ジ愛のオプティミズム 第一章・異様な救済
第一章・異様な救済
波の音が聞こえる。
修学旅行で泊まったホテルは海のそばだった。
空が白み始めた頃、俺はホテルの敷地から少し出たところの岸壁にいた。すぐ下にはビーチと、その向こうに水平線が見えた。
起床時間まででもいいから、少しでも一人になる時間が欲しいだけだった。同室のクラスメイトたちにとっても、扱いに困る俺のいない時間を少しでも満喫して欲しかった。
彼らはまだ寝ていたから、それをありがたがることはないのだが。
不意に眼下で、バシャッという音と共に、海面に消えようとしている尾びれが見えた。
そこは一般向けに解放されているビーチで、あんな大きさの海洋生物が見えたのが不思議だった。
後で調べても、そのビーチでそんな目撃情報はなかった。
あれは見間違いか、それとも巨大なクジラか何かがとても遠くで跳ねたのを、近くで跳ねたと錯覚した不思議のアリス症候群のようなものだったのだろうか。
でも俺にはこの出来事が、どこかで俺の知らない神秘的な世界が広がっているはずという夢の支えとなっていた。
***
俺は川に架かる橋を渡っている。休日にまで電車に乗りたくはないので、向かう先は近所だ。
ここは『幻燈館』という映画館で、少し古いが最新の映画もやっている。
都会か田舎か分からない微妙な町に住んでいる俺のような者には便利なところだ。
俺は今回見る映画をとても楽しみにしていたので、かなり気分が高揚しながら映画館に入った。
次に目が覚めたとき、俺はここが何処だか判断するのに時間を要した。目の前は暗闇だった。
脳の活動が再開してまもなく、俺は全てを悟り、急いで身体を起こした。
なんてこった、寝てしまった!
照明は全て消され、当然の事ながら客はもう一人もいない。
従業員とかが起こしてくれないのか?……などと悠長なことを考えながら、席を立ち出口を探した。
非常口の誘導灯の明かりを頼りに通路に出て、壁伝いに当てずっぽうで進んだ。
「こっちだ」
肩が跳ねた。どこからか突然、女性と思われる声が聞こえてきたのだ。しかし、どんなに目を凝らしても人影は認められなかった。
やがて両開きの扉に突き当たった。隙間からかすかに明かりが漏れている。
しかしそこには、『関係者以外立入禁止』の看板が置かれている。これは流石に進んでいいものかと思案する俺に、またあの女性の声が聞こえた。
「早くしろ!面倒くさい」
心なしか先程より乱暴な口調になったその声を合図に、俺の身体は扉へと押し出される。背中に突風を受けたようだった。そんなことはありえない。ここは建物の中だ。
だが俺は、結局、その勢いのままに扉を開いてしまった。
足を踏み入れたそこは、無人の劇場だった。
映像スクリーンではなくステージがある。
客席に階段や段差はあるが、座席は設置されていない。代わりに、辺りには舞台のセットと思われるいくつかの真っ黒な立方体、木製の脚立。また、剣や旗といったプロップが散らばっている。
壁面に据えられた船の舵輪のような回転ハンドルが、カラカラとひたすら空回りしている。
照明は一つの灯体から光が落ちているのみであり、ステージと客席の間の微妙な位置が狙われている。
薄暗い上に視界が明瞭でない。おそらくフォグマシンが動いているのだろう、かすかに油が混じったような甘い匂いもする。
座席がないとは言ったが真ん中に一台だけ、玉座を思わせる豪華な椅子が、唯一の特等席とでもいうような風体で鎮座している。
俺は身体の疲れが表面に出てきたのか途端にだるくなり、つい、その玉座に深く腰掛けた。
甘い匂いが強くなった。どこからかピアノのBGMが聞こえる。
不思議とここは居心地が良かった。
肩がガクンと落ち、深く息を吐いた。
深呼吸をする。身体が脱力を思い出したようだった。
いつのまにかオルゴール調に変わっていたBGMが、ぴたりと止んだ。
背後から、グルルルルッという唸り声が聞こえる。
振り向くと、なんと一頭の白いトラがこちらを見ていた。
俺は恐ろしい速さで跳ね起きた。
なぜ?という疑問が脳内を占める。ここで飼われてでもいるのだろうか?
白いトラは顔を低くし、こちらににじり寄ってくる。
思ったより前足が大きい。そこに格納されている爪は、全様は見えないがおそらく致命傷となるのに充分な刃渡りだろう。
時折その前足を持ち上げたまま静止させ、その後ゆっくり下ろして歩みを進める。まるで一時停止とスロー再生を繰り返しているようだった。
これは、狩りの姿勢ではないだろうか。
まずい!
俺は咄嗟に背後に落ちていた小道具の剣を手に取った。
幸い結構な重みがある。刃がなくても刺突には問題なさそうだ。
やるしかないのか……俺は剣を両手で構え、腰を落とす。
その様子は、さながら魔物と対峙するゲームの主人公のようであった。
しかしながら次の瞬間、トラは不意に頭を上げ、かがめていた体を起こす。
狩りを諦めたのかとも思ったが、こちらを見たまま、今度はタッタッと軽快に歩みを進める。
どうしよう、と思った。
少なくとも本気で襲ってくる様ではない。しかしあの体格でじゃれつかれても、俺は死ぬかもしれない。
俺は意を決し、剣の腹が向いている方を確認して、それを横へと振りかぶった。
そして、トラがもう間近というところまで迫ったのを見計らい、その顔面めがけて思い切り振り抜いた。
加減して意識が奪えなかったら意味がないと思い本気で振った。俺はその勢いで駒のように一回転する。剣は手中からすっぽ抜け、遠くの方へ飛んでいった。
トラは、階段の上部の随分離れたところで横たわっていた。
ここから見た限りでは出血している様には見えないが、あんなに飛んでいくほどの力だったら、死んでしまったかもしれない。
じわっと嫌な汗が今更出た。
だが、その不安が脳内を占めることはなかった。
バンッと客席上部の両開きの扉が、乱暴に開け放たれたからだ。
「よし!うまくいったな!」
逆光に照らされて元気よく現れたのは、
明るい亜麻色の髪をなびかせ、レースのあしらわれた黒いワンピースを身に纏った女性であった。
「君は左利きだから、左から右に振り切るだろうと思っていたんだ!」
それは、俺が暗闇の中で聞いた声の主らしかった。
扉が先ほどの反動でボスンッと閉まり、ようやく女性の顔が視認できた。
女性は目を輝かせてニヤニヤと笑っている。
年はそんなに離れていなさそうな顔立ちだが、少し年上にも感じた。
彼女の纏う不思議な雰囲気のせいで、そう思ったのかもしれない。
「ふむ、どうやら憑き物は落ちたか……」
彼女はジッと俺の顔を見て、そして言葉を続ける。
「初めまして、と言うべきかな。有稀くん。私は君を知っているぞ」
「え……?」
俺は口籠る。
「私と君は何度か出会っているんだよ。この場所でな」
彼女は相変わらず面白そうに笑っている。
「覚えていないのも無理はない。その時の君はなにかに完全に取り憑かれていたからな。動物霊かな。呪いか黒魔術の類でもしたかい?」
呪い。
俺には思い当たる節があった。
俺の働く会社の上司……思い通りにいかない時、あるいは機嫌が悪いだけでも、物を叩きつけ、怒鳴り声で暴言を吐く男に……俺はかつてない憎しみを覚えていた。
死ねばいいと思っていた。これは呪詛だろうか。
「まあ君のようなセンシティブな性格は、元々憑かれやすい性質ではあるが……とはいえ本来なら、動物霊なんぞに肉体を乗っ取られるまではいかないんだがな。精神がそうとう弱っていたか、それとも肉体の方が、精神を見放したか」
彼女は次第に目を落とし、独り言のように呟きながら階段を降り始めた。
「……なるほど、つまりあの時の”人間ではない"という言葉には、もう一つの意味があったわけだ」
ドキッとした。俺の心の奥底にあるソレを、彼女が口走ったことに。
人間は群れて共同体を形成する生き物だ。
クラスというコミュニティの中で、同級生が昨日あったことを話す。仕入れてきたギャグを話す。将来の夢を話す。それを一緒に楽しめる人たちが、友達だ。
会社というコミュニティの中で、下っ端が生意気な意見を言えば、組織では上司には従わないといけないと言われる。上司が部下に感情的に当たれば、しょうがないよね上司も人間だからと言われる。
彼らがいわゆる一般的な学生だ。職場だ。社会だ。
ではそれを外から見ている自分は?そこに居心地の悪さを感じる自分は?
彼らが一般的なのだとしたら、人間的なのだとしたら。
そうではない俺は……人間ではない。
「なんの話ですか!?」
つい言葉を返す。
「ああ、それを説明しないとだったな」
彼女が顔を上げた瞬間、彼女の背後で横たわっていた、白いトラの躯体がむくりと身を起こすのが見えた。
俺はトラが死んでいなかったことにホッとしたが、彼女は素知らぬ顔で、なぜか降りてきた階段を再び登り始める。
「いいかい、肉体には、君であって君ではない、もう一つの意思が宿っているのだ」
彼女は続ける。
「君は、自分を否定し、ストレスやフラストレーションに見て見ぬ振りをし、肉体の意思を無視し続けた。その結果、肉体は自らを守るために精神を別の物に明け渡したのだ。例えば君は、君を尊重しない者のそばに居続けたいと思うかい?……それと同じことだ」
なんだか説教のような言葉を並べられるが、その口調は無邪気で楽しそうだった。
彼女が本気で言っているのか冗談で言っているのかは分からなかった。が、最後の問いには心の中で答えた。断じて、否である。
「その、肉体の意思っていうのは、なにかの比喩表現ですか?」
俺の精一杯平静を装った問いに、彼女は同じ調子で平然と返す。
「いいや、肉体は実際に意思を持ち、常に君に意志を表明している。それは捻じ曲げたり拗らせたりしていない、もっと率直な意志だ」
彼女の背後のトラが、首を持ち上げる。
そして胴を持ち上げ、後ろ足で立った。
「君の心臓が動いているのは、肉体が君を生かしたいからであり、君の存在に意味があるからだ」
宙に浮いた前足の先から体毛が消えて形が歪み、それはなんと、人間の手へと変化し始める。
「君が何かに負の感情を抱くのは、その裏返しが君の本当の望みであるからだ」
トラは完全に人間へと姿を変えた。そして俺は、その顔に見覚えがあった。
あれは、俺だ。
「こんな君に献身的で、慈しみのある一番の理解者を、ないがしろにするものではない」
俺の姿になったトラは人差し指を立て、それを天へ突き上げる。そして彼女も、それにシンクロして、同じ動きをする。
「つまり今、私ともう一人の君が、君に言いたいことはこうだ……」
彼女はもう一人の俺と同時に、ビシッと指を振り下ろす。そして高らかにこう叫んだ。
「自分を大切にしなさい!」
決まった!とでも言うように、彼女は得意げに口角を上げる。
先ほどまでトラであったもう一人の俺は、全くの無表情で、ただ目だけはまっすぐにこちらを見ていた。
目と目が合う。
俺を見る俺の目が、なんでこんなに怖いのかは分からなかった。
その無表情の目が、視線が、怖かった。今まで見ないようにしてきたものを、取り繕ってきた全ての嘘を、白日の元に曝される様だった。
「でも……」
言葉が出る。
「人と関わる以上、我慢しなければならない時だってあります。他人に合わせなければ人の輪には入れないし、平気で人を攻撃する人もいます。所詮この世はままならないことだらけです」
俺は自分でも脳が回転していないと感じていたが、言葉は自然と口を衝いて出た。
「だとしても、そのまま負の感情に包まれ続けて、傷つくのは君自身だよ」
彼女は答える。
「そんなもの、許してしまえばいい。どんなものでも、それが存在する事実は変えられないのだから」
許せと言われて、脳裏に浮かぶのは、職場の男、ニュースで見る非道な犯罪者。
「それがどんなに悪人でもですか?」
彼女は、
「もちろん、生命が脅かされる時、生存のために闘争という行動を選択するのは、生物として当然のことだ。先ほどの君のようにな。ゆずれない意志を貫く上で、戦いになってしまうこともあるだろう。別に無理に好きになれ、迎合しろというわけではない。距離が取れるならあえて近づく必要もない。そういう現象が、人が、存在することを自覚しているだけでいい」
と、再び階段を降りる。
「重要なのは、感情をどう取り扱うかだ」
すると、彼女が通り過ぎたもう一人の俺の足元から、ドロドロとした液体が流れ落ち始めた。
それが何段か下の床に左右に伸びて広がる。そして一定の間隔で隆起し、人の形を形成する。
「いいか、彼らはただそういうものとして存在しているだけだ。君と同じようにな。そこには善も悪も正しいも間違っているもない」
やがてドロドロは完全に人となった。横一列に並んだ人々は皆、図鑑の様に直立不動であり、表情もなかった。
彼女は少し間隔の空いていた列の中央へとそのまま進み、人々に横並ぶ。
「この中には、君の気持ちが理解できない人間もいるし、分かってあげようとする人間もいるかもしれない。まだ精神の幼い人もいるし、既に多くの学びを積み重ねている人もいる。一見愛がないような人間も、特定の誰かは溺愛しているかもしれない。君のことを嫌う人もいるかもしれないし、やがて君を愛する人も、いるかもしれない……」
彼女は目の前の玉座の背もたれに肘をつく。
「それは誰にも分からない。とある例外を除いてはな」
と、チラッと背後に視線を遣る。
「彼らはどこへ行き、何を知るのか。彼らもまた、学びの途中なのだ。君と同じようにな。ほら、そう考えると、なんとも愛おしいじゃないか」
それは異様な光景だった。
玉座の後ろに居並ぶ、彼女と見知らぬ人々。その背後にいる、俺。それを見ている、俺。
異様だからこそ、この光景が目の裏に強烈に焼き付いた。
俺にとって、人間とは利己心、攻撃性の代名詞だった。
人間でないとは、自嘲でもあったが、願望でもあった。
俺はもう一人の自分に手を伸ばす。
一番身近な、一番の理解者。
先ほどのような恐怖はもうなかった。
愛おしいの意味が、少し分かった気がした。
自然と彼女に視線が移る。
人間を、愛おしいといった彼女。
彼女の見ている世界が知りたいと思った。
「ん、どうしたんだ?」
反応を返され、はたと気づく。
手を伸ばした格好のままであったことが、変に誤解されてそうで、慌てて指を差して誤魔化す。
「あ、えっと、これってなんなんですか?」
そういえば結局このトラはなんなのか。
「なにって、私の作品だよ。中々の出来だろう、君にインスピレーションを受けて作ってみたんだ」
「俺に?」
「その通りだ。取り憑かれていた時の君はこう、野生味があって……」
そこで彼女はハッっと気づいたように、
「とても……情熱的で……甘えたがりで……かわいかったのに……」
わざとらしい声色でそう言った。
一体何をしたんだ俺は!なんで覚えていないんだ!
「じゃあ、本物じゃないんですね?」
俺は話を戻そうとする。
ただ彼女は少々沈黙し、なぜか神妙な顔つきになった。
「その問いには、安易に答えるわけにはいかないな」
そして俺を通り過ぎ、舞台の縁に手をかける。
「果たして何を以て本物とし、何を以て虚構とするのか。まずはそれを、見定めてもらうことにしよう」
舞台上の彼女が腕を広げると、両手から天井まで届く旋風が巻き起こる。黄色や緑色の光が渦巻く。
そしてそれぞれの渦から、巨大な女神の姿が現れ、彼女へ向けて首を垂れた。
彼女は女神達を従える様に中心に立ち、スカートの裾をつまみ、客席へと軽く膝を曲げる。
「ようこそ、ここは愛と幻想の館、『幻燈館』……」
そして、不敵に微笑んだ。
「今宵も、とある物語をご覧にいれよう」
これが、最初の出来事だった。この日、俺の"いつも通り"は終わった。
多分、救われた。
第二章へつづく
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