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小説っぽい

「見る」という能力が落ちてきた。
遠近両用眼鏡を仕事で使うことにした。
金属のふちの細い大きな丸眼鏡はのび太くんみたいでかわいいと言われた。

それでも「見る」力が落ちることはけっこうしんどい。
この先「聴く」力までが落ちていったらと思うと・・・・(>_<)

実は少し前まで、けっこう自分を大事にしようとしていて
自分の先のこととか自己分析的なこととか運動やら勉強をしたりしていて
それが、仕事や生活が忙しくなると、それまで楽しかったそれらの継続がちょっと億劫になってきたりして、、いけんなぁ、、と思っていたところ
寝る前に唯一毎日欠かさないのが読書で。

いくら本を読んだところで賢くはならないし、読んだ本の内容も「こんな話でした」と話すこともできないし、私の読書は何のためでもないのだけど、私はなんでこんなに「読む」のか、
「見る」能力が落ちて、文字を読むのがしんどい体になったのに小説だけは読めるのか。

たまたま、村上春樹『女のいない男たち』
川上未映子『春のこわいもの』
角田光代『タラント』を読んでいた時に

ああ、、自分が、この私自身が”小説っぽい”からだなという感覚がきて、
やっと、今合点がいったような気持ちがした。

思い出した.

高校の同級生と東京で会った。
20代の早い頃だったと思う。
当時私は京都に住んでいて、何かの用事で東京に行ったときに
ごはん食べようよ になったのだったかな。
彼女は浜松町の近くに住んでいて、待ち合わせをしている場所から東京タワーが見えた。

何の話をしていたのか忘れたけれども
彼女がそんなに本は読まないけれど、吉本ばななは好きと言って
「あひちゃんは小説に出てくる人みたいだ」と言った。
その上で、でも勘違いしないで!!的にちょっと厳しめに
「それは、全然、褒めてる ってことではないよ」と言われたので、すごい笑った。

彼女は高校時代、頭が良くって美人で男の子にもてていた。
彼氏同士が友達だったので、それぞれが別別の大学に入ってしばらくは
4人で遊びに行ったりもしていた。

浜松町で、彼女と何か食べたり飲んだりしながら
少しも高校時代の話をしなかった。
「今」のことばっかり話していた。
私たちは「今」が楽しく、そして同じくらい不安だった。

「褒められたことではないけれどあなたは小説っぽい」 と
私の視点とか、暗さとか、感動しぃとか、ノリとか、言葉とかをすぱっと指摘する彼女。
「言いそう」とか「思いそう」とか「やりそう」とかで。
あなたが今、そのセリフを言っている場面がすでに「小説っぽい」から
私は、登場人物であるあなたからそのセリフを引き出しちゃっているのかもと思いながら。

「小説」はずっとなくならない。
なくても人は死なないのに。
例えば、今の私の仕事には1ミリも”役に立たない”だろうけれど私は一生読み続ける。
そこは、なんでなんだろうと考える意味があります。

「音楽」とか「アート」もそう。

マニュアルや説明文、取扱説明書、学校からのお便り、文字情報が全然入ってこなくて
「文字」の黒い集合に見えるのに
小説は、文字が映像になる。
ビジュアルは、マニュアルと同じく黒い文字の集合なのに、
小説を読むと、その黒い文字の集合体をかいして、涙が出たりもする。

「感受性」

結局、あの日、浜松町で彼女となにやかんや食べながら話し合ったのは、そのことだったと思う。

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