初めて本を出して思ったこと
中2の頃初めてこの曲を聴いて衝撃を受けた。当時の私はまさに日々くだらねえとつぶやいて醒めたツラして歩いていたからだ。さらに私もきっといつの日か輝けるのだろう、と密かに思ってもいた。
あれから10年以上経って、その時がついに来たのではないかと思った。2023年初めに刊行した初の単著である『シティガール未満』(柏書房)のゲラの著者校正をしていた2022年の秋だった。
商業出版デビューを果たした人が「本を出してみてわかったこと」みたいなタイトルで書きがちな、出版までの過程と所感などをまとめた文章を出版と同時に出したかったのだが、あろうことか1年近く経ってしまった。しかし私はどんなに遅れても書きたいものは書く。ちなみにコロナに感染してホテル療養した記録を公開すると宣言したのも2021年の夏でなんと未だに達成できないまま完全に機を逸しているが、本当に書く気はある。
ということで出版1年記念というテイで、私がどのようにして出版までこぎつけたのか、なぜ自分が輝いていると思ったのか、本を出す前に知っておきたかったこと、執筆作業を通しての自分の変化などを書いていく。
執筆のための身体づくり
ファッション誌「GINZA」Web版での連載の書籍化が決まったのが2022年6月で、加筆修正と書き下ろしを加えた書籍用原稿の締切が8月末。一昨年は諸事情により東京の自宅と地方の祖父母宅を行き来する二拠点生活をしており、8月に入った頃、私は祖父母宅の煎餅布団の上で生理痛と希死念慮に悶え苦しんでいた。
原稿(作業環境はiPadと外付けキーボード、デフォルトアプリのPagesで執筆。個人的にWordより使いやすい)に向かっても猛烈に眠く、まったく筆が進まなかった。慢性的な過眠を抱えているとはいえ、「眠い!!」しか考えられなくなるほど眠いのは珍しかった。それでも当然締切は迫ってくる。この時点で既に連載開始から3年が経っていたこともあり、早く書籍化したいと思っていた私は焦っていた。
これは本当に、もう本当に、どうにかしなければならない。今まで騙し騙し付き合ってきた慢性的な過眠、集中力の低下、抑鬱、これらを一掃しなければ締切までに自分の納得のいくクオリティには仕上がらないだろう。
7月半ばから始めた朝晩のラジオ体操によって身体は少し軽くなったけれど、原稿は書けない。私はそれまでの人生で調子の良かった時期を思い返して条件を洗い出し、ちゃんと栄養バランスの取れた朝食を摂っていると調子が良くなるのではないかという仮説を立てた。祖母の朝食を参考にし、毎朝米と味噌汁と納豆を食べて青汁を飲み始めた。
お盆に帰省してきた母が、真夏に毎日湯船に浸かり青汁を飲みラジオ体操に精を出す私を見て「若いのによくやるね」と感心していたが、私は実年齢の割に社会生活に支障をきたすレベルで心身が不健康なので生きていくために仕方なくやっているだけであり、多くの人が若さを失ってから健康に気を配り始めるのと同じなのである。
どうして両親は体力があるのに私はこんなんなんだろう……と思いつつも続けていくうちに徐々に改善し、締切までの最後の10日ほどは集中して取り組むことができ、その時の自分なりに納得できるクオリティに仕上げることに成功した。
むしろハイになってしまい、原稿を送ってひと段落ついたのに何かしら書き続けていないと落ち着かず、他のことができなくなっている自分がいて怖かった。
それ以降はある程度調子が安定するようになり、刊行まで走り続けることができた。
私がここ数年で健康を取り戻している方法は以下にも詳しく書いている。私が人並みの健康を目指して奮闘するエッセイ連載をどこかでやりたい。
執筆のための頭づくり
①向田邦子
調子が良くなったのは向田邦子の影響もあるかもしれない。
実を言うと私は仕事でエッセイを書き始めるまで、随筆・エッセイと呼ばれる文章をほとんど読んだことがなかった。日本の古典として読み継がれているようなそれは読んでおいたほうがいいかと思い数年前に購入した『向田邦子ベスト・エッセイ』(ちくま文庫)も、冒頭だけ読んで特にピンと来なかったため積読していたのだが、執筆の参考になるかもしれないと一応祖父母宅に持ってきたのが功を奏した。
なぜか、急にハマったのだ。
前述の生理痛のピークを過ぎた頃、祖父母宅の猫と添い寝しながら読んでみたら、何かが回復していく音がした。猫と触れ合いながら向田邦子を読むことでしか得られない幸福感が、ある気がした。
それから毎日少しずつ読んだ。一つの出来事から芋づる式に過去の様々なエピソードを思い出して書かれたエッセイが多いのだが、それらの複数のエピソードには一貫したテーマなどは一見ないようでいて絶妙なところで関連性を見出す落とし方にキレと抜け感があり、そのオシャレさに感銘を受けた。
猫がいないところで読んでもちゃんと好きだった。救われている、という実感があった。孤独な苦しみを代弁してくれたり生きる上での指針を与えてくれたりといった救われ方ではない。内容に救われることは基本的にないのに、なぜか文章に触れているだけでじんわり温かい涙が出てくるような安心感に満ちてきて、「私は今、救われている」という感覚だけがあった。もう向田邦子を読めないと生きていけないかもしれないと思うほどだった。
それ以前は東京のマンションの狭い部屋で読んでいたのがいけなかったかもしれない。祖父母宅は昭和後期に建てられた、ありふれた中流の日本家屋である。どちらが向田邦子の世界観に合うかといえば断然後者である。
向田邦子はエッセイ「水羊羹」において、好物である水羊羹を最大限に味わうための環境として
と述べているが、これと同じような話なのかもしれない。
以降はどこで読んでも好きなので環境は関係なかったかもしれないが、何にせよこの時期に、墓参りをしたいほど好きな作家が初めてできたのは幸運だったのではないか。書籍用原稿の執筆からゲラ作業まで、ずっと向田邦子のエッセイを読みながらやっていた。当然ながら良質なインプットは良質なアウトプットを生むので、リアルタイムで自分の原稿に反映されていくのがわかった。決して表面的な真似などではない。瞬時にきちんと吸収され自分の血肉になっていく感覚が確かにあった。
そうして加筆修正を進める過程で連載を読み返していると、19章「御茶ノ水 神田川の桜」に烏滸がましくも向田邦子っぽさを感じた。
連載時にTwitterでシェアした際のいいね数は最も少なかった回なのだが、こういうのも書いて良かった、我ながら好きだと心から思えた。
昨今のエッセイは、何らかの当事者としての何らかの生きづらさが綴られていて著者と似た人たちの共感を集めるような内容が最も需要が高く、特にネットだとその傾向は顕著になる(バズりやすい)と私は思っている。そうした条件を満たさないエッセイは、まあ読まれないだろうな〜と諦めながら出すのだが、向田邦子のおかげでモチベーションが上がり、書こうか迷っていたエッセイを勢いで書いてnoteに投稿したら思いのほか反響があった。
あとこないだ私が向田邦子ファンであることを知らずに拙著を読んでくれた方から、「桜の話に向田邦子イズムを感じた」「終電さんは現代の向田邦子だと思っている」と言われ、改めて書いて良かったと思った。
②猫
身体の上に猫が乗っている重みはどうしてこんなに幸福なのだろう。
祖父母宅には2匹の猫が住んでいて、それまでも遊びに行くたびに猫と触れ合ってはいたものの、長期滞在するのは初めてだった。
2匹とも人懐っこい猫ではないのだが、祖父が亡くなり祖母も入院して家に私しかいなかったせいもあってか、1ヶ月を超えるとかなり懐いてくれるようになった。私が部屋から猫の名前を呼ぶとトコトコ歩いて布団まで来て喉をゴロゴロ鳴らしながら添い寝してくれるようになった時、こんな私でもコミュニケーションやスキンシップを重ねた末に、猫に好かれ、信頼されることができるんだ……と感極まって号泣してしまった(生理前の情緒不安定)。
そんな猫たちは夜中に喧嘩をしがち(でも翌朝には何事もなかったかのように仲が良い)なため、床に撒き散らされた毛の塊や吐瀉物を捨ててクイックルワイパーをかけることから始まる朝が多かったのだが、私は猫に汚されでもしないと掃除するモチベーションなんて湧かないので、猫の世話をすることで、結果的に自分の世話もしているような状況になっていた。
前述の加筆修正に取り掛かるも一向に調子が出なかった頃。私は掃除という行為に救いを見出すようになった。原稿と違って掃除はゆっくりでも手を動かすことさえできれば終わるし、綺麗になれば多少すっきりした気分になれる。掃除自体は苦手だったが、何をやっても結果が出ない日々の中では、手を動かしさえすれば結果が出る掃除という行為に、救いを感じることもあるのだと。
よって猫も私の精神安定に一役買ってくれた。それは原稿のクオリティ向上にも繋がったと思う。いつか猫を飼って猫エッセイ本を出したい。サイン本は私のサインと愛猫の肉球拓で。
執筆のための環境づくり
加筆修正と書き下ろしの執筆、ゲラの著者校正など書籍の作業は主に祖父母宅で集中的に行なっていた。こうして心身の健康状態を改善することができたのは、祖父母宅の環境が良かったことも大きいだろう。
私の東京の狭い部屋と違って、のびのびとラジオ体操をするスペースがある。のびのびと料理ができる大きなキッチンがある。紙のゲラを広げられる大きなテーブルがある。近所に川がある。日当たりの良い縁側がある。庭がある。そして猫がいる。
朝目覚めると視界に猫が飛び込んできて私が起きるのを待っている。ひと通り猫を撫でてやってから、窓を開けて朝日の差す庭に向かってラジオ体操をし、朝食を食べる。縁側で籐の椅子に座り、庭を眺めつつ紅茶を飲み、向田邦子を読み、文豪気分でゲラと向き合う。
1階で各部屋のドアと襖と窓を全開にして過ごしていると、一人で狭い部屋にいる時の漠然とした不安を感じないことに気がつく。広くて日当たりが良くて風通しの良い家はやはりメンタルに良いのだろう。
近くの川の土手を毎日散歩して、「増水してるなー」とか「雑草伸びてるなー」とか「今日は透明度高いなー」などと自然の変化を感じられるのも好きだった。ここに暮らして猫と向田邦子の本さえあれば私は十分幸せなのではないかと思うほど居心地が良かった。
書籍の仕事のためというわけではなかったが、期せずして適した環境に身を置くことができたのだ。
加筆修正で初めて見えてくるもの
連載で毎回その時の自分なりに納得できるまで推敲した文章を、もう一度加筆修正して再び世に出せるって、なんて幸せなんだろうと思った。
各回がだいたい2500〜3000字程度、書き下ろし含めて合計8万字弱となったのだが、一気に読むことによって、一編ごとに読むだけでは気づかなかった自分のクセがより見えてくる。
例えば「お酒を飲めない自分」に関する一文が差し込まれていることがかなり多いこと。自分で思っている以上に、私にとって下戸であることが社会生活の中で大きな意味を持っているのかもしれないと気づかされた。
思考だけでなく文章のクセも見えてくる。3000字程度の中では言葉のバリエーションをつけたつもりでも、それらを集めた8万字全体を眺めた時には語彙や言い回しの偏りが目につくようになる。
辞書を引きまくり、類語を検索しまくった。「風景」と「景色」という言葉の使い分けについて調べた際、景色は眺める対象としての自然限定で、風景は自然以外の街や人々の様子などに対しても使う言葉だとわかったのだが、ではなぜ「風景画」は「景色画」とは言わないのか、という疑問が湧いて頭を抱えたりもした。向田邦子をはじめとするエッセイや小説を合間に読んで、「自分の引き出しの浅いところにはないものの使ってみたい語彙」を見つけては書き留めていった。そうして苦しみながらも表現を研いでいく作業はこれまでになく充実感に満ちたものだった。
ちなみに連載の最終回の後に長めの書き下ろしを一編加えたが、これは単なるおまけではなく、映画版をもって真の完結を迎える連続ドラマのような本だと思って欲しい。
ゲラ
校正記号わからない問題
Pages(Word)ファイル上での執筆と編集を経て、初校ゲラを受け取った10月。
紙媒体での経験が乏しいため慣れておらず、校正記号を調べながら著者校正を行ったのだが、厳密にやりすぎて分かりづらくなってしまったという反省がある。具体的には「と言った」を「そう言って」に修正したい場合に、「と」→「そう」「た」→「って」とそれぞれ変更指示を書いていたが、おそらくこういう時は「と言った」全部に打ち消し線を引いて「そう言って」と書いたほうが簡潔でわかりやすい。多分そういうところがASDっぽいんだろうなと痛感した(診断済み)。とはいえ担当編集さんには「丁寧に整理されていて見やすい」という旨を言ってもらえて安心した。
著者校正、消せるペンで赤入れするか? 消せないペンで赤入れするか?
最初にもう一つ悩んだのが、赤ペン問題である。Twitterで検索してみるとゲラの赤入れにフリクションを使っている書き手・編集・校閲・校正の方は多い一方で、高温で消えるリスクを考慮して消せないボールペンを使うべき派も少なくないようだ。フリクションで赤入れしたゲラを真夏のエンジンを切った車内や高温の倉庫に置いていたら赤が消えてしまったといったエピソードも見かけた。
デジタルでやるという選択肢もある。送られてきたのは消せない赤と鉛筆の入った紙のゲラだったが、これをスキャンしてApple Pencilで赤入れし、カラープリントして返送するのだ(結局紙でやったので確認していないがもしかしたらデータでも受け付けてくれるのかもしれない)。
しかしApple Pencilもプリンターも持っていないしそれはそれで面倒だし、何より作家っぽい雰囲気が出ないではないか。出版不況の昨今、商業出版はそう簡単ではない。ようやくこぎつけたデビュー作が、私の最初で最後の本になってもおかしくない。せっかくなら思う存分、作家っぽさを味わいたいではないか!
将来私が売れに売れて絶対に終電を逃さない女展が開催された時に直筆著者校ゲラを展示するために、消えないボールペンで赤入れすべきという観点もある(夢は大きく)。逆に、冷やせば復活するというフリクションの特性を利用し、消したつもりの赤も全て復活したぐっちゃぐちゃのゲラを展示するというのもそれはそれで面白いかもしれない(夢は大きく)。
……などと取らぬ狸の皮算用までして悩んだ末に念のため消せないボールペンで始めたものの、最初の数ページの時点で書き損じと迷いがありすぎて、このままだと赤入れの赤入れ(もしくは修正ペンによる修正)が生じまくってしまいそうで限界を感じ、まあ季節的に消えることはないだろうしと早々にフリクションへと変更。案の定書いては消し書いては消しを繰り返し、消せないペンしかない時代だったらと思うと恐ろしくなった。今でも京橋のパイロット本社を通りかかるたびに拝みたくなる。
ペンの太さについては、取り急ぎ祖父母宅の近所に売っていた0.5mmを買って初校ゲラの著者校正を終えたのだが、本文の文字サイズよりも赤入れの文字の方が大きくなってしまったので、再校ゲラからフリクションポイントノック0.4mmに切り替えたところちょうどよかった。
画像は上から0.5mm、0.4mm、0.38mm。それほど差がないように見えるかもしれないが、ゲラに書き込むと0.5より0.4の方が格段に書きやすく、ラバーが細いのも助かる。今の四六版の一般的なレイアウトなら0.3〜0.4mmが最適なのではないか。
紙のゲラ嵩張る問題
それまで原稿はPCで書くだけなのだから机は小さくてもいいしデュアルモニターなどもあるに越したことはない程度に思っていたのだが、ゲラ作業となると話が大きく変わってくるのだと知った。紙のゲラを広げられるように机は大きい方がいいし、Pages原稿・ゲラPDF・ネット検索の画面をそれぞれ分けるためにデュアルどころかトリプルモニターが欲しくなった。モニターに関してはシングルで凌いだが、前述の通り祖父母宅のテーブルが大きく、かつ複数あったために助かった。
レイアウト依存問題
Web用横書き原稿を縦書きにして加筆修正をした原稿を、書籍のレイアウトに流し込まれたゲラで改めて読んでみると、自分がいかにレイアウトに左右されているかを思い知らされた。
横書きと縦書きの印象の差くらいは意識できているつもりだが、Pages(Word)上の原稿は1ページの行数や一行の文字数を実際に本になった時のレイアウトにきっちり合わせていたわけではなかったので、ゲラになると改行の位置などが変わってくる。
すると、無意識に改ページ位置に合わせて文章を構成してしまっていたことがわかるのだ。つまり、文章の流れがスムーズでない箇所が、改ページ位置でちょうど改行されることで誤魔化されていたのが、一つのページに並ぶと流れの悪さが露呈することになる。
これを避けるには、複数の異なるレイアウトで文章を見ていくのが有効な手段だと考えられるが、ゲラで修正するのは手間がかかるので、原稿の段階でレイアウトを変えて推敲すべきだった。
この時はあまり知らなかったのだが、著者校正の赤が多いと、どうやら私が思っていた以上にいろいろ編集のコストが増えてしまうらしく、反省している。
修正無限地獄問題
これまで述べてきたように推敲や加筆修正を繰り返してきたわけだが、それでも修正したい箇所がなくなることはなかった。各段階では納得のいくクオリティに仕上がったと判断したはずなのに、時間が経ったり、レイアウトやフォント、媒体が変わるとまた新たに「もっと良くできそうな箇所」が見えてきて、作家あるある、修正無限地獄に陥る。
その前年に放送されたNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』庵野秀明スペシャル回で庵野秀明が、最終的に作品を完成させるのは締切である、という旨の発言をしていたことを思い出す。結局締切までに全力を尽くすしかないのだ。ポジティブに捉えるならば、無限に修正したい箇所が出てくるのは、自分が成長し続けている証左なのかもしれない。
ゲラ凝り
学生時代以来に長時間紙に文字を書くという作業をし、右肩が今までにない凝りに見舞われた。けれど学生時代のほうが長時間書いていたのにもかかわらずそこまで凝らなかったのだから、若かったということなのだろう。
これは再校ゲラに入るタイミングでたまたま大腿四頭筋の筋トレを開始したことで解決した。弱冠26歳にして大腿四頭筋が衰えすぎて膝の靭帯を痛めていたのを改善する目的だったが、同時に腰周りの筋肉も鍛えられたからなのか長時間デスクワークをしても全身の凝りが気にならなくなったのだ。何事も身体の健康が基礎なのだと改めて実感する。
そんなこんなで初めての著者校を返送。(著者校正したゲラを何と呼ぶのか未だによくわからず、「著者校」が最もわかりやすいかと思って最近使っている。そもそも「赤入れ」とか「著者校正」とかも使い分けがよくわかっていない。出版社や編集者によっても呼び方が違ったりするようで、本稿においても統一しきれていないと思うが、許してください。)
その直前に扉に印刷されたタイトルの「シティガール」の「ガ」の部分にとまったコバエを摘もうとしたら潰れてシミになってしまい、実にシティガール未満的だと思った。
とにかく紙のゲラというのは、嵩張るわ書くのも消すのも時間かかるわ肩は凝るわ指は切るわで、デジタルでやる方がいい、原稿も手書きの時代だったら挫折してる、などと嘆きながら作業をしてとにかく大変だったのだが、そのぶん愛着が湧いたのか、クロネコヤマトで発送する時には旅に出る我が子を見送るような寂しさを感じたものである。
情報解禁
書籍化の告知をしたのは連載最終回を公開した8月の末だった。こんなに人に祝ってもらったのなんて生まれた時以来なんじゃないかというくらい、たくさんの人に祝ってもらえた。読書垢のフォロワーが急増し、読者や友人から「先生」と呼ばれ、作家気分を味わった。
書籍化できる、本を出せるのだという実感がそれまであまりなかったのだが、読者やフォロワーの反応を見ることでようやく実感が湧いてきて、人生のあらゆる場面において、他者の反応を見ることで初めて実感が湧くことはたくさんあるのだろうと思った。
かつて「本になったら読みたいと思ってあえて連載は全部読んでないファンも一定数いるはず」と言ってもらったことがあったが、実在を確認できたのも嬉しかった。(かといって連載が読まれなければ書籍化は難しいという実情もあるので、書籍化して欲しい連載なら読んで欲しいしSNSなどで応援して欲しいという思いもある。)
両親に報告したら、母も父もそれぞれ「それってお金を払う必要はあるの?」と聞いてきた。商業出版なので当然著者はお金を払わないどころかちゃんと印税を受け取っている。
家族の反応といえば、私がどういう名前でどういうものを書いているかは祖父母には伝えていなかったのだが、今回の滞在で祖母が実は文学少女だったことを知った。祖父母宅には本といえば図鑑くらいしかないし読書をしている姿なんて見たことがないので、子供を産んでからは読まなくなったのだろう。父づてに私が本を出すことを知った祖母が猛烈な勢いで買いたがり、「おばあちゃんに読ませられるような本じゃない」と拒否したら「なんで? エロ本じゃないでしょ?」と言われたりなどの攻防を経て、最終的には観念して教えた。まあ、私にできる最大のおばあちゃん孝行だろう。
「本を出せる」という処方箋
様々な要因によって心身の調子が良くなったという話をしてきたが、そもそも「本を出せる」という状況がメンタルに良い。何せ、出版が決定していて、まとまったお金が入ることが約束されていて、今は良い本にすることだけを考えて突っ走っていればよくて、もしかしたら売れるかもしれないという希望を抱いていられる状態なのだ。
しかも連載の書籍化なので、すでに原稿の大部分は出来上がっており、全編書き下ろしの本のような先の見えない不安は感じずに済む。
書籍の作業(連載の加筆修正・書き下ろし執筆・ゲラの著者校正)を集中的にやっていると、ワーカホリック気味になる傾向があった。四六時中原稿のことを考え、朝起きてすぐ書きたくなるし寝る直前まで書きたくなる。脱稿した途端に他に何をすればいいのかわからなくなる、そんな自分が意外だった。書くことが一切苦痛でなく、疲れもせず、自分にとってごく自然な行為のように思えてくる。私は文章を書くことがそれなりに好きだけど特別好きなわけではない、と今までは思っていたけど、本当はかなり好きなのではないか…… あれ? 私って作家なのでは?
今が私の人生のピークで、人生で最も輝かしい時期なんじゃないか。いつの日か輝くだろうのいつの日とは、今なのではないか。
スーパーマリオの無敵モードみたいな気分だった。秋には希死念慮の逆のような感じで、ふと「なんか生きてるってだけで幸せだな」と思ったりした。
躁状態なのではないかと不安にもなったが、生活リズムと習慣は保っているし特に異常というほどではないように思えた。そもそも根が悲観的な人間だから、心の片隅では「この先これ以上良いことなさそうだから今死んどいたほうがいいかな」などと思ったりもした。
作家のサインどこまでかっこつけるか問題
そんな勢いで12月に三校と念校も終え(並行して装丁やコピーの相談や確認も終え)、これで著者の仕事は完了しあとは発売をゆっくり待つのみ……というイメージだったのだが全然そんなことはなかった。
ありがたいことに複数の書店でサイン本を取り扱ってもらえることになったのだが、特別フォロワーが多いわけでもなければ(ここで言う特別フォロワーが多いとは、KADOKAWAからデビューするツイッタラーくらいの規模を指す)、連載がバズったわけでもない私のデビュー作のサイン本なんてどこにも置かれないと思っていたので、特に準備をしていなかった。
作家のサイン——普通に書くよりは少しデザイン性のある、いわゆるサインっぽいサインのほうが格好がつくしファンは喜ぶのではないか。しかし一方で私のようなふざけたハンドルネームがそのままペンネームになってしまったタイプのネット出身のぽっと出の書き手が気取ったサインを書くと、調子乗ってんじゃねえと思われるのではないか——得意の自意識を炸裂させながら、サインを作ろうとしたり練習したりしてみたものの、出版社でのサイン本作成の日までにかっこいいサインは作れなかったし上手く書けるようにもならなかった。
当日柏書房に行くと自著が65冊ほど置かれていて、絶対にサインを書き損じる女になりそうだと恐れ慄いた。一冊ずつサインしていくのだが、これが思っていたより難しい。
わかっちゃいたがそもそもペンネームが長すぎる。私より文字数の多いケラリーノ・サンドロヴィッチのサインは「Kera」のようだが、私には固定の略称がなく、フォロワーと編集者さんの多くは「終電さん」か「終女(しゅうじょ)さん」と呼んでいる。サインでそれだと短すぎる気がして「絶対終女」「絶電女(ぜつでんおんな)」などいろいろ考えたのだが、結局、既存の読者の間で略称が定まっていない以上は略さないのが無難であるという結論に至った。
縦書きのほうがスペースに余裕はあるが、裏写りやデザイン面を考慮して別丁扉に斜め書きするというスタイルに落ち着いた。それでもギリギリになってしまうのでバランスが難しかったが、なんとか失敗することなく完遂。略さずとも二桁冊までならぶっ通しでサインしてもそんなに疲れないのではないかという実感を得た。
この数日後、本を買ってくれた友人にサインをあげることになり、一応こういう感じなんだけど、と事前にサイン本の写真を見せたところ、「え、サインこれなの……?」と本気で引き気味に言われた。もうちょっとデザイン性があるほうがファンは喜ぶんじゃないか、ちょっと書いてみてよ、などと説得され、適当に書いてみたところなぜか意外と良い感じに書けたので、2月のサイン会ではこれを採用した。
流行りの手書き風フォント右肩上がりロゴっぽいと笑いたい人は笑ってください。
最初のサイン本を買ってくれた方々には申し訳ない気持ちもあるが、初期の初々しい貴重なサインとして捉えてはくれないか。
色紙難しい問題
初々しいといえば、最初のサイン本作成の際に、新宿の紀伊國屋と下北のヴィレヴァンに色紙を置いてもらえることになったので何かコメントとサインを書いてください、との旨を伝えられ、そんなものを置いてもらえると思っていなかった私は、ここは気の利いたことを書かなければ、とその場で何とか捻り出したのだが、やはり上手く書けなかった。
全体的にたどたどしく余裕のない、左に偏った尻すぼみの情けないサインが添えられた、どうにも垢抜けない色紙が、東京のど真ん中の書店のど真ん中に飾られることになってしまった。「新人っぽくて良いと思います」という担当編集さんの言葉を信じ、これはこれで初々しくて良いということにして自分を慰めた。後日、書店で色紙を見た読者の方の「終電さん直筆の字が、なんだかとても実直な感じがして良かった」というツイートを見た時は嬉しかった。
その約2ヶ月後に追加で色紙を書かせていただく機会があったのだが、最初よりは少しだけこなれた感じで書けるようになったと思う。ただ、コメントは凡庸なものになってしまった。元美術部幽霊部員の名に懸けて、ちょっとしたイラストくらい描けるようになりたい。
インスタもやったほうがいい
前述のサインダメ出し友から、インスタもやったほうが良いのではないかとのアドバイスを受け、それまでプライベートでしかやっていなかったのだが仕事用アカウントも作ってみるかと勢いで始めたところ、想像以上に嬉しい効果があった。
ひとつは、ストーリーズのリアクションの延長で送りやすい構造になっているおかげだろう、TwitterよりもDMが送られてくるのだ。さらにアクティブユーザー層もTwitterと異なり、若い女性からのDMが格段に増えた。
テキストよりも画像優位のSNSの割に、本の感想を長文でインスタに投稿する人も案外多いようで、それをストーリーでシェアできるのもありがたかった。
ファッション系のメディアでの連載だったのだから、連載時からインスタを活用しておけばもっと多くの人に読まれ、もっと多くの人から応援してもらえたのではないかと後悔している。サインとインスタについてアドバイスをくれた友人に対しては感謝しかない。
チヤホヤされすぎると調子乗る問題
拙著の配本日の東京は10年に一度の大寒波が到来していた。そんな中わざわざ書店に買いに行ってくれる人たちがいて、こんなに売れるのか……? と内心思っていたサイン本もだいたいすぐに売れたようだった。みんな忙しくて貧しくて本よりインスタントなコンテンツが溢れかえっているこんな時代に、早く買って読みたいと求めてもらえるというのは、なんと光栄なことなのだろうと噛み締めた。
単著を出したというだけで友人たちに「先生」とイジられるようになり、又吉が芥川賞を受賞した途端に綾部がテレビで又吉を「先生」と呼び出した頃を思い出した。
渋谷スクランブル交差点のトレードマークとも言えるあの大盛堂書店にサイン本を置いてもらえることになったと聞いた時は、「夢がありすぎるな……」と独り言が出てしまった。私にとって東京の象徴的な風景といえば、渋谷駅前のスクランブル交差点だったからだ。
その直後に代官山蔦屋での選書フェアが決まり、中目黒でバイトをしていた大学時代によく代官山蔦屋に立ち寄って自分の本が置かれるいつかの未来を妄想していたので、妄想って現実になるんだな、と思った。いや、選書フェアをやることまでは妄想したことがなかったので、もはや現実が妄想を超えてきていた。
著者献本の連絡作業の過程では、昔から私が一方的に読んでいるだけだと思っていた方や、向こうは私の名前すら知らないだろうなと思っていた方が、実は私の文章を読んでくれていたことが判明することが何度かあって、好きな作家と作家として両想いになれるなら恋愛で両想いになれなくてもいいと思った。
このように発売前後はサイン本作成、献本リスト作成・連絡、選書リスト・コメント作成、インタビュー、エゴサ、イベントなどでただでさえ忙しかったのに、諸々の兼ね合いにより東京の自宅の引越しが重なってしまい、元々キャパの少ない私の頭と家はぐちゃぐちゃになっていたのだが、書籍デビューのみならず新しい部屋も新しい街も居心地が良く、新たな人生の幕が開けそうな高揚感に包まれていた。
新居にはまだ電気もネットもなかった。古い物件ゆえに寒かった。でも楽しかった。幸せだった。夢と希望があったから。そんな、景気が良かった頃の夢追い人みたいな気分だった。
単著出版の前後というのは著者にとってまるで祭りのようなものだと誰かがツイートしていた(改めて検索したけど見つからず)けれど、その通りだと思った。
出版業界や文芸界隈ではほとんど見向きもされないような本かもしれないし、少なくとも世間とか社会とか世界とかの規模で見たら何も起こっていないに等しく、自分の周りだけが忙しなく盛り上がっているだけなのに、それが世界のすべてかのように思えてしまう。社会に目を向ける余裕がなくなっていくのが怖かった。
その極めつけがサイン会だった。私はそれまでイベント等に出た経験がほとんどなく、多数の読者の方と直接会う機会に恵まれたのはこれが最初だった。会場となる書店で私の本を買って応募して特定の日時に足を運んでくれるファンなんて、身内含めてせいぜい10人くらいしかいないのではないかと謙遜でなく本気で思っていたが、ちゃんと定員30人が集まった。
トークイベントのあとに30人1人1人にサインしていったのだが、その際に一言応援メッセージをくれる方が多く、差し入れやファンレターをくれる方もいた。
書き続けていきたいと思った。自分の書いたものが誰かの支えになったという事実が、私の支えにもなるのだと思った。人は他者と支え合って生きていくものだと思うけれど、身近な家族や恋人や友人などではなく、不特定多数の読者に少しずつ支えてもらう、そういう支え合いの形が見えた気がした。
その一方で、承認欲求が満たされすぎる怖さの片鱗も確かに見たのだ。
もっと大規模なイベントをやっている著名人はいくらでもいるが、この世のほとんどの人間は、自分のことを熱心に好いてくれてチヤホヤしてくれる人間30人に囲まれる機会など一生ないことを考えると、十二分に異様な空間である。
SNS上のテキストでチヤホヤされるのとはわけが違う。直接顔の見える形で生身の人間30人から同時にチヤホヤされると、他者承認を過剰摂取しているような感覚があった。自分の書いた本が愛されているだけなのに、書き手としてだけでなく自分の存在まるごと全肯定されて愛されているような錯覚に陥った。
これが例えば月1とかであったら私は間違いなく調子に乗る。おかしくなってしまいそうだと恐ろしくなった。(まあ幸か不幸かそれ以来そういった機会はないので、もっとチヤホヤしてくれて大丈夫です。)
本を出している=すごい人
こうして私は私のそれまでの20代の3年分くらいが凝縮されたみたいに充実した半年間を過ごした。輝いていた。少なくとも気持ちは輝いていた。他人から見てもそれまでの私に比べれば輝いて見えたに違いない。
国立国会図書館に自分の本が所蔵されているのを確認すると、お母さんに抱きしめられているみたいに安心するし、単著があることで初対面の人に自分が何者かを説明するのがかなり楽になった。世間一般的に、本を出している=すごいこと、という認識があり、商業出版をしているというだけで、とりあえずすごい人として扱ってもらえるのだ。
去年、秋の風に吹かれていると、ゲラと格闘していた一昨年の秋が蘇ってきた。半年間の中でも一際輝いていたあの秋を、あの全能感を身体が覚えている。もう一度味わいたい。また本を出したい。そしてまた いつの日か輝くだろう 今宵の月のように
代官山 蔦屋書店さんでの選書フェアでは、私が好きな本の中から、拙著と何かしら通じる部分があると思う本や、これが好きな人は拙著にも興味を持ってくれるのではないかと思う本を、「『シティガール未満』と交差する12冊」と題して選ばせていただいた。(選書コメントも頑張ったので何かの機会に公開したい。)
以下、選書リストを掲載するので何かしらピンと来た方はぜひ。
なお、そもそも連載を始めたきっかけや書籍化の経緯などは、本書及びインタビューで述べた範囲で十分だと判断し、本稿には書いていない。
生活費の足しにさせていただきます