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【読書感想文】妻を帽子とまちがえた男

脳神経科医のオリヴァー・サックス博士の医学エッセイです。

私は呆然とした顔つきになっていたに違いない。だが彼は、立派な答えをした気になっていた。彼の顔には、微笑がうかんでいた。テストは終了したと思ったのだろう、帽子をさがしはじめていた。彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ!妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。

第一部 喪失 1妻を帽子とまちがえた男 より 

きわめて特殊な視覚的失認症の例である。脳の一部に何らかの障害が起き、「帰る時には帽子をかぶる」「傍らに帽子がある」との認識はあり、手を伸ばしかぶるのだが、手にしたものが「帽子」なのか「妻の頭」なのかは認識できない、のだ。
「手袋」を目の前に差し出しても、彼は何をする物なのかわからない。袋のようになっていますね、何かを入れるものなのかな、と手に取って観察している、という具合だ。

音楽家としてすぐれていた彼は、その認識力でどのような生活を送っていたかというと、何をするにもハミングをしていたのである。ハミングをしながら服を着替え、ハミングをしながら食事をとる。歌いながらでなければ、まるで糸が切れたように、呆然と止まってしまうのだ、という。

やがて彼は、絵も描くようになるのだが、その絵は徐々に具体性を欠き、混沌とした線とポタポタと落ちた絵の具のようになっていく。サックス博士は、病気の進行ととるのだけれど、妻の見方は、それを芸術的進歩ととっていた。

この本に登場する「患者」は、失語症だけれど芸術的能力が高かったり、知的障害にもかかわらず数字にとても強かったり(素数を21桁まで言えたりする!)、チックを抱えながら即興性に富んだジャズドラマーだったりしていた。しかし、社会生活を営む上では、不都合で、困難で、様々な支障をきたし、他では手に負えず、脳神経科医のところまでたどりつくのである。

サックス博士は、その患者一人一人を、丁寧に観察をする。過去の症例は1つの知識として持ちながら、彼らの様子を細かく見ていく。似たような症例にヒントを得ながら、けれども少しづつ表れ方の異なる症状を、その人となりと照らし合わせていく。

エッセイ、とは言うものの、医学の知識などないに等しい私には、専門用語やまつわる文献に到底疎く、何度も本書を広げたまま眠りに落ちていた。小難しくてちっとも内容が入ってこない時も、どうにか読み過ごし、言わんとすることを大まかにでも把握しようと、辛抱強く読み、やっと読み終えた。
脳みそから汗が出そうだった。少し出た。

いつもの読書とは違っていた。
けれども、今の私には、その必要がきっとあったのだ。

近ごろの私は、いつの間にか、様々なことをわかったような顔をして過ごしていた。
知らず知らずのうちに、上から目線で物を見たり、中途半端な知識と、勝手な想像で、決めつけて理解したような気になっていた。周りの人に対する想像力をもっと働かせること、丁寧に人と向き合えていただろうか。

脳の一部の障害によって、身体の機能そのものは正常であっても、誤作動が起こる。日常生活を狂わせ、人間関係も壊れていく。
けれども、その障害がその人の個性やアイデンティティにもなり、治療や投薬によって、症状は落ち着くものの、輝かしい個性や活き活きとした才能は失われてしまったりする。症状そのものを診るよりも、その症状を含めた患者の、総合的な物語が描かれていた。

「かくして、天才少女から天才がとりのぞかれておわった。あとには何ものこらなかった。ただひとつの優れた点はなくなり、どこをとっても人なみ以下の欠陥ばかりとなった。こんな奇妙な治療法を考えつくとは、いったいわれわれはどういう人間なのか?」

第四部 純真 23双子の兄弟 より

スケッチに素晴らしい才能をもった自閉症の子供は、治療によって、ものをしゃべるようになったけれど、スケッチはぴたりとやめてしまった。

人間としての幸せは、彼らの豊かな世界は、どういう人生だったろう。

多かれ少なかれ、人は問題を抱えながら生きている。とても複雑で、片方では、素晴らしい才能を秘めているのかもしれない。それをどちらとも抱えながら、人間として精一杯生きている。人間は私が思うよりも、もっと、奇妙で不思議なところを持つものだ。根気よく付き合うことでしか見えないこともある。

私はもう少し、周りと丁寧に向き合っていこう。話を聞こう。わからないことを、わかったような顔をせず、寄り添うことで見えてくる世界があるはずだ。

タイトル「妻を帽子とまちがえた男」に、
「え?どういうこと!?」と、興味本位で手に取ったのだったけれど。
人間の複雑さ、アイデンティティの大切さ、孤独、そして、人と人との交流の大切さ、を考える、一人一人の物語がそこにあった。


 確かに
私に必要な本だった。


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