#1鳴子温泉と遥か彼方の銀河系
「英語なんて言葉なんだ、こんなもんやれば誰だってできるんだ」と叫んでいた某有名塾講師がいたが、その意見自体には大いに賛成だ。外国語が嫌いなわけではない。実際、英語の実績が極端に悪かった訳ではなかったし、街で迷子になっている外国人に「あっちやぞ」と言うくらいのことはできる。ただ、思っていることが口に出てくるまでのタイムラグや、「これであってるんだっけ」と逡巡することに対してのストレスは俺にとって看過できないものだったので、正直喋らずに済むならそれに越したことはない。
苦手意識を払拭するために好きな映画の一つであるスターウォーズ(EP4)の字幕抜き視聴を試したこともあったが、何度やってもジェダイマスターのオビ=ワン・ケノービが出てきたところで力尽きてしまう。ルークが自らに秘められしフォースの力を覚醒させているとき、俺は俺の中に眠っているはずの言語能力とともにこたつですやすや寝ていたので、ただ単に俺の苦手意識だけが増長していっただけの受験期だったように思う。もし今の俺がどうしても英語を喋らなければいけない場面があれば、単語がスムーズに出てくるように直前に10分ほど脚本や参考書を読む時間を与えてほしい。脳内で文章を組み上げている時間ほど非生産的な生産過程はない。
そんなことを真剣に考えるくらいには外国語は苦手だ。
だから、よりによってこの丸腰のタイミングで、そんな場面に出くわすのは避けたかった。
「宇sンへ宇fhおるあhg@おあhrg」
隣の老爺が何か俺に話かけている。
全く分からない。
――そうですね。
苦し紛れの一言である。会話が成立していることを願うしかない。
老爺はこちらに目をくれ、くしゃっとした笑顔を覗かせた。
どうやら最初のサーブを打ち返すことに成功したらしい。
いけるかもしれない。
「fンヴ絵@宇伊部アエ宇ヴィ伯母れに絵bfdbふぁづbんt?」
「佐生vbfうあgyyヴあら?」
もうだめだ。降参だ。
単語どころか文節も悉く捉えられない。2年くらい前に受けたセンター試験のリスニングテストが如何に生易しいものだったかが今ならわかる。
スピーカーから流れる無機質な音声情報ではなく、双方向性の活きたコミュニケーションだからこそ直面する巨大な壁が、俺と老爺の前には横たわっている。
―――そうかもしれないですね。
先の言が疑問形であることを信じた、最大公約数的な回答だ。というかもうこれしか選択肢がない。
老爺は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにHAHAHAと大きく笑い出した。
俺は一体何をしたのだ、限りなく無回答に近い回答をしたつもりだったのだが。
いずれにせよこれ以上のラリーには耐えられない。今の俺はガンジーより非武装だからもう次の策はない。絶体絶命だ。物語ののっけから銀河帝国に滅ぼされかけてる反乱軍の姿が重なる。ジェダイなら何とかしてくれたりするのだろうか。だったら今すぐ俺を助けてほしい。助けてオビ=ワン・ケノービ。
一通り笑った老爺は満足したようで、「またな」と言って湯煙の向こうに消えた。
結局、彼が発した標準語は、その一言だけだった。
老爺の姿が見えなくなったのを確認して、俺もすぐに湯舟を出た。限界だったのは精神的なものよりもむしろ肉体的なものだったようだ。なんだよ43℃って。
温泉に浸かっている間にも雪は少しずつ積もっていたらしく、外は真新しい雪化粧をしている。山形県と宮城県の県境に位置するこの静かな温泉街は鳴子温泉と言う。駅に向かう道には人影も少ない。
それにしてもギリギリの戦いだった。九州なまりのうすっぺらい標準語を話すこちらと生粋の東北弁を扱う老爺とではそもそも勝負が見え切っていた。相手が一人じゃなかったら完全敗北を喫していただろう。不明瞭な言葉しか発しない政治家の弾劾裁判のような光景が浮かぶ。
俺の願いは銀河のどこかに通じたのかもしれない。そういえばさっきの老爺も心なしかアレックギネス演ずるオビ=ワンに似ていたような気もしてきたし。
若いころはさぞおモテになったことだろう。今回はあいにく全裸だったが。
いずれにせよ、異文化交流は一筋縄ではいかぬことを思い知る貴重な経験になったのは確かだ。
「ネイティブ ヤマガタン」
口をついたひとり言は、もう誰も居ない静かな駅で路頭に迷っていた。
ちなみに、鳴子温泉は厳密には宮城県に属しており、山形県ではないことを俺が知るのはこの数年後のことである。
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