ジ愛のオプティミズム 第三章・セイレン=アセンション *最後ラクガキされていました
第三章・セイレン=アセンション
社員旅行は、会社の経費で賄われる。
それは節税効果があるということだが、会社の業績が良くないと、節税しようという発想にはならない。
つまり当期の我が社は業績がいいのだが、それが分かるのはほぼ業績の見込みが確定する期末決算直前である。
従って、社員旅行の開催を間近に控えた今は、期末決算直前の繁忙期でもあるのだ。
俺は大量のタスクと、主に上司から飛んでくる罵詈雑言ノイズに囲まれつつ、とある行動を開始した。
上層部と同僚たちに、上司の態度によって引き起こされた職場環境の悪化と将来の危険性、そしてその同意を得るための陳情を行う。
だが、俺の淡い予想を裏切り、この現状の改善に意欲的な人はいなかった。
「彼に問題があるとは耳に入っているが、会社として、じゃあ急に異動させましょうとはいかないことは分かってくれ」
「今は給料がいいので我慢しますよ。さすがにいつかは辞めようと思いますけどね」
彼らの立場に立ってみれば、その言葉は本心であることは分かった。
さすがに現状に何も思うところがないわけではないのが分かり、それは幸いであった。
しかし、では俺は、彼らの腰が上がるのを信じて待つしかないのであろうか。
そんな中で、例の社員旅行は開催された。
件の陳情の話題を旅行中にすることは避けたかった。
どうせ逃れることのできない旅行ならば、楽しめるだけでも楽しみたい。
それに、全社員がひしめく中でそんなやり取りをすれば、聞き耳を立てられても不思議ではないからだ。
しかし結局、その心配は要らなかった。
旅行では、部署を跨いだ交流という名目で、専用の班での行動となった。俺の上司の素行は他部署でも知られているらしく、班員からは同情の言葉が投げかけられた。
ただ、現状維持バイアスによるものか対岸の火事程度の認識なのか、「ああいうのも稀にいるよね」というくらいの言葉で、その話題は終わった。
当の上司はというと、なんとも上機嫌で、彼のさらに上司たちと談笑をしていた。
それは、これまで見たこともない姿であった。
あんなやつでも笑うことがあるのかと、衝撃を受けた。なぜその態度を部下たちに向けることができないのか。
人の持つ悪性に耽溺し、心の光を持たず、闇で周囲を支配する存在。人の心の光を目指したい俺にとって、逃れるべき存在。そう認識していた上司の人間像は、その衝撃によって脆くも破壊された。
彼の上機嫌な姿は、思った以上に俺を困惑させた。彼という人間の本質を捉えられていなかったこともそうだし、俺の中でいつの間にか彼を悪性の権化のようにジャッジしてしまっていたことにもだ。少なくともそれについては訂正しなくてはなるまい。
俺は、ここにきて自分の原動力が分からなくなってしまった。
俺は一人で過剰反応して、身勝手に彼を敵視していただけなのだろうか?
しかしだからと言って、全てを諦めてこの現状に甘んじることは、どうしてもできなかった。
それは、もはやトラウマとも呼べる過去の出来事、社会的地位が上の方の意見が全て正しいのだと突きつけられたように感じたあの時と同じような意地。
そしてなにより、心の闇を自覚しつつも自分を信じて光を為そうと決めたあの夜の俺と彼女の秘密を無意味なものにしたくないという思いからであった。
繁忙期が終わるとともに、上司から俺へ呼び出しがかかった。
ついに来たか!と思った。
思った通り、どこからか俺の陳情が本人に漏れたらしかった。人の口に戸は立てられない。いつかその時はやってくると思っていたし、それが俺のタイムリミットだと設定していた。
俺は自分が辞めることを前提に、せめて残る同僚たちのためにと、上司へ態度の改善を促してみた。
当然、その甲斐はなく上司は反発する。「俺が間違っているというのか」、「規律統制」、「部署の引き締め」、「不正防止」、「ストレス耐性」、怒声とともに、いくつかのキーワードが彼の口から飛び出した。
それは怪我の功名であった。それらのキーワードが、俺を新たな仮説に導いた。
どうやら彼は、ただ生まれ持った性質のためだけに人を攻撃しているわけではないようだった。
彼は彼なりの見方や信念のようなものがあって、それに従っている節がある。
彼はきっと、人というものは放っておくとズルをし、不正をすると思っているのだ。人を信じることができない、それが彼なのではないか。
性悪説に基づく管理社会的、恐怖政治的な統制方法は、組織を運営する手法の一つとしてあり得るだろう。
そうなるとこの問題の本質は、光と闇の対立だとか、罵詈雑言が許されるかなどというところにはない。
そもそも信じるものが違う、価値観が全く違うのだ。
どちらにせよこの場所にはもういられないということが、身に沁みて分かった。
俺はその場で退職願を提出した。
決して、清々しい気分ではなかった。
一連の騒動のため、俺が再び『幻燈館』を訪れるまで、少し間が空いた。
今日来ることは事前にメールしておいたのだが、廊下に明かりはなく、劇場への扉を開けても中は薄暗かった。しかし日の光の差さない地下なのに辺りの様子が微かに分かるので、不思議に思い目線を正して見回すと、その原因が目に入った。
舞台の中央に置かれた大きめのテーブル、そこに青いスポットライトがうっすらと当たり、彼女はそのテーブルの上にうつ伏せに横たわっていた。
髪は無造作に扇状に広がって顔を半分ほど隠し、片足は曲がり、片腕などはテーブルからだらりと垂れ下がっている。
にわかに、ぬっと彼女の体が揺れる。体をこちらに向けて寝返り、肘を大袈裟に立てて、顔にかかっていた長髪を持ち上げる。俺の姿を覗き見るための、芝居がかった仕草らしかった。
「よぉ、来たな」
彼女は気の抜けた声で呟く。
その光景はまるで、仄暗い静かな海底にたゆたう、深き海の女王のようであった。
やはり人魚の血を引いてるからそういう雰囲気が落ち着くんですかね、などとデリカシーのない感想を喉の奥に飲み込む。
「お久しぶりです、美麗さん。なんか……元気ないですか?」
「そんな日もある」
「そうですか」
「いや……」
ようやくちゃんと喋ろうとしたのか、彼女は手を付いて体を起こした。
「ついこの間まで期末決算だったんだよ。うちも一応法人だからな。作業自体はまだしも、取引先やら税理士やら色々と外部の人間との対応も多くて、さすがに疲れた……」
なるほど、そういえばこの建物は小規模ながらきちんと営業している映画館だ。
その社長ともなれば、それなりの忙しさにはなるだろう。
それになんとなく感じていたことだが、この人は意外と内向的というか、人見知りなのだ。
だっていくつか作品を作っていたのに、それを誰にも見せることなく大して人と関わらずにいたようなのだから、そう思っても偏見とは言い切れないだろう。
であれば、この疲弊具合にも頷けるというものだ。
「それは……お疲れ様でした」
俺はそう言って、手に持っていた紙袋を舞台端に置いた。
「これ、お土産です」
と付け加える。
彼女は俯いたままこちらにゆらりと近づき、紙袋の中身を覗いて確認する。
逆光に加えて、重力のままに垂れ下がる長髪がカーテンを作り、彼女の表情は分からなかった。
やがて彼女は、ふーん、と言って、
「それで?随分と長い旅行だったな?」
と、ようやく顔を、ただし挑戦的な表情を俺に向けた。
「いえ、まあ、色々ありまして」
俺は言葉を濁した。
詳細なことは、彼女とは関係のないことだからと、なんとなく言いたくなかった。
「そういえば、やっぱり結局辞めることにしましたよ、会社」
「ああ、それはメールで聞いたな」
「でも転職活動とか、まだやってなくて」
「それも聞いたな」
「それで、一回断っておいて何なんですけど、映画館の人手がまだ足りなかったら、次が見つかるまでバイトさせてもらったり、なんて……」
「ふーん、バイト、ね」
言葉のトゲつき方で、彼女がご立腹である部分が明確になった。
「いや、あまり居心地のいいところに甘え続けるのも良くないかなー、なんて……」
実際のところ、勿論彼女の申し出はとても嬉しかったし、居心地よく働けるだろうという予感もあった。だが、俺はこれをやりたかったのだという、運命的な感覚はなかった。もしそんな仕事に出会ったら、俺はきっと冒険したくなる。その時に、彼女をがっかりさせたくなかった。
彼女はなんとなく感情を咀嚼するように逡巡し、
「まあいい」
と言い捨てた。
「で?それを話すためだけに来たのか?」
「ああ、ええ、まあ、あとお土産を渡しに……」
俺は迷って、再び言葉を濁した。
退職願を出した今となっても、俺の中にはわだかまりがあった。といっても他人は関係ない、俺自身に対するわだかまりだ。
俺は仕事仲間たちと、互いの意見を受け入れ合える、信じ合える関係を望んでいた。
だが事実だけを見れば、人を信じることができなかったのは俺も同じである。俺には会社の人たちの言葉を信じて待つことも、上司のまだ見ぬ心の光を信じて、目の前の闇を受け入れることもしなかった。
結局は同じ穴の狢ではないのか?この自己矛盾のために俺は自分の行動を誇ることができなかった。
「安心しなさい」
彼女の声が聞こえた。
顔を上げると、彼女の膝の上にはいつの間にか丸っこいぬいぐるみが乗っている。
それは、俺が渡したお土産、社員旅行で行った水族館で洒落で買ってきた、スナメリのぬいぐるみだった。
スナメリはジュゴン、マナティ、シロイルカなどと並んで人魚のモデルとされる海獣である。
彼女は瞳を閉じて、それを優しく撫でながらこう言った。
「いいから、話してごらん」
肩の力が抜けた。体の中が熱くなる。この感覚を味わうのは、この場所で二度目だった。
俺は、ただ自分の情けなさを隠して格好をつけたいだけだったのかもしれない。
俺は全部を、正直に話した。
彼女はその間、黙ってぬいぐるみを撫で続けていた。
「自分を信じるだけなら、まだ簡単でした。人を信じるのって、難しいですね」
俺の話が終わると、彼女は目を開けてすっと背筋を伸ばし、
「いいじゃないか」
と、そのスナメリを俺に投げてよこした。
「君は、釈迦のとある逸話を知っているか?」
俺はキャッチしたぬいぐるみをなんとなく撫でながら、唐突に飛び出してきた仏教の開祖にまつわる彼女の説法を聞いた。
「世に数多ある教え、その中の何を信じればいいのか。そんな問いに対して釈迦は、教えをただ盲目的に信じるより、まず自ら経験し確かめることが重要だと説いたのだ」
彼女はスイッチが入ったのか、どんどん早口になる。
「まあなにせ?何かを信じたとして、裏切られたら困るのは信じた当人だからな!信じるとはある種の自己責任みたいなものだ。だから信じるよりまず確かめて、その上で自分で判断しろ、ということなのだろうな」
彼女はフッと、息を整えて俺の目を見た。
「君は確かめた結果、離れるという選択をした。それは彼らの価値観を否定することなく、尊重したからに他ならないだろう。つまり君は彼らの価値観を受け入れたことになる……と、私は思うな」
と、締め括った。
俺の脳内に先ほどまであったはずのくだらない理論たちが、薄く消しゴムをかけたかのようにぼやけている。
それがなんだったか思い出そうとしても、白いモヤのようなものが思考という行為そのものを邪魔した。
代わりに俺は今一度、腕の中のぬいぐるみを優しく撫でた。
それは自分自身に対する愛撫でもあった。
「そういえば、うちで働くのはいいが、すぐでなくとも構わないか?例えば来月からとか」
舞台から降りた彼女は、両腕を広げて縁に肘をかけてもたれかかる。
「はい、大丈夫ですよ。まだ少しだけ引き継ぎと、有休消化もありますし」
「そうか!よかった、実はちょっと帰省する予定なんだ。仕事始めから私がいないのでは、何かと不都合だしな」
来月まではあと三週間ほどある。随分長めの帰省らしい。
「そういえば、美麗さんの実家って山奥なんでしたっけ。結構遠いんですか?」
俺は以前得た情報をもとに、なんとなしに話を振る。
「……君は、釈迦がどこで生まれたか知っているか?」
なぜかまた、いきなり仏教クイズを出された。
「ええと確か、今のネパールのあたりだったような……」
おぼろげな記憶から、なんとか答えを絞り出す。しかしなぜそんなことを今聞くのだろう。このクイズの意味を問おうとして、俺の脳裏に電流が走った。
「え……まさか美麗さんの実家って海外!?」
彼女はニタァと口角を凄まじく上げて、
「冗談だよ」
と言った。
「本当ですか?」
彼女には化かされ続けてきているので、少し食い下がってみた。
「そんなに私の実家が気になるならぁ、連れて行ってやってもいいがぁ?」
彼女はわざとらしく間延びした、ちょっと甘えたようにも聞こえる声で、
「しかしそうだなぁ……君はパスポートは持っているのか?」
そのいたずらっぽい声色で、どうやら本当に冗談なのだと悟った。
この女……というわずかな悔しさを拳の内に留め、
「いや、さすがに家族の中にお邪魔するわけには。まだ引き継ぎも残ってますしね」
と、受け流す言葉を返した。
本当に、いくらこうして彼女にからかわれたとしても、ここは居心地が良かった。
***
月が替わり、俺は予定通り『幻燈館』で働き始めた。
あくまで次の仕事が見つかるまでということで、希望通りアルバイト扱いであった。
当然仕事も他のアルバイトの人に教えてもらうものだと思っていたが、しかしそこは予想通りではなかった。
『幻燈館』での俺の最初の仕事は、映画館の収支計算、出納管理、それと給与計算であった。
横に座った彼女にあれこれと言われながら、PCとにらめっこする。
アルバイトの一覧の中に確かに自分の名前があるので、アルバイトであることは間違いない。
だが、何かがおかしかった。
他の従業員たちも何かを察したかのように、今までオーナーである彼女にしていたであろう業務連絡や、設備の改善要望などを伝えてくる。
この悪い予感が現実になったのは、ある日彼女に連れ出され、目的地が銀行と法務局だった時だ。
「転職するにしても、それまで社長をやってましたの方が、なにかとウケがいいぞ」
と彼女に言われ、実感もないまま代表取締役にされてしまった。
それからしばらくは、取引先と営業相手の訪問ラッシュに追われた。
意外と内向的な彼女は来客関係をつっけんどんにしていたようで、そこに社長の変更という絶好の口実と、その社長が話の通じそうな若造だとくれば、これ幸いとばかりに押し寄せる彼らの心境も想像に難くなく、あまり邪険にすることもできなかった。
ただ少し気になったのは、彼らの内の何人かが、俺を「旦那様」と呼称していたことだった。だが同席していた彼女が何も言わないので、俺も何も言わなかった。
彼女は毎回挨拶が済むと、
「では後のことは、彼に任せるので」
と俺の頭に手を置き、早々に退席してしまった。
俺は、彼女は主にこの面倒事を押し付けるつもりで、俺の社長就任を画策したのだと察した。
彼女はスケジュールに融通の利くいくつかの仕事を手元に戻し、たまにふらっとやってきては俺の仕事を手伝ってくれるが、それ以外の時間は地下に引きこもるようになった。
話を聞くと、どうやら新作を製作中のようであった。集中したい時に他のことにかかずらいたくはない気持ちも分かる。
そういうことなら、と俺は晴れて名実ともに、というか身心ともに、社長として業務に勤しむことにした。
***
数ヶ月後、久しぶりに彼女から劇場へ呼ばれた。
彼女の新作がついに完成したとのことであった。
劇場に入るとまだ蛍光灯が点いていて、彼女はそれぞれの手に照明の灯体を下げて脚立の半ばほどに直立していた。
「ちょっと待っていてくれ」
彼女はそのまま、階段でも上がるかのように抜群のバランス感覚で脚立を登る。
俺はその様子を眺めながら、客席の玉座に座った。
彼女は天井に張り巡らされたパイプに灯体を固定しながら、再び話しかける。
「そういえば朝一で、なにか君と面識のありそうな客が来ていてな。なんか色々と書類を置いて行ったのが、そこにあるぞ」
足元の床に分厚い封筒がいくつかあり、拾い上げて中身を見ると映画の上映機材のカタログだった。そろそろ減価償却が終わるので、一応見ておこうと思って依頼したのだった。
「旦那様にお渡しください、だと」
彼女はこちらを向いてそう言う。
「まあ、美麗さん若く見えますからね。歳の近そうな見た目の男女がいれば、礼儀も込みでそう言っておこうというのも分かりますよ。実際は、結構離れてますけど」
俺は従業員のデータを見て、彼女の年齢を知っていた。現在、彼女は満30歳だった。俺とは大体6歳差になる。
「失礼な!私はまだ、人間に換算すると君と同い歳だぞ!まだぴちぴちのお姉さんだぞ!」
彼女はクワッと牙を剥いた。
「いや、全然そう見えないくらい若く見えるってことですよ」
とりつく島もなく、彼女は無言で作業に戻る。
少しの間カチャカチャという作業音だけが場内に響いた。
たとえ褒めているつもりであれど、女性には年齢の話自体が失礼らしい。
彼女は脚立を降りてから、ようやく口を開いた。
「この見た目は、多分人魚の血のせいだ」
「そうなんですか?」
「言ったろ?人より長生きだと。私の家系は人より歳をとるのが遅いんだ。傾向から言うと人間の1.2から1.3倍ほどになるな」
俺と同い歳と言い切るのには少し疑問が残ったが、あまり触れないことにした。
「私の母などすごいぞ。もう50を越えていたはずだが、まだ私と大して相貌が変わらん。まるで姉妹のようだ。今度実物を見せてやろう」
「見せてやろうって……」
寿命だけなら今の時代ちょっとしたご長寿さんで済みそうだが、見た目も大きく影響するとなると面倒なことも多かったろうと推測する。
「そもそも時というのは変化の一形態であって、時の経過はエントロピーが増した状態に過ぎん。つまり私は君より少し複雑に変化しているだけだ。それを人が寿命や体力の減少などから逆算して老いなどと名付けているに過ぎないのだ!」
彼女が次第に早口になって持論を展開するので、俺は恐る恐る聞いた。
「あの、まだ怒ってますか?」
「怒ってない!実際にそういう説があるから説明しているだけだ!いちいちうるさいな君は!」
余計なことを言った、と思った。
「はい、すみません」
俺が言えるのはこれだけだった。
「さてと」
彼女は蛍光灯を消し、舞台照明の灯りを見上げながらそう呟いた。
そろそろ始まるかも、と俺はカタログを床に戻そうとする。しかし床でカタログと干渉する存在があり、そこで思い出した。
最初カタログの上に文鎮のように、蓋が”く”の字に開いたままの小さな箱が置いてあったのだった。
「あの、この箱も俺宛……じゃないですよね?」
俺が拾い上げたその箱は、四つ足が付いていて、表面は白を基調として全体に込み入った装飾が施されている。内側は起毛素材でできており、蓋の内側には鏡が付いている。これと似たものは子どもの頃のドラマや、俺の祖母も持っているのを見たことがあった。宝石やアクセサリーなどを入れる、たしか宝石箱とか言われていた。
「お!そんなところにあったのか。それがないと始まらん」
彼女はそう言って舞台をこちらに歩いてくるので、俺も舞台へとそれを持っていく。
持っていく時、なんとなく蓋を閉めようとしたが、壊れているのか蓋は動かなかった。
「ああそれ、閉まらないんだ。そのままでいいから」
と、彼女は言う。
「これ、どうするんですか?」
「どうって、上演で使うんだよ。実写にコンストレインするもの、あー、つまり生身の私の動作に追従させるもの、小道具や服などだな。それは処理が面倒だから実物がある方がいいんだ」
「へー」
小道具だから壊れていてもいいのか、と得心する。
彼女は箱を受け取り、
「そ、ちょうどいいから帰省した時に持ってきたんだ」
と言葉を添えた。
なるほど、おそらく彼女の祖母あたりが所持していたものを持ってきたのだろうと思った。
「こういうの宝石箱って言うんでしたっけ?俺の祖母の家にもありましたよ。やっぱりそれくらいの年代の女性は結構持ってるんですね」
しかしそれに対する彼女の言葉は、予想から外れたものだった。
「いやこれは……山のジジイの遺品なんだよ」
神妙な面持ちでそう言うので、ちょっと厳かな気持ちになる。遺品、という言葉が持つ効果もあったのだと思う。
彼女が山のジジイと呼ぶ人……彼女の作品の出どころ。
「そのおじいさんって、一体どんな人だったんですか?」
彼女は目を細め、十本の指の腹で箱の表面を滑るように撫でる。何かを懐かしむような、その箱の先にある追憶に意識を遣るようであった。
「そうだな、やつは自分を仙人だと名乗っていた……単にそう言う生活をしたいだけの世捨て人か、ナチュラリストの類だったのかもしれないが」
以前彼女が仙人を自称していたことを思い出した。それがその山の翁の影響だったと判明する。
「やつは自分のことも妙に他人事というか、達観しているような雰囲気があった。だから、あるいは学者なのかとも思ったな。両親の仕事柄、自然や生態の研究家には会ったことがあったし、学者には意外と多いんだ、そういう感じのやつ」
彼女がちょっとおどけて言うので、俺もちょっと笑顔になる。
彼女はやれやれといった感じで面を上げ、
「とにかくまあ、なんとも不思議なやつだったよ」
と言って、再び箱に視線を落とした。
「この箱はそんな山のジジイが唯一大切にしていたものだ」
俺は彼女の話を聞き、
「ひょっとして、元々そのおじいさんの奥さんの持ち物だったんじゃないですか?ほら、宝石類とかって女性の方がたくさん持ってそうですし」
と持論を展開してみたが、彼女は、
「結婚していたかは知らんが、そうかもな」
と、気のない感じで答えた。
そして、ちょっと大袈裟に両肩をすくめて、
「いや、実は私は箱の中を見たことがなかったから、そもそも中身が宝石だったかも分からないんだ。やつも宝石箱じゃなくて玉手箱と呼んでいたし……」
と、さらりと述べた。
俺はというと、宝石箱よりもさらに懐かしい単語が出てきたことに意識を持っていかれた。
「玉手箱って、浦島太郎に出てくる?」
「ああ、なんかそうらしいな。そんなに有名なのか?浦島太郎っていうのは日本の童話だよな?」
日本で当たり前のように童話に触れてきた俺からすれば、今の彼女のセリフはどこを切り取ってもありえなくて、開いた口が塞がらなかった。
「浦島太郎、知らないんですか?」
これがカルチャーショックを味わうということか。この人は実は本当にネパールあたりの生まれなのではないかと訝しむ。
「その反応……昔、山のジジイにも同じことを言われたよ」
彼女は懐かしさなのか、自分の常識を分かち合えない寂寥感なのか、どちらとも取れるような遠い目になった。
「仲良かったんですね」
「そうだな、私にとって幼少期唯一の友人だった。一体どこに消えたのやら」
最後の彼女の呟きに、俺は違和感を持った。
「え、亡くなったんじゃないんですか?」
「それは……」
言い淀んで、彼女は踵を返す。
「それは実際に見てもらった方が早いだろう」
舞台の中央に立ち、再びこちらを向いた。
「そう、実は私はこのために帰省していたのだ。実際に撮影したのだから再現性は完璧だぞ」
彼女は右手を胸の前に添え、左手を外に軽く開く。
「これから君に見せるのは、私の生い立ち……」
そして右足を引いて、綺麗にお辞儀をした。
「さあ……とくとご覧あれ!」
その言葉を合図に、照明が暗転した。
***
ちょっと間をおいて、照明がフェードインする。
舞台の上に、小さな女の子がいる。小さい頃の彼女だった。
彼女の両親は環境調査や保護を行うNPOの職員とのことだった。
山奥にぽつんと建った家で暮らしていた。周りは見渡す限り、森と山であった。
そこに住むのは、仕事に都合がいいからと父が言うが、母は人魚の血を引く自分たちが人目を忍ぶためだと言った。
彼女の母は髪がウェーブがかっていること以外は、彼女とよく似ていた。
山を駆け、岩場を軽快にぴょんぴょんと飛び回る、小さい頃の彼女。
周りの広大な山々は、彼女の庭だった。木や、小鳥や、虫たちに話しかける彼女。
それらのセリフは、舞台の隅にいる大人の彼女があてている。
ちょっと舌足らずな子ども口調で喋る彼女を見てつい、かわいいなと思った。
俺の目が舞台の隅に向けられていることに気づいた彼女は、目線で作品の方を見ろと訴えてくる。
小さい頃の彼女が森の中を歩いていると、山の翁と思われる人物が、苔むした倒木に腰を据えていた。
本当に仙人のようだった。薄汚れた灰色の布を纏い、髪も髭も真っ白だった。
彼女は何度も彼の元を訪れ、火を囲み、木の実を食べながら話をしている。
彼の傍には常に、例の玉手箱があった。まだ蓋は閉じている。実物は舞台の隅にあるので、あれは3D映像だろう。
彼女が箱に触ろうとすると、彼は静かだがはっきりとした口調で嗜めた。
突然、BGMが流れ出す。照明が少し暗くなる。
場面は霧が立ち込める森の中であった。その森を、彼女はお構いなしに進む。
やがて、苔むした倒木が霧の中に見える。
だがそこに山の翁の姿はなく、彼の纏っていた灰色の布と、蓋の開いた玉手箱だけが転がっている。
彼女はその箱を拾い上げる。そして霧が晴れると、彼女は大人の姿になっていた。
いつの間にか舞台の隅にいたはずの彼女が入れ替わっていた。舞台の隅では代わりに小さい頃の彼女が口を動かしている。ただ、セリフは大人の方から聞こえた。
やがて場面は家の中になった。そっと箱を置く彼女。そして彼女が再び立ち上がり顔を上げると、周囲の映像は消え、照明に当たる彼女だけが残った。
BGMがだんだん大きくなり、照明が暗転した。
やがてBGMがフェードアウトする頃、パッと照明が灯る。
「さて、どうだった?」
彼女は聞く。
俺は、作品の感想を言うより先に訊ねる。
「その玉手箱、本物だったんじゃないですか?」
俺の頭の中はその興味でいっぱいだった。
玉手箱を開けて消えた、山の翁。
童話では、玉手箱を開けると老人になる。では老人が玉手箱を開けると?
亡骸が朽ちて跡形もなくなったと考えても、おかしくはないだろう。
人魚がいたのだから玉手箱があっても不思議ではない。
「なるほど、童話の浦島太郎は、深海の竜宮城で乙姫と結婚したが、里帰りの際に贈り物の玉手箱を開けしまい老人になったのか」
彼女はスマートフォンで浦島太郎を調べているようだ。
「つまり玉手箱の中には人を老化させるガスが入っていたということだな!」
童話では確かにその通りだが、その言い方はなんだか身も蓋もない。
確か元になった日本の伝承があったはずだ。俺もスマートフォンを取り出して検索を始める。
「でも浦島伝説って日本各地にあって、竜宮城から戻ってきたらもう老人だったパターンとか、別に老いたりはせず普通にその時代で生きていったみたいなパターンもありますね」
俺はスマートフォンを再びなぞる。
「あ、例えば丹後国風土記の浦島伝説では、玉手箱を開けるとかぐわしいものが天に飛んでいったらしいですね。竜宮城に戻ってくる気なら開けないでと言われていたから、もう乙姫に会えないと後悔して悲しんだと」
「かぐわしいもの?老化ガスはいい匂いだったということか?」
彼女の解釈に、少し笑った。
「いや、”かぐわしい”というのは良い香りという意味の他にも、美しいとか、神聖だったり高貴な人とか物とかを表す時にも使ってたイメージがありますね」
彼女はピンとこないといった様子で首を傾げる。
「古典では神仙思想って言って、竜宮城のような非現実的な空間は桃源郷、つまり神聖なものとして扱われるんです。だからそうですね、玉手箱には竜宮城の神聖な雰囲気が入っていた、とかどうですか?」
俺は、過去や名所の空気を缶詰にして売るという商品をどことなく思い浮かべる。
「ロマンチックな意見だが、なんでそれで竜宮城に戻れなくなるんだ。なんだか整合性に欠けるな」
俺はぐうの音も出なかった。
だが昔の日本人が”かぐわしい”と表現したものは、本当に重要で神聖なもののはずだという謎の確信だけはあった。
「それはまあ……そういう決まりだったから、とか?」
「そんなよく分からん決まりに流されて悲しんでる暇があれば、なんとしてでも戻る手段を探せよ太郎!」
浦島太郎に叱咤し始めた彼女を見て、俺は真面目にスマートフォンを見るのはやめて居住まいを直した。
「そもそもなんで開けたんだよ太郎!」
「まあ思わず開けちゃったということは、無意識ではもう戻りたくなかったのかもしれませんね。非現実的な空間が実は怖かったとか、逆に何年もいて飽きちゃったとか」
「そんな不思議で面白そうなところ、なんて勿体ない!」
彼女にとって未知の空間は面白そうなところのようだ。さすが人魚なだけあって許容量が大きいと感心する。
「ものは試しだ。何か入れてみるか」
「え?本気ですか?」
考察で満足しそうだった俺には、出てこない発想だった。
彼女は髪を手櫛で梳かして自らの髪の毛を取る。
「人の老いに関係し、神聖視されうるもの。例えば髪、爪、あとは血か……」
そう言って一度舞台袖に走り、ソーイングセットを持ってきた。
確かにそれら体の一部は古来、霊的なエネルギーが宿るとされ、呪術などでもよく使われるイメージがある。
彼女はハサミで爪の端を少し切る。
次に針を持ち、指先に当てがって、しかしそのままの状態でぷるぷると手を震わせている。
ためらっているようだった。
「あの、まずは血以外で試してもいいんじゃないですか?」
俺は助け船を出す。
「そ、そうだな」
彼女はそう言って髪と爪を箱の中に入れようとした。
「……なにか聞こえないか?」
彼女は手を止め、そう言った。
「え?いや……」
耳を澄ませるが、俺には何も聞こえない。
「こう、何かが響き合うような、ハウリング音のような……」
「ちょっと!怖いこと言わないでくださいよ!」
俺は情けない声を出す。
「いや、間違いなく聞こえる!何だ?これは……歌?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は箱を引っ手繰った。
思えば人魚の体の一部など、いかにも竜宮城に関係ありそうなもので試すのは危険だった。
なにやら幻聴も聞こえ始めたようだし、本当に何か起こるなら俺が実験台になろうと思った。
「俺がやります!」
そう言って俺は自分の髪の毛を箱の中に入れる。
なにも起こらない。
しかし今のままだと、偶然何かが入ったのと同じだ。検証が済んだとは言えない。
中途半端にすると彼女が自分で試してしまいそうだったので、俺が最後までやることにした。
蓋を押してみるが、やはりどこかで固着しているのか閉まる気配はない。
そうしていると、彼女が箱に被さる俺の手の上から、両手を重ねてきた。
彼女はにっこりと口角を上げて見せ、
「よし、いくぞ!」
と言うと、体重をかけて勢いよく蓋を押し付けた。
バキッっという音を立てて、蓋が閉まる。
人の形見をあえて破壊するとは思わなかった。
その驚きに、思わずそのまま固まる。
その瞬間から、俺は二人いた。
正確には、眼下に箱を蓋ごと押さえたままのもう一人の自分が見える。
俺自身に浮力が生じ、天に昇っているのだと気づいた。
なんてこった……これは人を幽体離脱させる箱だったのか、とも思ったが、どうやらそれだけではないようだった。
眼下の自分の姿に重なるように、スーツ姿の自分が現れて、クロスフェードのようにやがて置き換わる。
なぜか横に元上司の姿も見える。例の、俺が退職を決めた時の場面なのだと気づいた。
確かに俺が体験した場面のはずだが、そのスーツ姿の自分がなんだか見慣れなくて可笑しかった。
まるで突然映画のワンシーンを見せられているかのような、どこか他人事の感覚であった。
スーツ姿の自分が机から乗り出し、言葉を発する。
「みんななかよく!」
こんなセリフを、こんな感情的な大声で叫んだ記憶はなかった。
しかし不思議とその姿に違和感はなかった。
それも当然である。このスーツ姿の青年は、傷つきやすい性格で、他者に受け入れられたいと昔から思っていた。そんな性格だから、逆に他者のことも本気で傷つけたくはないし、否定したくないと考え始める。そんな人間は職場でもどこでも、他者と調和する関係を望むのは当然のことだったのだ。
これは愛すべき性質だな、かわいいやつじゃないか、と俺は浮遊しながら頬を綻ばせた。
スマートフォンの通知音が鳴る。受信したメッセージは、俺が辞めた会社の他部署にいる同期からだった。でも俺はその内容に見覚えがあった。それは、一ヶ月ほど前に既に来たはずのものだった。
『久しぶり!もう転職したんだっけ?こっちはやばいことになってるぞ(笑)
お前の部署、もう何人か辞めてる(笑)
お前の言ってたあのクソ上司も終わりだろうな
もうちょっと待っていれば、お前も辞めないで済んだかもしれん
惜しかったな……ま、今度飲もうぜ!』
俺はこれに返信をしていなかった。
このメッセージを見て思ったことといえば、結局人には人ごとの適切なタイミングがあるということだけだった。
あの時の結果は、ただあの時に俺がそういうタイミングだったからに過ぎない。
全てはタイミングだ。だから俺は、今ここにいる。
だからもはや、何も言えなかった。俺はスマートフォンの画面を消した。
机の反対側に座る元上司に視線が移る。
人を攻撃することに頓着しない上司とは、その攻撃が届く範囲にはいられない。
けれども、彼もまたこの世界で頑張って生きていたんだな、と思うと、何もあんなに敵視することもなかったのかなと思う。
これは距離が離れ、俺と彼の世界がもはや交わることがないからこその気持ちだろう。
眼下の青年はやがて再び、周りの風景とともに姿を変えた。
空は薄暗く、周囲は見渡す限り山のようだった。その中で一際高い山の山頂に、防寒具を着込んだ彼はいた。
ちょっと待っていると、辺りの夜が瞬く間に日の出に照らされる。
そして向こうの山の裏から段違いのルーメン数の太陽の輝きが姿を現す。
彼はその光景に感動して、目を見開いていた。
これはまるで、あの夜風に吹かれながら、闇を内に抱えつつも光を目指すことを決めた自分自身のようだと思った。
日の出の光に心を奪われたのは、それが闇の中に差すからだ。
夜がなければ、俺は日の出に感動しただろうか。
また景色が移り変わると、今度の彼は海岸の岸壁にいた。彼の服装はどこか垢抜けなかった。腰が据わっていないような、なよなよした立ち姿で海を見ていた。
宝石のように光を乱反射して揺蕩う水面が、ある時まとめて自ずと傾き、白い飛沫が不可思議な曲線を描いて消える。そんな波の現れては消えを、ずっと見ていた。
人は何かと何かの間で生じる現象、何かとの差に名前をつける。
風は寒い大気と暖かい大気の間に生じた現象だし、波は平らな水面の一部が平らでなくなった瞬間のことだ。
そんな実体のない現象たちを、人はあると思って名前をつける。
そしてそんな何かと何かとの差を一つの流れの中で感じる時、人の心は動く。
だからその差は、本来反発し合うものなどではない。
けれども、それをあたかも二項対立だと思い込んでしまうこともある。
例えば、これは光と闇の対立だなどと。
しかしその思い込みへの執着さえ捨てることができれば……
この世界は、心動かされる現象たちでこんなにも溢れていたのだ。
「ねぇ、春はどこにあるの?」
小さな少年が、こちらを振り返ってそう聞いた。
春を説明することはできるが、どこと言われると……どこにあるのだろう。
俺は頭の中で春のある場所を探した。
雪の降り積もる山の麓が、目の前に現れる。
チョロチョロと小川が流れ出し、たまにドサッと雪が落ちる音がする。
やがて青草が姿を現し、小鳥がさえずる。
虫たちが飛び、周りの木々たちが紅葉を始める。
ここには秋もあったんだ、と気づいた。
春はどこにあるかと聞かれたら、雪景色の中の小川の、雪解け水を運ぶところを指差すだろう。
秋はどこにあるかと聞かれたら、木々の葉が、緑から赤へと色づき始めたところを指差すだろう。
例えそれが別の季節でも、春は、秋は、時がくれば確かにそこに来るのだと、同じところを指を差すだろう。
今は見えないだけ、時がくれば見える。
人の胸の辺りにあるであろう、愛、善性、優しさ、そういう光と呼べるものも同じだ。
ないと言って焦ることはない、見えた時に手を伸ばせばいいだけだ。全てはタイミングなのだ。
この世界は目に見えないもので溢れていて、全てがある。そしてタイミング次第では、全てがないとも言える。
あらゆるものは、既にそこにあるとも言えるし、どこにもないとも言える。そしてその全てに固執することはなく、しかし万物に調和する。
悟りの境地に達し、解脱して涅槃に至った覚者の見た景色とは、あるいはこのようなものなのだろうか。
俺は悟りを体験しているのか、という考えに至った。
「…………した……おい!」
辺りで何か人の声のようなものが木霊している。
「おい!有稀!!」
耳のそばで、俺の名前を呼ぶ彼女の声が、鮮明に響いた。
ハッと我に返った俺は、彼女にめちゃくちゃに肩を揺さぶられていた。
「あ、美麗さん……」
目をしばたたかせて答える。電灯の光がやけに目に痛い。
うっすらと目を開けると、彼女は目に皺を集め、焦ったような、見たことのない険しい顔をしていた。
机の上の箱はひっくり返り、蓋は俺の足元まで飛ばされている。
先ほどまでの意識が広がったような感覚は消えていた。もちろん辺りに俺以外の俺の姿は見えない。
「よかった……一体どうしたんだ?」
彼女は掠れた声で聞いてくる。
「いやそれが……」
幽体離脱する箱かと思ったら、悟りを開く箱だった。
そんな荒唐無稽な説明がどこまで信じてもらえるか分からなかったが、思い出せるだけを全部彼女に話した。
先ほどまでのその記憶は、起きて少し経った後の夢のようにおぼろげだった。
よもやこの箱の持ち主であった山の翁も、同じような景色を見ていたのだろうか。
気持ちは晴れやかだが、体は妙に疲れていた。
明日起きられるかなと思い、スマートフォンを開く。
箱の蓋を閉める前に見たのは21時くらいだったが、現在は0時を越えていた。
「え、俺二時間以上も起きなかったんですか?」
俺が意識の中を旅している間、彼女は二時間以上俺を揺り続けていたのだとしたら、申し訳なかった。
「いや、一応起きては、いたぞ」
彼女は歯切れ悪く答える。
「俺はどうなっていたんですか?」
「あー、まあ、なんだ、ちょっと自由奔放な方が、かわいいという見方もできるぞ」
またあいつだ。俺の肉体の意思に違いない、と確信した。
「すみません……」
あいつがどういう様子だったのかはいまいち要領を得なかったが、それは彼女の歯切れの悪さに甘えた。
「私こそ、君にはすまないことをしたな」
今度は彼女が珍しく殊勝な態度を取るので驚いた。
「え?何がです?」
どれについての謝罪なのか分からなかった。
「君は、人を気にする性格だろう。それを初対面の人の波に放り込んでしまった」
俺は気にしていなかったので、そんなに畏まられるとなんだかやり辛かった。
「いやあそれを言ったら、美麗さんの方がかなりの人見知りですよね。内弁慶というかなんというか」
と、話を逸らす。
「い、いいんだよ、私はもう。コミュニケーションという不安からは脱却したのだ」
「俺とのコミュニケーションは、脱却されたくないんですが」
俺の言葉の後、少し間があって、
「……当然だろう」
と彼女は小さく口を開いた。
俺はなぜかもう、人と対峙しても前ほど不安を感じなかった。だから、それは伝えておこうと思った。
「まあ、確かに俺は人を気にしますが、でも実際にはその人自体はただそこに存在しているだけですし。気になることをされているわけじゃなくって、ただその人らしい行動をしているだけ……ですよね?」
彼女と出会った時、同じようなことを言われたなと思い出し、彼女を真似て人差し指を立ててみる。
「それに人を気にする分、その人と真摯に向き合えますからね。取引先と良好な関係が築けて御の字って感じです」
これが、俺が肉体の意思と向き合ってから辿り着いた、自分の中の不安、心の闇を光に置き換える方法であった。
「そうか……強いな君は」
彼女は微笑んで言った。
俺は彼女とこうしていて、今とても地に足がついたような安心感があった。
そう自覚したことで、先ほどの経験に今更ながら薄寒い不安感を持った。先ほどまでの世界には、全てによるべがなかったような気がした。
悟ったような気はすっかり抜けていた。
***
それから数日後の夜、俺は再び彼女に呼ばれた。
その場所は、あの巨大な舟石を望む縁側であった。
「やあ。悪いな、せっかくの休館日なのに」
彼女は縁側に座って、俺を待っていた。
人魚のように、足を体の横でそろえて折り曲げている。
雲ひとつない夜空に高く昇る満月が、木の間から見えた。
「いえ、それより大丈夫なんですか?体の方は」
今日は満月なのに……と言う前に、彼女は空を見上げる。
「ああ、でも今日がいいと思ったんだ」
彼女は縁側の床をさすりながらそう言った。
そして、腰をひねって立ち上がると、裸足のまま庭に降り立った。
最近は夏も終わり夜は涼しいので、地面が冷たくはないだろうかと気に掛かった。
彼女はコンクリートの壁に歩みを進め、その表面に手を置いてさすった。
そして次に、庭の端にある木々へと歩み寄り、そのひとつひとつにハグをして回った。
それが終わると、庭の中央にある舟石に、両手を広げて体を密着させる。
ちょっとして体を起こした彼女は、俺の方へと向かってきた。
しかし途中で彼女はクルッと向きを変え、縁側に上がると、そのまま奥の畳の部屋へと引っ込んだ。
次に出てきた彼女は、何かが包まれたねじれた紙と、例の玉手箱を持っていた。
俺は彼女が何をしようとしているか察した。
「本当にやるんですか!?」
俺は思わず声を荒げる。
彼女は静かに目を落とした。少し微笑んでいるようにも見えた。
「あの日以来、ずっと聞こえるんだ、あの時の歌が……だから多分この箱は、私に関係があるんだと思う」
「だったら余計、何が起きるか分かんないですよ!」
あの時体をよぎった、よるべない感覚が蘇る。
急に風が吹き荒れ、木々がザワザワと騒ぐ。
それが俺の不安を更に増幅させた。
「俺は怖いです」
彼女は再び縁側から降りてきて、舟石の上に玉手箱を置いた。
「怖い……そう、恐怖だ。恐怖は私にもある。多分私が怖れていたのは、何よりも君と……いや……」
彼女は言葉を詰まらせ、目をそらした。
「だからこそ、君に見届けてもらうことに意味があるんだ」
そう言うと、その開いた口に、紙の包みを入れる。既に玉手箱の蓋を片手に構えている。
「ありがとう、君のおかげで私は考えが変わった。恐怖は刺激だ!私は恐怖を乗り越える!」
そう叫んだ彼女は、玉手箱の蓋を閉じた。
突如、光が差す。月が急に何倍にもなったのかと思った。
俺は空を見上げ、その光景に目を疑った。
空の一部がそこだけ溶けたかのように、眩しげな光を発する風穴が浮かび上がっていた。
その風穴の内側はゆらゆらと揺らめいている。
ザザーン、ザザーンという音が断続的に聞こえたことで、そのゆらめきは海の波なのだと気づいた。
その眩しい海に、小さいいくつかの黒いシミができる。そのシミたちがだんだんと大きくなり、とある輪郭を持っていることに気づいた。
人の上半身と、腰より下は長くて一本、そして尾びれ。それは多くの人魚のシルエットであった。
何かの残響音のような高い音が、ワーンワーンと不規則に響いていた。人魚たちが響かせているこの音は、音階などないが、その不規則さは何かを伝えようとしているようにも感じる。
これが彼女の聞いていた歌か……
俺は彼女の顔を見た。
彼女は目を見開いていたが、その口角が上がっているのが、しっかりと見えた。
その表情に、俺は少し背筋を震わす。
「”汝はレムリアへ帰るか”」
彼女は抑揚の希薄な声で、そう言った。
「え?」
俺は聞き返す。
「”汝はレムリアへ帰るか”……そう言っている。私には、なぜだかこの歌がわかる!」
彼女は笑顔で語る。
「この歌はいくつもの情報や前提のようなものを含んでいて、全部は説明できないんだが……だが、そう言っているんだ」
すると今度は彼女から、ワーンワーンという不規則な音が発せられる。
俺はギョッとした。
また歌が返ってくる。
「”それは入れたものを切り離す箱”……待て、いいか?文脈のつながるところだけを翻訳するぞ」
彼女は活き活きとしていた。
「”我らがかつて招いた者たちには、彼らのあまねき因縁をその箱に封じて贈った”……そうか、エントロピーだよ!因縁が生まれればエントロピーが増す。逆に因縁がなければ変化は起きない、老いることもない!」
そこで俺は、彼女の顔が俺のより高い位置にあることに気づいた。
足元を見ると、彼女は地面から浮いていた。
「”肉体を切り離せば、その肉体は解き放たれ、本来持っていた浮力を取り戻す”……だから、君の肉体と意識が切り離されたのも、そういうことなんだよ!」
彼女は自分が浮いていることに驚くこともなく、翻訳を続ける。
「”汝の肉体はレムリアへと導かれる”」
彼女の足が光沢を持って青白く変色する。足の間がくっ付き、ぱきぱきと鱗が生える。
彼女はその様子を感心するように見ていた。
「”その肉体は我らの種族であり、我らの種族は遠い昔、既にこちらへ導かれていたからだ”」
再び彼女は抑揚のない声で、そう口にした。
そこで俺は、彼女の、人魚のルーツを知った。
それは童話の枠組みや理屈などでは捉えきれない、文字通り別次元の真相であった。
彼女は既に俺の頭より高く上昇していた。
彼女は収まるべきところに収まったのだ、と俺は思った。
この次元の風穴の向こう側が彼女のあるべきところであり、ただあるべきところに戻っていくだけだ。
そして同時に、自分のルーツを知ってしまった彼女にとっても、こちら側は既に心から安息できる場所ではないだろう。
であれば、彼女を笑って送り出してあげることが、せめてもの……
——離れたくない!
今までの思考に割り込むように、子どもの声が聞こえる。
それを聞いて思った。俺は馬鹿だな……また肉体の意思に気付かされるとは……
”べき”とか、”だろう”とか、そんなの誰が決めたんだ!
俺が頭上を見上げると、彼女は浮かない表情でこちらを見ていた。
俺は彼女の位置を確認すると、舟石に向けて勢いよく走り出した。
そして、それを踏み台にして、あらん限りの力で彼女の元へと跳躍した。
まるで上昇気流に乗ったかのように、俺の体は軽やかに、上へ上へと押し出される。
そして彼女の腰のあたりに両手を広げて飛びついた。たなびくスカートの内側に突っ込んだので、鱗で腕が滑る。
彼女は、尻尾をくねらせて俺の重心を支え、上半身をかがめて俺の背中を頭ごと力強く包んだ。
俺が落ちないようにバランスを取り終わるまで、お互いにそのままでいた。
そして、俺の体の強張りも落ち着いてきた頃、彼女はようやく言葉を発した。
「すまない、私は行きたい」
彼女の声は震えていた。
「だって、こんなにもわけのわからない未知が、私を待っている!」
それはもはや喚き散らすかのようで、呂律も怪しかった。
「私はあの未知の世界に行きたい、冒険したい、まだ見ぬ真理に出会いたい!」
その言葉を聞き終わる頃、俺にはもう、四肢と皮膚の感覚がなかった。
——行ってほしくない!
再び子どもの声が聞こえる。
先ほどの決意を忘れたわけじゃない。
だが、俺にはこの肉体の意思の声を発することはできなかった。
それは俺だって、彼女に行ってほしくはない。
しかしそれでは、俺は彼女の意志を……
——尊重したい!
これは、誰の声だろう?子どもの声じゃなかった。
俺と、肉体の意思、そのどちらでもない。
三人目がいるのか?いや、言うなればこれは、精神でもあり、肉体でもある。
これは……愛の声だ。
「いつか、帰ってきてほしい…また会いたい!」
俺はその声を発した。
体にドッと血流が回り、鱗の感触も、四肢の力も戻る。
俺は全身全霊の力で、彼女の強く抱きしめた。
「全く、お前は愛すべき大馬鹿者だな。行かないでくれでもいいだろうに……ありがとう。約束しよう、必ず帰ってくる!」
彼女もまた、俺の背中を強く圧迫する。
そして尻尾で、俺の太ももと腰のあたりをギチギチと締めつけてくる。
ほとんど痛みはなかった。
やがて俺が力を抜くと、彼女も緩め、尻尾を下に垂らしてくれた。
俺の体はその尻尾を滑るように地上に降り立つ。
彼女は爽快な笑顔でこちらに手を振りながら、別次元の海へと導かれていく。
彼女はそこで「あっ」という顔をして、
「そうだ!いいことを思いついた!私と君で、全てを伝えよう!神秘も幻想も未知も真理も!この世に生き、悩む人に!だから……待っていてくれ!」
そう言って、光と共に空の中に消えていった。
***
三ヶ月後、俺はようやく職場に復帰した。
あの夜は歩いて帰れたのだが、翌日起きあがろうとすると激痛が走った。
病院での検査の結果、太もも付近の広範囲が内出血しており、大腿骨にはヒビが入っていた。
俺はそれが、とても嬉しかった。痛みが完全に消えてしまったのが、とても寂しい。
彼女はまだ帰ってきていない。
だが不思議と寂しくはなかった。
彼女が必ず帰ってくると言ったあの時……俺と彼女の心は確かに繋がっていた。
だからもしかしたら今この瞬間も、俺と彼女の心は繋がり続けているかもしれなかった。
もし仮に、俺の生涯のうちに彼女が帰ってこなかったとしても、それはタイミングが盛大にずれただけだ。全てはタイミングだ。
だから俺は当然のように、彼女はいつか帰ってくると信じられる。
どんなに距離や時間が離れていても、理に適っていなくても、端から見れば歪で、不条理で、支離滅裂としていて、カオスの様相を呈していたとしても……
全てを超越して心さえ繋がっていれば、それだけでいい。これを、愛とか調和とか言うのかもしれない。
入院中、何かを始めたかった俺は、3D映像技術の勉強を始めた。
これは彼女の後追いでもあるし、せっかく設備があるのだから活用したいという思いからでもあった。
これが俺の本当にやりたいことなのか、肉体の意思は何も言わない。
ただ、それでもよかった。
俺の今の行動が、気持ちが、未来にどういう結末を迎えようが関係ない。
だって、世界はただ在るように存在しているだけだ。
自分もまた、ただ有るだけ。ここにいるだけで素晴らしい、稀有な存在。
そんな世界で、そんな自分は、何をするのか、何をやりたいのか……
進んでいけば、いずれ見つかるだろう。それは、自分が知っているから……
正解などない、どこにもよるべはないからこそ、自分がなにを望むかだけが、唯一の指針。
もしも疲れたら、帰ってくればいい。
何が心地いいか、それも自分は知っているから……
自分を抱擁してくれる存在が確かに有ることを、俺はもう知っている。
***
彼女が旅立ってから、今日でちょうど7年になります。
彼女はまだ帰ってきていません。
最近よく夢を見ます。彼女が出てくる夢です。
そうすると、ああ、彼女と過ごした日々はそういえばこういう雰囲気だったな、と思い出します。
思い出すということは、今はもう忘れている感覚ということです。
決して諦めたわけではありませんが、それでも俺の心の奥では、彼女との再会は少しずつ幻想になりつつあるようです。
俺はこの7年間、それなりに楽しく過ごしてきました。
いろんなものを作ったり書いたりしていると、自分でも予期せぬ未知の結果が生まれることがあります。
俺にはそれが、面白くて仕方がないのです。
だから今こうやって彼女との思い出を書いているのも、実は俺の楽しみのためです。
俺は今、むしろ楽しみなのです。
幻想が現実になる瞬間が。
そして、未知の世界から帰ってきた彼女は、彼方で何を見て、何を知って、何を俺に教えてくれるのでしょうか?
俺にはそれが、楽しみで仕方がありません。
ほう、なんだか面白そうなことをしているじゃないか。
あっちではほんの数日だったのに、もう7年も経っていたのか。
この宇宙の全てを知った者は戻ってこない?
魂の安息地を見つけた者はそこで幸せに暮らす?
あいつはそんなことを思っていたのか。
人は進化していくものだ。
恐怖を乗り越えた先にそれがあると、教えてくれたのはあいつ自身のくせに。
だからこそ!世の常、人の業があるのなら!私はあえて、それを逸脱するのだ!
だから私は帰ってきたんだ!
これは私の新たな冒険だ!
それにしても、あいつは何か、私に教えてほしいのか?最後にそんなことを書いていたな?
では教えてやるか、そうだな人魚の肉の味でm¥¥¥¥¥
おい、この変な形のキーボードの消すキーが分からん。
おい違うぞ!そういう意味じゃないからな!
第四章へつづく
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