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ノスタルジーと“物”への愛 『カウント・ゼロ』感想

前作の『ニューロマンサー』からガラッと雰囲気を変えた2作目。
こっちの方が読みやすいという声が多く、実際読んでみて自分もそう感じました。『カウント・ゼロ』は絶版ですが電子化はされていて、Kindleなどから没入ジャック・インすることができる。
普段は寝る前とかに読書することが多いので、正直ipadの光はキツかった。
紙の本ロー・テクが一番。


ストーリー説明

これから読む人向けに『カウント・ゼロ』のあらすじなど書いておこうと思います。最初に頭に入れておいた方が楽に読めると思うので。ネタバレが致命傷にならない類のお話だし。
なお、あらすじの文章は『現代作家ガイド ウィリアム・ギブスン』を参考にしております。

前作『ニューロマンサー』から7年後。合体したふたつのAI、“ニューロマンサー”と“ウィンターミュート”は、バラバラになり、ネットに拡散していた。
それをブードゥー教を信奉する黒人ハッカー集団が“ロア”(神)と呼び、崇めていた。
ブードゥー教ハッカーはマース社の科学者ミッチェルに、生体素子バイオチップという新技術の基礎理論を教える代わりに、ミッチェルの娘を差し出せという取引を持ちかけていた。

ミッチェルは教えられた新技術を娘のアンジェラに埋め込んだ。アンジェラはハードなしで電脳世界に自由に出入りできる存在になる。
ミッチェルはアンジェラがマース社の実験材料にされてしまうことを恐れ、ホサカという大財閥に脱出させる計画を立てる。

一方、大富豪ヨセフ・ウィレクも生体素子に関心を寄せていた。
ウィレクは癌に侵されていて、ブードゥー教ハッカーたちに生体素子の基礎理論を与えたものこそが、自身の不老不死の悲願を達成してくれると考えていた。ウィレクはコンロイという男を雇って、ミッチェルの誘拐を企てる。
同時に、ウィレクは謎の箱アートの製作者が、生体素子の開発者と同一人物であると考えていた。その箱アートの製作者さがしも、マルリイ・クルシホワという美術商に依頼する。

さらにもう一方、ニュージャージーでは新米ハッカーボビィ・ニューマークが初めてのハッキングに挑んでいた。
簡単な仕掛けランのはずが、強力な黒いアイス(攻殻で言う攻性防壁)に引っかかって、死にかける。
しかしそこで、電脳世界に現れたアンジェラに助けられる。
ボビィがハッキングに使ったソフトは、テスィエ=アシュプール社からブードゥー教ハッカー集団が掠め取った生体素子バイオチップだった。
ボビィはソフトの安全性を確かめるためのコマにされたわけだった。
ボビィを救ったアンジェラこそが、ブードゥーの聖典に記されている聖処女であると確信したハッカー集団は、ボビィをニューヨークの雑居ビル、ハイパーマートに匿うも、二組もの不良グループの集団に包囲されてしまう。

さらにさらにもう一方、コンロイの元で働く傭兵ターナーは、マース社から脱出してホサカに逃げ込もうとするミッチェルの護送の仕事を請け負っていたが、逃げてきたのはミッチェルではなくアンジェラだった。
ターナーは襲撃をかわしながら、ネットの彼方から聞こえてくる神の声に従い、アンジェラをハイパーマートまで送り届ける。
ミッチェルはホサカに送り届けられるはずだったが、コンロイが裏切り、大富豪のウィレクに売り渡そうとした。ミッチェルは自殺し、標的はアンジェラへと向く。そしてターナーとアンジェラを包囲すべく、ハイパーマートには不良集団が集結していた。

箱アートを探していたマルリイは、廃棄された軌道上のデータベースにその出どころを突き止める。
ウィレクに不信感を抱いたマルリィは裏切って、謎の箱アーティストに危険を知らせようとする。
そして箱アーティストの正体とは3ジェイン
合体したAIの名残りが、アートを生産し続けていたのだ。

ターナーはボビィたちと合流して、アンジェラをコンロイに渡すまいと、ジェイリーンというハッカーを探す。
ボビィが電脳空間に入り込むが、ウィレクの構造物に吸い込まれてしまう。
そこにブードゥーたちの崇めるロアが現れ、ボビィを助ける。
ボビィはジェイリーンと接触し、コンロイのいるビルを爆破する。
包囲していた不良グループたちも次第に解散して、一件落着。
ブードゥーたちはアンジェラに仕え、ボビィもそれに同行した。
ターナーは一人何処かへ去っていった……。

伊藤計劃氏のレビュー

実は『カウント・ゼロ』のAmazonのページには密かに伊藤計劃氏のレビューがあったりする。下記の通り。

メランコリックで、ノスタルジックで、ほんのすこしウェット。これは多分、ギブスンの長篇の中ではいちばんきれいな小説かもしれない(短編では「クローム襲撃」収録の「冬のマーケット」がとてもきれいだ)。
たしかに「ニューロマンサー」のインパクトはない(続編だもの)。けれどこれは旗振って人目を惹くようなタイプの小説でもない。「ニューロマンサー」よりいささか地味だけれど、ぼくはこれが「ニューロマンサー」より好きになり始めている。この物語のクライマックスはギブスンの小説の中では最もきれいで切ない。新聞のきれはしやレースのはぎれなど、かすかな記憶の断片たちを封じ込めたちいさな箱のオブジェ。雨のガウディ。そんな、すこしノスタルジックな風景のイメージが、読み終えたあとに残る。
この小説にはいつまでも心に引っ掛かってとれない、ちいさなちいさな痛みのようなものがある。それはものすごくかすかなテクスチャーみたいに埋め込まれているから、それを感じ取れなければ、ただ「地味」な小説で終わってしまう可能性もある。でもこれは多分、電脳空間3部作の中ではいちばん詩的な作品だ。インパクトでなく、静かに横たわる美しさを求めているのなら、ぼくは「ニューロ」よりこちらを推す。
と、地味地味書いてきたけど、アクションもたっぷり(企業傭兵のターナーがかっちょいい)、美少女あり(アンジイかわいい)、とキャッチーな要素が「ニューロ」より濃いのは不思議なところ。そういう意味では「ニューロ」より読みやすいかも。訳も「ニューロ」よりは抑えめで落ち着いているし(あの訳で挫折した人でも、多分読めると思う)。

amazonカスタマーレビューより引用

『カウント・ゼロ』の的確で核心をつく文章だと思います。
丸っと引用しちゃったけど大丈夫かな。
伊藤計劃先生はニューロマの方にもレビューを書いていて、ギブスンの作家性を、場所を描く作家として喝破している。
JGバラードの小説を思わせる廃墟感が小説の中に詩的な美しさを醸成しているのだ。
『カウント・ゼロ』においては、ますますその傾向を強めているように思う。
場所の印象を描くという試みは『ダンボール都市13景』と言う短編で、突き詰めて描かれているので、伊藤先生の指摘は全く正しい。

ジョゼフ・コーネルの箱

作中で重要なモチーフとして出現するジョゼフ・コーネルの箱
コーネルはアメリカの現代アーティストで、木箱の中にオブジェを散りばめたアートで知られる。
コーネルの芸術はノスタルジーを志向していて、過ぎ去った世界を表現し続ける。
ギブスンもこの孤独な芸術家に共感を寄せることがあったのだとしたら、例えば『ガーンズバック連続体』のような作品の見方もガラッと変わってきそう。

作品のなかに漂う廃墟感とノスタルジーは、SF、未来、ハイテクのような語の対極の概念で、電脳世界というディストピアへのアンチテーゼだと考えたら、めっちゃ面白い。
単に物質的な豊かさのために、物を所有する人もいれば、精神的な理由で物を所有する人もいる。“思い出の品”とか言われるようなものは、ガラクタであっても過去の記憶と結びついていて、それを媒介にして永遠に新鮮な記憶を呼び覚ます。その人の時間が封印されているとも言えるのかな…。

僕自身も、紙の本を何冊も棚に並べているし、CDやレコードで音楽を聴いていたりする。物に対する愛着は、情報化した世界からアイデンティティを奪還する行為なのかもしれない。

千葉県佐倉市の川村美術館にはコーネルの箱の実物が展示されているそうです。千葉市チバ・シティだったら面白かったのに。
見に行ってみたいです。

そんなこんなで、『カウント・ゼロ』初読の感想は、廃墟/ノスタルジーと電脳空間/ハイテクという異なる概念が融合したイメージが、とても興味深かったです。

余談など

アマプラで配信されている『ペリフェラル』っていう海ドラがあるんだけど、そういえば翻訳すらされていないギブスンの長編にペリフェラルってのあったなーって思ってたら、原作じゃないか。

ドラマ化されてんじゃん。ギブスンが。JM以来では? 映像化。

知るのが遅すぎるぜ俺。見るかチクショウ……!

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