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【ワンピース】ONE PIECE FILM REDを若干テクスト論的な考察で解釈する【今更アマプラで見た】

はじめに

 ワンピースの映画は、ねじ巻島の冒険とデッドエンドの冒険は子供の頃に見たことがあったと思う。
 私はキャラクター愛はそこまでないため、単に「許さねえ」「ぶっ飛ばす」以上の心情を感じ取れないキャラ見せメインの映画ではないのかと怪しみ、ワンピースの映画は長らく見ていなかった。
 また子供向けにありがちな、分かりやすくするための表現がもはやオーバーすぎてクサいと感じてしまう(ようになってしまった)。
 その点、副作用で感情の起伏が激しいという設定はなかなか面白かった。子どもにもわかるように、且つ単なるヤバい女だと思われないようにという製作陣のクリティカルな設定ではないだろうか。
 本作は、まあキャラの見せ場パートみたいなものはたくさんありはしたが、それよりも本筋がちゃんと見届けるべきと感じて、あまつさえ読解したくなるほどであった。

Adoさんの歌唱パートについて

「新時代」と「私は最強」の一部しか知らなかったので、これはAdoさんの歌唱の魅力に適っているのか疑問だった。しかし後半になるにつれ、「ウタカタララバイ」などは特に、これはAdoさんであるべきだなと感じた。
 また歌の持つ様々な効能を、率直に作中の使われ方として表していると感じた。自分を鼓舞したり、人々を扇動したり、人への抱擁だったり、神に捧げるものだったり。

読解・考察・解釈

ウタは民衆の願いをただ聞き届けることに殉じようとした。
人のためになろうとして、当のその人に拒否された時、その行為は意味を失う。
なによりウタ自身が自由でなかった、幸せでなかった。
新時代はそんな辛そうな顔で迎えるものではないはずだ。
でもそんな思いもまた無駄ではなく、意味があったはずだ。
そう思いたくて始めた考察です。


まず、本筋にて対立する3つの登場人物の望みを分けていく。

・承認を望むウタ

 ウタは民衆のために平和と平等の世界を作ろうとしたが、それはウタ自身の望む世界ではない。ウタ自身は平和が脅かされたことも、天竜人や世界政府の支配を直接感じたこともない。
 ウタが体験したのは、
・自分が大量虐殺をしてしまったこと。
・シャンクスに見捨てられた(と思っている)こと。
である。
そのため人が傷つくことに大変敏感であるし、配信で自分を見つけてくれた発言や、「寂しい」「認められたい」「誰かに見つけて欲しい」というトットムジカを象徴するものと、「あなたも寂しかったんだね」発言から考えると、ウタが真に望んでいるのは承認である。
 おそらくウタは、シャンクスが歌を学ぶために残した、持て余した、最初から騙していた、の全部の可能性を考えていたが、それはそれとして赤髪海賊団の音楽家という望みを叶えてもらえないことに憤っていた。
 最初の「シャンクスが来るわけない」終盤の「来て欲しかったけど来てほしくなかった」旨の発言は、子から親へのわがままな感情でもあるし、シャンクスが来ると民衆から受けた以上の承認欲求が満たされてしまい、自分にわずかに承認をくれた民衆の望みを自身を犠牲にしてでも叶えようという土台が崩れてしまうからである。

・平和と平等を望む民衆

 平和については海賊による焼き討ち、殺人を嘆く描写から。なお天竜人支配に対する平等に関しては民衆はドン引きであるが、海軍や黒服を民衆に含むものとすると一応読み取れなくもない。
 このようなワンピース世界の実情を受けてか、シャンクスが「この世界は平和も平等も存在しない」と発言している。
 平和や平等に関しては最近本編でガープやドラゴンが言及しているが、、、

・自由を望むルフィ

こちらは本編でも発言しているし、ウタに対する発言でも、ウタの作る新時代に対して「自由じゃない」と言っている。
平和と平等をメインに望む民衆のための世界で、自由にのみ言及するルフィ。
これを後述する考察に紐づけたいと思う。

ウタの新時代vsルフィの新時代

 ウタの望む新時代は、新時代ではないとルフィに否定される。
 作品の言葉のみを追うと、間違いを犯したウタをルフィが救うというように見えなくもない。

 しかし、そもそもワンピースの世界は現実よりも結構世知辛い。
 暴力がものをいい、支配者が明確に存在している。
 辛い現実より幸せな夢の世界をみんなで見よう、という構想はあらゆる創作で昔から描かれていることであり、それに対する反論として、与えられる幸せよりも自分でつかむわずかな達成感という言説がよくあるし同意できるが、ワンピース世界ではその「辛い」の深刻さが根深い方であろう。

 そんな中で、ウタの構想が同様の反論で否定できるかというと、怪しい。
 ましてやウタワールドでは他の作品でデメリットとされているような個人の人格が消滅することもないし、それを利用して悪事を為そうという敵もいない。

 ルフィが言及しているのは、①ウタの世界が自由じゃないということと、②ウタの世界はウタが望むものではないということである。

 ①ついては、自由でないのはいわずもがな、ウタの世界は自由を重視していない。
 代わりにルフィの世界は平和と平等を重視していないとも言える。
 ルフィはヒーローになることに否定的である。本編での「肉を分け与えるもの」という発言から、ヒーローは自分を犠牲にしてでも人々のために尽くすものと言い換えられる。そういう意味で、ウタは自分を犠牲に人々に平和と平等を与えようとするヒーローである。
 ルフィは腕っぷしが強いので自身の平和を脅かすものは排除でき、天竜人や世界政府に対しても無法者なので支配を受けることもない。ヒーローにならないということは、この利を分け与えないということにもなる。
 まあさすがにそんな冷血漢ではないだろうし、ナワバリとしていくつかの島を守ろうとしていたり、今後どのように本編で描写されるかは分からないが、少なくとも本作でルフィが言及していないのは事実である。

 また本作の課題であるトットムジカの影響は、戦闘の強さでは完全には解決できていないことも事実である。
 ウタの世界が自由でないことのみをもって間違いとするならば、自由の象徴であるルフィが本作の課題を全て解決できるはずだ。

 以上のことから、実際はウタとルフィ、異なる価値観を掲げる新時代同士の対立、戦いではないのかと考えることができる。

・平和と平等の世界=ウタの新時代

・自由の世界=ルフィの新時代

 もちろんルフィの考える新時代はまだ具体的には明かされていないので、あくまでそういう側面が強いという解釈ができる程度であるが。

 ②については、冒頭に述べた通り、ウタが真に望むのは承認であり、平和と平等ではない。
 平和と平等にはウタの実経験が伴っていない。
 実体験が伴っていないといえば、魚人島編である。
 中盤、ウタの歌や行動に宗教的な側面が現れる。ウタ自身も「導く」という言葉を使っている。
 空島編のような、超常的な自然に畏敬と感謝を持ったり信仰したりする原始的な宗教ではなく、
 魚人島編のような、洗脳、意思の強制、教祖にフォーカスを当てた、人を変えようとする方のカルト的宗教の側面である。
 ワンピース世界の理論では、実体験が伴っていないものは良しとされない。本心に嘘をつくのも良しとされない。
 そういう意味で、ルフィがウタの新時代を否定するのは当然とも言える。

 最後、ご都合主義的な薬が登場するが、ウタはそれを飲むのを拒否し、人々を元に戻そうとする。
 信念を貫くためなら死ぬのは厭わない、というワンピース世界の理論があるので、シャンクスが死ぬことになってもウタを止めなかったのは、あれがウタの信念の全うということなのだろう。
 そこで歌われる歌ので繰り返されるのは、「信じる」ということ。
 トットムジカに飲まれた人々の心 = 一人の寂しさ、承認欲求や、自己顕示欲は、信じることで初めて解消される。
 他者を信じることで独りではなくなり、自分を信じることで自分を承認する。

 もっと拡大解釈をすると、民衆が望むものも実は平和や平等ではなく、承認であったという見方もできるかもしれない。
 日々の生活があること、自分たちのやっていることが「在っていい」という確証は、自分が自分の手で行ったことだから得られるものでもあるから。


以上となります。
本編の内容を入れてしまったりのなんちゃってテクスト論ではありますが、
肉付けする上で無理をして入れてなんとか説明しようとしました。
だって絶対何かあると思ったから。尾田先生も谷口監督も製作陣も何か仕込んでるはずだもの。
どこかのインタビューで全然違うことが書いてあるかもしれないですが、あくまで私の解釈ということで。

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