と、分かりやすくおおげさに表情をつけた笑顔のギャップは、俺が思うより大きいのかもと思った。

 温泉は大浴場の方には通っていないそうだ。露天の方は温泉で、時間別の男女入れ替え制と書かれているが客は俺だけだから関係ないだろう。
 露天風呂は硫化水素の匂いで溢れていた。湯気がもうもうと立ち込め、空が薄暗いのもあってあまりよく見えない。ここは山の中だから、既に日が翳ってきているようだ。
 湯気の量で察していたが、湯はかなり熱い。俺はゆっくりと爪先から熱に体を慣らしていく。ザァーと湯の流れる音がする。
 ようやく肩まで浸かりきると、ふぅ、とため息が出た。
「え?」
 驚く女性の声が聞こえた。
「え?」
 俺も驚いた。
 湯気に隠れて、立ち尽くす白い肢体が映る。
 ただただ気まずかった。
 丹色は跳ねるように走り出し、その後ろ姿は湯気の先に消えていった。
 今追いかけても、まだ二人とも服を着ていない。俺はただ大声で、
「あの!……見てないから!」
 そう言うしかなかった。
 数分待って、脱衣所に戻ってみる。急いで服を着ると、廊下との出入り口が閉まるトンという音がした。
 彼女が抗議に来たのかと覗きにいくが、脱衣所の中にも廊下の外にも、人の影一つ見えなかった。

 もう日が暮れようかという頃、俺は座椅子に首をもたれかけてスマートフォンを見つめる。美麗さんはいつ来るのだろう。連絡は来ていない。そもそも何時に着くだとか、遅れているだとかそういう連絡をあの人がするだろうか。いや、しそうにないな。
「おくつろぎのところごめんなさいね」
 襖の向こうから女将の声がする。
「お夕食なんですけど、まだ羽々木さんがいらっしゃらないようなら食べていきます?私たちと同じ物になっちゃうけど……」
 予め夕食は固辞していたのだが、
「羽々木さんのとこは昔から時間には大らかなのよ」
と、女将はこの状況を考慮していたようだった。さすがはプロだ。
 俺はこれからやってくる夜の山登りを想像して、エネルギーを充填するためお言葉に甘えた。

 夕食の座敷は、広大な畳の間を挟んで客室と反対側にあった。
 赤と黒の漆塗りの四つ足のお膳が二列に並んでいる。お膳には食器がギュッと収まっており、唐揚げ、白米、味噌汁、煮物といった家庭の献立が多めに盛られている。旅館らしからぬ様子が新鮮で面白かった。
 女将の他にも仲居がいたようで、二名ほどが俺と女将の向かいに座った。あと二膳残っている。
 少し遅れて、白いTシャツにデニム地のショートパンツ姿の丹色が現れた。左手には、光沢を帯びた黒い鞘に納まる、おそらく例の刀が携えられていた。鞘の元と鍔を紐でぐるぐる巻きに留めてある。
 彼女は俺の斜向かいの位置に、左足を引いてから刀を畳に置き、キビキビとした動作で正座する。所作が体に染み付いているようだった。
 気まずいなぁ。俺は昼間の事故をまた思い出して、ついつい彼女に意識を遣る。
 女将が、
「あんたいい加減その刀仕舞ってきなさい!お客様もいるのよ!」
 と叫ぶが、丹色は会話などするつもりはないと示すように、食事だけを見つめている。
 女将も、俺の手前もあってかそれ以上言うことはなかった。

 食事が始まると、仲居の一人が早速話しかけてきた。
「お兄さんは東京からいらっしゃったんですか?」
「東京じゃないですけど、近いですね」
 正確な地名も付け加えたが、仲居はそちらにはピンと来ていないようだった。
「丹色ちゃんも東京の大学に行くんでしょう?剣道でも優秀だし、文武両道よね」
 丹色が黙々と箸を運ぶので、仲居は女将に向き直る。
 女将は、
「剣道を始めたのは、おじいちゃんの影響よね?ほんっとーに昔からおじいちゃんっ子で、おじいちゃんもこの子を猫可愛がりしてたもんだから」
 反応しない丹色を使って、たまに彼女の方に顔を向けながら会話する。
 その後も仲居たちと女将はひたすらに話を続ける。
 俺は口にものを入れたまま話すのが嫌なので、できる限り話を回さないような回答をしていた。
「ごちそうさま」
 丹色はさっさと食べ終わったようだ。俺も食べるのは早い方だが、さすがに完全な無言相手には勝てなかった。
 すると女将が、
「丹色!そのお膳、おじいちゃんに持って行ってあげてちょうだい!」
 そう、一つ残ったお膳を指して声を飛ばした。
 丹色はそれすらも無視して、席を立った。
 仲居の一人が、
「ああ、私が行きますよ」
と言う。
 女将は目一杯弱弱しい声色になって、
「ごめんなさいねぇお願いできる?声をかけるだけじゃ聞こえないからね?ちゃんと見えるところに置いてくださいね」
「分かってますよ」
 そうして仲居の一人はいそいそとお膳を運び出して行った。
 座談会もお開きのようになったので、俺も客室に戻ろうと座敷を後にした。

 道中、日も落ちてすっかり暗くなった畳の間の奥に、電灯の光があった。その一角だけ襖が少し閉じ、隙間から丹色の後ろ姿が見える。
 正座で机に向かって黙々と手を動かしている。勉強でもしているのだろう。
 彼女には謝らなければいけないことが複数個あった。一つは昼間のこと、もう一つは今朝のことだ。俺は意を決して近づく。
「あの……すみません」
 閉じかけの襖を少し引いてそう言った。
 丹色は腰をずらして上体を傾け、肩越しに顔を半分だけ振り向いた。横目でこちらを見据える。はっきりとした右目は吸い込むように俺を捉え、俺もまたその時初めてちゃんと彼女の目を見た。その瞳は彼女の名にふさわしい、赤と見間違うほどの明るい茶色をしていた。
「……なに?」
 彼女は冷たく呟く。
「あの、色々と、ごめん。露天風呂のことと、あと、君の忠告の通りにしなかったこと。でもそれには理由があって……」
 俺の言葉を、彼女は遮る。
「忠告を無視したんだから、もう知らない」
 そう淡々と吐き捨てるように告げた。
「いや、でも……」
 ガタッ!
 少し離れたところで襖の揺れる音がした。
 彼女は膝下の刀を掴んで跳ね起き、俊敏な動きで、音のした方に構える。
 その手は震えていた。剣先、鞘の先にも震えが伝わる。
「……鬼」
 彼女はか細く呟く。
 俺は音のした方の暗闇に進み出て、少し彷徨いてみた。
 戻ってくると、彼女はまだ同じ体勢で、そこに縫い付けられていた。
「多分、何もないよ」
「違う、いるの……鬼はいるのよ」
 彼女は自らに言い聞かせるように呟く。
「あの……」
 俺に向かって、彼女はキッと顔を上げる。
「どうせあんたも!鬼なんていないって言うんでしょう!頭のおかしい女だって思ってるんでしょう!」
 彼女の叫びが鳴り響く。

「信じるよ」
 俺は真っ直ぐに彼女を見た。
 およそこの世に存在しないと思われているものを、存在しないと断じるバカバカしさを俺は身を以って学んでいる。
 往々として、あると思っていたものが実はなかったり、ないと思っていたものがあったりするものだ。
「目に見えるものだけが全てじゃないだろ?だから君がいるって言うなら、いる可能性はある。俺には特殊な能力はないけどね。信じられるくらい?当然そういう存在もいるよねって。後、驚かない。そういうのにワクワクする能力はある!」
 俺はつい顔が綻ぶ。彼女は硬直が解けたようだった。刀の先が落ち、畳に触れそうになるが、なんとかバッと刀を翻して左手に納めた。やっぱり体に染み付いてるんだな、と俺は思った。

 ***

 俺は襖に寄りかかって、息を潜めている。俺の手にはあの刀が抱えられている。
 背後の襖からは、少し開いて光が漏れている。その向こうでは、丹色が勉強を続けていた。
 俺は今、鬼を捕まえようとしている。
 俺がもういつこの旅館をあとにするかしれないと知った丹色が、今日の諸々の不祥事を許す代わりにと持ちかけてきたことだった。
 彼女曰く、
「この刀、お母さんは縁起が悪いって言うけれど、おじいちゃんは邪気を払う刀って言ってたの。もう忘れちゃってると思うけど。だから鬼も払えるんじゃないかと思って、お守りとして持ってるの」
 この刀に纏わる曰くも、きっとこの刀に魅了されて邪念を持ったから、刀がそれを戒めただけなのだと言っていた。
 鬼退治には気が向かなかったから、捕まえることになった。争いは苦手だ。だからちょっと脅かして、離れてもらうよう説得してみることにした。
 俺は隠れて、鬼が現れるのを待つ。

 今夜は風も凪いでいる。ここで聞こえるのは、彼女の筆記用具が奏でるカリカリという音だけだった。

「ねえ」
 襖の向こうから彼女の声がする。
「なんでここにいるの?」
「え、鬼を捕まえるためだけど」
「そうじゃなくてさ、何もないじゃんこの村」
「ああ、ここである人を待ってるんだよ」
「女の人?」
「まあ、うん」
「いいなぁ」
 俺はちょっと迷ったが、
「……丹色さんだって、来年から東京の大学に行くんでしょ?そしたらいろんなことがあるじゃん」
「そうだけど、ただ早く家を出たかっただけだから……」
 俺はちょっと嬉しくなった。彼女は、全てがあるのが良くて何もないのがダメ、などという二元論で語れるものが自分の本当の望みではないことを、既にどこかで感じているように思った。
 良かった、きっと彼女たちが担う未来は良い方向に向かう。なんでか子の成長を見届けた親のような気分になる。
「俺は好きだけどな、こういう田舎も」
 俺は彼女に差し水を入れようとしたのだろうか。
「ここには静寂がある、何もないがある」
「都会から来たからそう思うだけだよ」
 そう彼女は言う。
「都会にだっていざ行ってみると、あると思っていたものが実はなかったりするかもよ?逆にないと思っていたものが、形が変わっていて気づかなかっただけで、既にすぐそばにあったりもする」
 それとも俺の素直な気持ちをただ吐露しているだけだろうか。
「だから俺はどっちも愛してる。どっちもそのまま受け入れている。あるものもないものも、目に見えるものも見えないものも、都会も田舎も」
「じゃあ、何もないことを受け入れて、ここを愛さないといけないの?」
 彼女は声を荒げる。
「こんな田舎にいて嬉しいって、思わないといけないの!?」
 人の言葉だけで全てが納得できるなら、この世は聖人だらけだ。それは他ならぬ俺自身の経験でもある。
「迎合、同調、流される、空気を読むことだけが受け入れるってことじゃない。受け入れるっていうより、受け止めてる。ちゃんと受け止めて、それに向かって自分を曝け出せばいい。君が見る世界の主役は、あくまで君自身だ」
「それって、剣道の試合みたいなもの?」
 俺は笑った。
「そうだね、確かに、相手に礼をして、相手の打ち込みを見て、一本を取るのと同じかもね」
 俺は彼女に尊敬の念を持った。彼女の歳くらいの頃の俺は、もっといじけて捻くれていた。
「何よりもったいないのは、嫌だなぁってことを、攻撃したり拒絶したり、嫌な感情を向け続けたりして、自分の外に追いやってしまうことだ。だって自分の本当の気持ちや望み、好きなことは、得てしてそういう事象の裏側に隠れているものなんだ。だから嫌なことを見つめるのが嫌なままだったら、自分の望みも見つけられない。もし仮に運良く見つけられても、それが攻撃されるかも拒絶されるかも嫌われるかもと、自分がそうしたんだから他人もそうするだろうって、おおっぴらにするのが怖くなってしまう」
 攻撃や拒絶も生存のためには必要だ。だが今彼女に必要なのはこっちだろう。
「自分を曝け出すのに攻撃も拒絶も、怒りも憎しみも、必要じゃない」
「それは、剣道もそうだから、わかるよ」
 彼女は言う。
「相手に礼を欠いたら一本も取り消しになるし、なにより自分を律せない剣は、美しくない」

 不意に、彼女がハッと息を呑むのが分かった。
「……いる」
 彼女は小声で囁く。
 俺は刀を握りしめてそっと襖を開け、彼女の見据える先を確認した。
 正面の襖、そこに足音を立てないように忍び寄って、バッと勢いよく開け放った。
 何もいない。
 だがそう思って暗闇に一歩踏み出すと、思わず背筋がゾッとした。
 視界の端、開けた襖の影の足元に、少し漏れ光が何かの輪郭を象っている。
 間違いなくそこに何かの物体、何かの塊があるが、暗がりでそれが何かまではわからない。
 彼女が俺の視線の先が見える角度まで身を乗り出すと、それを受けてその物体がモゾっと動いた。
 ゆっくりと伸びてきたのは、骨ばった細い腕だった。暗闇から細い腕が二つ伸び、襖の縁に手をかけると、今度は暗闇から顔が伸びてくる。
 その顔は随分肉が落ちてはいるが、展示コーナーで見た彼女の祖父らしき容貌だった。
 やがてその老夫の体の大部分が光に当たる。くすんだ白い、色のない色の浴衣を羽織っているのが分かった。
 老夫は襖に両手をかけたまま、明るい部屋を斜めに覗き込んで彼女に語りかけた。
「なんでもないんだ、気になって、気になってな、様子を、見にきたんだよ、愛しい、儂の、儂の、子」
 緩慢に千切れた言葉を絞り出す。
「おじ……鬼……」
 彼女が声にならない声を発する。
 彼女は鬼の正体を知っていたのだろうか。知っていて、思考に封をしていたのかもしれない。
 俺は彼女を見る。彼女も俺を見る。
 彼女の視線の移動を感知したのか、老夫もまた俺の方を見た。
 老夫と目が合う。口をあんぐりと開け、欠けた歯が顔を覗かせる。その驚愕のしようは、俺の存在を今初めて認識したからだろう。
「この男!この男か!」
 先程までが信じられないほどの声量で叫ぶ。痩けた腕からは想像もできない力で、俺の両腕を掴み揺さぶってくる。
「生かしておけん!生かしておけん!」
 老夫はそう叫びながら、暗闇へと走り去っていく。
 このまま放っておくこともできない。俺は追おうとして、一瞬彼女の方を振り向く。
 放心したように見つめる彼女に、俺は手に持っているお守りのことを思い出した。
 彼女の胸に刀を預け、
「鬼を捕まえてくる」
 そう言って老夫の消えた方向へと走った。

 ***

 知らず知らずに人も光の方へと導かれるのだろう。
 俺は展示コーナーと宝物庫のある廊下に辿り着いた。
 宝物庫からガタガタと音がしている。
 開け放たれた扉から中を覗くと、暗闇から刃が飛び出してきた。
「うおっ!」
 情けない声が出た。間一髪で避ける。
 薙刀を構えた老夫が、足を大きく広げて進み出てくる。
 老夫は体を縦にして、俺を上目に睨みつける。
「カアアアア!」
 老夫の喝とともに、薙刀の先がブレて消えた。
 この家での情報をまとめると、老夫はどうやら武術の達人だ。
 これは死んだかな、とだけ思った。
 死の間際に思うことは、俺の場合は己の死の実況のようだった。

 ドンッと後ろから何かに押され、俺は体勢を崩す。
 白い何かが俺の脇を潜り抜けた。
 俺の前に躍り出たのは、丹色だった。
 パンッと破裂音がする。
 丹色は薙刀を刀で受け、衝撃で鞘が弾け飛んだのだ。
 俺はその刀の刀身を初めて見た。
 かつて人殺しの道具となった、曰く付きの刀。
 綺麗だな。そう思った。
 人斬り包丁だ、綺麗と思ってはいけない、などと誰かは言うだろうか。
 そんなこと、どうでもいいではないか。綺麗なものは綺麗だった。

「イヤアアアアアア!」
 丹色が鬨の声を上げた。
 あらゆる呪縛を振り解くかのように。それは恐怖か、血縁がもたらす執着か。
 老夫はたじろぎ、薙刀の刃が浮く。
「と、鴾子、鴾子」
 老夫が口にする。
「鴾子はお母さん、私は丹色だよ」
 そう呟くと丹色は刃の下に潜り込み、ダンッと踏み込み大きく跳躍する。
 体を伸ばして片足を高く上げ、足の平で薙刀の柄を蹴って、そのまま絡めて踏みつけた。
 急激に力の加わった薙刀に腕が負け、老夫は膝をついた。
 丹色は着地の勢いを殺し、刀をピタリと老夫の首元で止めた。

 はあはあ、と丹色の息切れの声がする。
 老夫は少し呆気に取られていたが、焦点が定まるとまた、
「違うんだ、儂は、ただ気になって、し、心配で」
 そんなことを言いながら丹色に迫る。
 老夫の首筋からプツと血が滲んで、丹色は戸惑うように半歩すり足を引く。
「……丹色さん」
 俺は声をかける。差し水でもあり、素直な気持ちでもあった。
「ありがとう、君が助けてくれなければ死んでた」
 丹色は刀を落として、そして、老夫の胸に顔を埋めた。

「おじいちゃん……おじいちゃんが育ててくれたから、私は遠い街を見に行けるよ。おじいちゃんとの思い出も持って、いろんな経験をしにいくよ」

「今まで育ててくれてありがとう」

 感謝の言葉は、老夫にとってだけは、別れの言葉だった。
 老夫は体の芯を抜かれたようにふにゃりと崩れ落ちる。

 あると思っていたものが実はなかったり、ないと思っていたものがあったりする。
 アナタは既に愛されていたようだよ。ねぇ、ご老人。
 アナタの望んだ形じゃないかもしれないが。
 俺は声の届かぬ言葉を送った。

 ドタドタドタッと足音がして、騒音を聞きつけた女将と仲居が集まってきた。
 彼女たちはこの現場を見て驚愕の声を上げ、互いの吸気音で重大なことが起きたようだと拍車を掛け合う。
「丹色!お前、おじいちゃんをいじめたの!?」
 女将が叫ぶ。
 仲居の一人は俺に向かって、
「あんた丹色ちゃんに何したの!」
と詰め寄り、もう一人は、
「違うわ!おじいさんがこの人に何かしようとしたのを丹色ちゃんが守ったのよ!」
と、それぞれが悪者のパターンを持ち出して叫びあっている。
「あのですね……」
 俺が口を開くと、
「これは身内の問題ですから!お客様は口を挟まないでいてください!」
 丹色と老夫の内乱派である女将が、感情に身を任せた迫力でキッと睨みつけてきた。
 怖いよう……俺は心の中で呟いた。さっきまでは丸く収まりそうだったのに、どうしたらいいだろう。

「ほう、では私どもも口を挟まないほうがいいかな?」
 聞き馴染んだ声がして振り向くと、そこにいたのは俺に待ちぼうけを食らわせた犯人の美麗さんだった。
 亜麻色の髪を手で靡かせてしたり顔をしている。
 いつもは黒のワンピースだが、今日はライトグレーのオーバーサイズのパーカー姿であり新鮮だった。
「あ、菖蒲、さん」
 老夫が締まらない顎でそう言う。
「はいはい!菖蒲は私ねー」
 そう声がして、彼女と似た女性がひょこっと顔を出した。
 印象が違うところと言えば、髪が巻かれているところだ。
「やあ、遅くなったな有稀くん。とりあえず君は早く荷造りをしたまえ」
 そう言って美麗さんは俺を輪から引き離そうとする。
「あ、ちょっと待ってください」
 俺は財布に数枚入れていた名刺を取り出して、丹色に渡した。
「良かったら、たまに遊びに来なよ。多分大学からそんなに遠くないと思うし」
 それと、と俺は戯けて言った。
「うちはいっつもバイト募集中!」
 欲もまた、曝け出せる己の本心だ。
 丹色はニッと微笑んだ。初めて見た彼女の笑顔だった。
 女将と仲居はまだギャアギャアと言っていたが、
「はいはい!私が代わりに聞かせてもらってもいいですかー?」
 菖蒲さんが間に入ったことで、羽々木さんが言うなら、と少し軟化したようだった。

 美麗さんに腕を引かれ、俺は『物玄館』を後にする。
「古い土地では、まだこういう権力が利く」
 美麗さんはそう耳打ちする。
「それにしても君は随分と楽しそうだったな?親しい友人でもできたのかな?ん?まあ、詳しくは聞かないが!」
 掴んだままの俺の腕を、にぎにぎと揉んでくる。
「いや、後で全部話すよ」
 俺がそう言うと、
「……ふん、そうか」
と、夜空を仰いだ。
「強いて一言で言うとすれば……」
 俺は続けた。
「一番の発見は、笑顔を見せると人は安心するということかな?」
 美麗さんは、
「人の心を理解しだしたロボットかお前は」
と呆れていた。

 バイクを出していると、菖蒲さんが戻ってきた。
「母よ、話は済んだのか?」
「うん!瞬間的に正気を取り戻したおじいさんの丹色ちゃんへの免許皆伝の試合だったという方向性に持って行っといたわ!」
 そんなマンガのような展開で納得させるのだから、権力とは面白いものだ。
 いや、納得したかったのは他ならぬあの人たち自身なのか。
「しかし母よ、なんでわざわざ着いてくるかな」
「あれ?さっきからどうしたの美麗ちゃん、いつも通りママでいいのよ?」
 美麗さんの食いしばった喉の奥からは、ぐぅという音が聞こえた。

 ***

 俺は美麗さんと菖蒲さんの車に、バイクで続いた。
 着いたところは村から少し離れた海の、ささやかな防波堤だった。道の終わりに車を止め、彼女たちが出てくる。
 ここからは山登りか。俺はそう思って、念の為持ってきたキャンプ道具入りのリュックを背負う。
「おい、そんなに持っていけるか!これに入る着替えだけにしとけ」
 美麗さんにA4サイズのドライバッグを放り渡された。
「あまりパンパンに入れるなよ」
 よく見ると、彼女も菖蒲さんもウェットスーツのようなラッシュガードと、下はスカート姿になっている。
 彼女たちは防波堤を飛び越え、浜辺に向かう。
 夜の空には満月が煌々と輝いていた。
 彼女たちが波打ち際に立つと、パキパキと音を立ててスカートの下から鱗が生える。そして瞬く間に、下半身から先が俺の身長を超えるほどの魚の尾へと変身していた。

 彼女たちは人魚である。
 満月の夜、水に浸かるとこの姿になる。
「実家って山奥じゃなかったんですか?」
 俺の疑問符に、彼女はスマートフォンを取り出して答えた。よく見るとそれも防水ビニールに入っている。
「いいか?実家の位置がここ、この横に川が流れているだろう?ここから遡上すれば最短ルートだ!いやあ川の水かさが足りて良かったよ」
 だからこの日で、待ち合わせは夜だったのか、とピースが嵌った。
「何してる?その着ている服も脱ぐんだよ」
 そう言われて正気を疑う。
「着衣で海に入るとか正気か?君は私に捕まっていくんだから、余計な水の抵抗を減らさないと日が暮れる、もとい日が上るぞ」
 せめてパンツだけは!と死守しようとしたが、
「いいけど、絶対に途中で脱げるぞ。無駄に着替えを一枚失うだけだな」

 俺は夜の浜辺で全裸になった。
 なけなしの抵抗でドライバッグを腰上で握る。
 彼女は浜辺で楽しそうにしているが、こちらはそれどころではない。
「ほら、君にはまだ見せたことがなかったよな!」
 彼女は蛇のように尻尾をうねらせると、波打ち際を上体を起こしたまま前に進んだ。人が歩くよりも速度があった。
「太古のご先祖はこうやって陸地を移動していたのであろうな」
 やがて、俺は彼女の腰あたりに背負われるように手を回した。こうして彼女にしがみつくのは、彼女が旅に出た日の夜以来だった。
「さ、行ってみよー!」
 彼女はやけにテンションが高かった。
 俺は肌が鱗に触れるのに意識が持っていかれていたが、すぐにそんなことを考えられなくなった。
 人魚の遊泳速度は尋常ではなかった。俺は振り落とされないように必死だった。それに息継ぎもだ。顔を出していると首が持っていかれそうになるので、結局空気の交換ができるのは一瞬だけだった。
 酸素も足りず、腕に力を入れ続けなければならない。脳が余分な思考を止め、羞恥心すらも止め、ただ一つのことにのみ集中する。それが少し心地よかった。普段思考に覆い隠されている自分の剥き出しの心に触れた気がした。これだけでいいのだ、と彼女にしがみつき続けられる自分を称賛した。

 俺たちは川のほとりに上陸した。
 今日一日で二度死にかけた。
 川のほとりには木のボートが二隻係留してある。背の高い草が鬱蒼と茂っており、少し先は全て森である。木と木の間がどこなのかすら分からぬ漆黒だった。
「母よ、そういえばあの旅館には鬼がいただろう?あれは」
「あれはおじいさんじゃ……?」
 俺が口を挟むと、
「鬼とは死霊、つまり死した人間の霊魂のことだよ。君に見えるものじゃない」
 そう訂正される。
「そう、死霊は人の負のエネルギーに惹かれるの。そして負のエネルギーそれ自体もまた人は鬼というわね」
 菖蒲さんが付け足す。
「あの場所は彼らにとって居心地が良かった。でもきっともう大丈夫でしょう。あの刀が整えてくれたのかな?正確にはあの子が」
「じゃああの刀が邪気を払う力があるっていうのは本当だったんですかね?」
 俺の疑問に、菖蒲さんは困った顔をする。
「うーん、でもああいうのはどこにでもいるから払うことなんてできないわ。ただ住み分けましょうとするだけ……鬼たちがどこにでも存在するということを、ありのまま受け入れてね」
「どこにでも、ですか?俺たちの身の回りにも?」
「いるわよ?もちろんこの森にも。でもそういうのも含めて自然だから」
 俺は顔を上げて森を見渡す。
 漆黒の背景に、ときおりチカチカと光が瞬く。蛍だ。点いてはすぐ消えるその光は、まるで息継ぎの間だけ輝いているようだった。
 もっと消えない光は、空の上にあった。どの空にも浮かぶ満月は、星々とともに俺たちに光を注いでいる。

 森を少し行くと、開けたところに出た。
 広場には転々と家が五軒ほど見える。
「あれ?全部実家ですか?」
 かつて彼女に見せてもらった映像と違うので疑問に思っていると、
「いや実は、この8年の間に父が同じ趣向の仲間を集めてな。ほら、この辺一体はうちの土地だから」
 やはり大地主だったんじゃないかと訝しむ。『幻燈館』の資金が潤沢で改装費用に困らなかったのも関係があるかもしれない。
「ちなみに父は家にいるからな?祖母と曽祖母はヨット旅に出てるからいないが。遭難しても一ヶ月以内には絶対に助かるのが良いらしい」
 それを聞いて、急に鼓動が早くなった。先ほどまでの水の中の方がまだ楽だったと思うくらい、呼吸が苦しい。
「後でどうせこの山の仲間たちにも紹介することになるだろうな。父は冒険クラブと呼んでいるが」
「どんな人たちなんですか?」
「難しいな……目に見えるのが三世帯、見えないのが二世帯、祈れば出てくるのが一世帯だ」
 彼女はうーんと悩んで、そう言った。
 俺は少し呼吸が楽になった。
「あ、そうそう、君は体が乾いてから、服を着てから来なさい。流石にそのままは君の沽券にかかわる」
 確かに俺はまだ全裸だった。だけど、彼女だって今はノーパンのくせに、とも思った。

 俺は広場に一人取り残され、体を乾かす。
 これから彼女の父に会う。
 正直体は怖がっているが、冒険クラブというのが同じ趣向の集まりなら、俺は間違いなく彼女の父の同好の士だ。
 突っぱねられると怖れるよりは、この未知の出会いを楽しみにしてみよう。
 俺は剥き出しの体でそう表明する。
 山の生命は、そんな俺の気持ちを、受け止めてくれたように感じた。




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